この国はいつだってうるさい
閉じられたカーテンの隙間から薄く差すのは、月明かり。夢の合間に寝返りを打った輝夜は、ベッドサイドの闇に気配を感じて飛び起きた。
「あっ――」
小さな手に、口を塞がれた。暗夜だ。輝夜の耳元で、小さく囁く。
「輝夜。僕は明日、あの壁を壊す。壁が壊れたら人間だってチャンスと思って攻めてくるだろう。そうしたら、戦争ができる」
暗夜の手を、掴んで引き剥がす。まだ眠たい目を平らにして、輝夜は暗夜の笑顔の形に歪んだ目をにらみつける。
「駄目だよ。ぼくは戦争なんかしたくない」
「なんで? 人間と魔物の争いをなくしたいんでしょ? そのために、一度大きな戦いだって必要だよ」
「争いをなくすための争いなんてないよ。ぼくはそんなこと、絶対に許さない」
掴んだ暗夜の手をぎゅうっと握る。あはは、と、暗夜が小さな声で笑った。
「だったらおまえ、僕を止めてみろよ」
「止めてほしいの?」
薄闇の中に響く、輝夜の声。暗夜の足元から、靴底で床を叩く軽い音がした。
「うるさい。僕はお前を踏み潰して先に進むんだ。僕にはもう、なんにもいらないんだ」
「なんにもいらなくないから、苦しいんだよね? ねえ暗夜、少し休もうよ。それからどうするか考えたって遅くないよ」
そう言って、輝夜が自分にそっくりな暗夜の身体を引き寄せて、抱きしめる。輝夜よりも少しだけ骨ばって痩せた背中を撫でると、暗夜は少しの間だけ黙ってそれを受け入れた。
輝夜の肩をそっと押して、足元に向けて暗夜が声を落とす。うつむいたその顔は闇に溶けて、輝夜からは表情が伺えなかった。
「……ねぇ輝夜。おまえ、僕と戦ってよ。さっきは邪魔が入って最後までできなかったでしょ?」
「……わかったよ。そんなに言うならいいよ。ぼくは、きみを殺してでも止める」
息を吐いて、輝夜がベッドから立ち上がる。暗夜が低い声で笑った。
「ありがとう、輝夜。殺してあげる。おまえを殺して、僕はこのままずっと魔王でいて、それで、全部壊すんだ」
「あれ、ぼくまだ魔王返してもらってないの? じゃあぼくは、勇者としてきみと戦うね」
輝夜も暗夜に笑い声を返して、ふたりは静かに部屋を出た。
*
淡い月明かり。風はない。足元には、廊下の壁からくすねてきた魔導ランタンが数個置かれて、ぼんやりと灯っている。ランタンによって暖かい色に染まった砂が、四つの靴がもぞりと動くたびに舞い上がる。
「来い、勇者……おまえの正義の心、この魔王が叩き潰してくれる」
演技がかった口調で、暗夜が言った。鞘から抜かれた剣が、暗夜の手元で小気味いい音を立てる。
「行くぞ、魔王……おまえの野望、このぼくが止める」
輝夜も仰々しいせりふを返して、剣を抜いた。
兵士たちの修練場。あたりには誰もおらず、ふたりきり。互いに少し離れた位置で、剣を構えて見つめ合う。緩めた口元を引き締める。深い呼吸の音が聞こえる。凪いだ心で見つめあって、輝夜が足を踏み出した。
乾いた高い音。砂埃の匂い。連続する剣戟音と、衣服の擦れる音。距離を取る。浅く、早い息。暗夜が外套を脱ぎ捨てた。
暗夜の足元から、砂埃。金属が噛み合う軽やかな音。輝夜が薙いだ切っ先を躱して、剣を振る。輝夜の右頬が裂かれて、血の筋が頬を走る。
間合いを取ろうとした暗夜を、輝夜が詰める。よく研がれた刃先が暗夜の身体を掠めて、脇腹の衣服を裂いた。
ふたりの距離が離れる。輝夜が顎先の汗を袖口で拭う。暗夜が輝夜に駆け寄った。
きぃんと、硬質な音。火花が散った。押しきろうとする暗夜と、食い止めようとする輝夜。輝夜の踵が、地面を躙って砂が舞う。
その場で回転するようにして、輝夜が暗夜の剣を解いた。よろめいた体制を立て直そうとした暗夜は、地面を照らしているランタンに足を引っ掛けて、地面に尻もちをついた。
輝夜は暗夜から距離を置く。暗夜は輝夜に鋭い視線を向けて、取り落とした剣を拾って立ち上がる。
「真剣にやれよ」
悪態を吐きながら、暗夜が輝夜との距離を詰める。再び、輝夜と剣を押し合う。
「やってるよ。コケた君に勝ったって嬉しくないもん」
「おまえの方が勇者に向いてるよ」
「そうかもね」
微笑み合って、離れた。互いに視線を絡めたまま、息を整える。鋭く息を吐き、同時に足を踏み出した。
暗夜が上段から振り下ろした一撃が、輝夜の肩口から血を噴き出させる。しかし、深く食い込むことはなかった。輝夜が下段から放った一撃により、暗夜の指先から剣が離れたのだ。どさっ、からん。重たい音と軽やかな音が、同時にふたりの足元を彩った。
月明かりの元で妖しく光るどす黒い液体が、輝夜が握った剣を伝ってぽつり、ぽつりと落ちて、地面に転がった暗夜の手のひらに落ちる。またたく間に赤く染まっていく暗夜の白い手。そのずっと先にある腕の切断面からは、赤い血が流れ落ちて地面を赤く塗っている。
