変わった気持ち、変わらない決意
「ところで、輝夜様はコーヒーが苦手なのですが」
眼前で放たれた、アドレインの涼しい声。暗夜は頭の血が下がるのを感じた。
視界がぐらつく暗夜の目の前で、アドレインが腰に帯びた剣を抜いた。
「貴様、誰だ? 輝夜様はどうした」
いつになく低い彼の声が地面を這って、暗夜のつま先に触れる。その声に弾かれるように、暗夜も抜剣した。
「誰だっていいだろう? 輝夜は今、僕の代わりに盾の国にいるよ。最悪の環境なんだ、きっと、酷い目に遭ってるよ」
「そうか」
アドレインの声。剣の切先が、暗夜の鼻先に向けられる。暗夜は動かず、窓の外から差す日光を浴びて光る切先を見つめる。アドレインが動いた。
室内に散った火花がふたりの目を灼いた。薄い金属同士が擦れ合わされる、不愉快な金属音。互いに離れて、間合いを取る。
剣呑な空気。黙して見つめ合うと、外からの音がいやに大きく聞こえる。
――今日はなんだか、外が騒がしい。おそらく階下からだろうか、遠くの方から、聞いたことのある調子の叫び声が聞こえてきた。
ここに住む者たちは皆一様になんだか間抜けていて、堅苦しい壁の国とは違った柔らかさがある。その中で時折こうして命のやり取りが行われるのが、あまりにも異質に感じられる。
暗夜が深く、長い息を吐く。外からの叫び声が、だんだん大きくはっきりとしてきた。
「どっちかわからんけどとりあえず捕まえろ!」
声と足音が近付いてくる。これはファーグの声だ。
「にがすな! 部屋に入れるな!」
ファーグの隣にいたやつの声だ。
「わー、待って、待ってよ! あとで説明するから!」
――輝夜の声だ。アドレインも気がついたようで、切長の瞳を丸く開いて、ドアの方に金色の虹彩を向けている。暗夜が動くとその目はこちらに吸われるように動いて、剣を受け止められる。手元から湧いた金属音は、外からの足音に紛れて消えた。
バタバタとした足音が、部屋の前で止まる。
「よっし! 動くな――あれ、この匂い……?」
「わーえっち! 離して! あと少しなのに!」
ドアノブが動いて、緩慢な、あまりにも緩慢な動きで木製のドアが開けられた。ドアの隙間からとってを掴む小さなてのひらが見えたかと思ったら、その手の持ち主と、その細い腹をがっしりと捕まえているファーグの巨体がべちゃりと地面に落ちてきた。
それを避けようとして、室内で剣を噛み合わせていたふたりは反射的に離れる。
「うぁー重いよー、あははっ、くすぐったいから嗅がないで……っ」