二の腕の中程から消失した自分の左腕を抑えて、暗夜が柳眉を寄せた。深く息を吐く。輝夜の真っ黒な瞳を見つめて、目を閉じた。
「僕はもう剣を握れない。もう殺してくれ」
暗夜の喉仏に、輝夜が差し出した剣の切っ先が突きつけられる。皮膚を薄く裂いて、赤い血が流れる。
細められた暗夜の目から、涙が零れる。彼は、笑っていた。
「ねえ暗夜。ぼくが勝ったんだ。きみのこと、ぼくの好きにしてもいい?」
「奴隷にでもするつもり? 嫌だよ。殺してくれ」
「……ごめん。じゃあ勝手に好きにする」
「はぁ?」
素っ頓狂な声をあげた暗夜を突き飛ばして、輝夜は地面に転がった暗夜の剣を遠くに蹴りやった。自分が手にした剣も遠くへ放る。立ち上がろうとする暗夜へ向き直り、輝夜はその膝の上にどすんと腰を下ろした。
「痛い! 重いよ何するんだよ」
「うるさいな。ぼくそんなに太ってないもん」
唇を尖らせて文句をつけながら、暗夜の肩を押す。暗夜が起き上がれないように体重をかけてから、真っ赤に染まった暗夜の腕に顔を近づけた。
暗夜は目を丸く開いて、その中で虹彩を暴れさせる。暗夜の靴の踵が、砂をめちゃくちゃに蹴散らして空気を汚した。
「キー――」「キーナじゃない! ぼくは輝夜だ!」
暗夜のか細い声を、輝夜の大音声がかき消す。輝夜は暗夜のまだ血が滴る腕を捕まえて、その傷口に口を付けた。
「うぁっ……ぐっ……」
暗夜が呻く。身をよじって抵抗しようとするが、うまく力が入らないようだ。輝夜の手も口も離れてはくれず、彼女の舌は痛みよりもさらに上にある苛烈な熱を暗夜の傷口に与え続ける。
暗夜の呻き声が浅く早い呼気音に変わった頃、ようやく輝夜は暗夜の傷口を開放した。静かに立ち上がって、口を拭う。狼狽が見える暗夜の黒い目を見つめて、輝夜がまだ赤く染まっている唇を開いた。
「ここで罪を犯したひとは、みんなぼくが食べるんだ。そうしたら、その罪は赦されるんだよ。次の生はより善く生まれられるんだって。だから、きみがぼくのもとにいる限りは、きみが今までに犯したすべての罪は赦される。ねえ、それじゃダメかな?」
「……」
暗夜の目が、そっと地面を撫でる。黒く染まった土。そこに落ちている、少し前まで自分の肉体の一部だったもの。まっすぐにこちらを見つめてくる輝夜の黒い瞳を見つめ返して、暗夜はぼんやりとした声を上げた。
「気持ち悪っ……」
「いじわる!」
肩をいからせて声を張り上げる輝夜。
汗で湿った髪を残った片手でかきあげて、暗夜が乾いた声で問いかける。
「魔物も人間もいっぱい殺して、キーナも殺して、こっちで魔物もひどい目に遭わせて、盾の国まで捨てた僕でも赦されるの?」
「うん。ぼくはまだ甘ったれだから、全部赦すよ。本当は、ぼくはきみを許すべきじゃないのかもしれない。でも、ぼくはきみを赦したいよ。ねえ、お兄ちゃん」
眼前に差し出された小さな手のひら。その手を取って、輝夜の手にもたれながら暗夜が立ち上がる。はっ、と自嘲的に息を吐いた。
「いいよ、もう、どうでも。好きにしろ。甘ったれでわがままで綺麗事ばっかで、おまえ、本当にむかつく」
「うん。暗夜には死なないでほしい。それに盾の国のこともキーナのことも忘れてほしいし、ぼくの子どもたちにひどいこともしないでほしい」
「本当にわがまま!」
「ねえいいでしょ? かわいい妹のわがまま聞いてよ、お兄ちゃん」
高く作った声で、輝夜が言う。暗夜を見つめてその身体に抱きついて、柔らかい頬をそっと暗夜の頬に寄せる。寄せ合った頬と反対側にある輝夜頬を、暗夜がきゅっとつまむ。
「かわいこぶんな。鬱陶しいけどしばらくは聞いてやるよ。でも大人しくしてるのに飽きたら知らないからな。覚悟しとけよ? ここで殺しておけばよかったって思うと思うぞ」
「うん。暗夜、結構しつこいね?」
「どっちがだよ」
「うわーーーーー!!!!!」
城中に響き渡るような音量の叫び声が、ふたりの鼓膜を揺らした。眼球がこぼれそうなほど目を開いたふたりが声の方を向くと、こんがり焼けたパンみたいな色のふさふさした魔物がものすごい勢いで駆け寄ってきた。
「魔王様ー! 何、何、どっちですか!? 手当しなきゃ! ひと呼んで、えっ医務室!? うおおオレが触ったら毛が――」
あまりの勢いに硬直した輝夜と暗夜を差し置いてひとりで騒ぎ始めたファーグの声に寄せられて、ぞろぞろと人が集まってきてはファーグと同じトーンで騒ぎ出す。しばらくの後に現れたアドレインまで騒ぎ始めて、早朝の修練場は、なんというか地獄絵図だった。
密やかに終わるはずだった戦いの結末はあまりにも騒がしかったけれど、そうして勇者は魔王になって、盾の国から勇者が消えた。輝夜は再び魔王に戻り、魔王でも勇者でもなくなった暗夜は終生、盾の国には帰らなかった。




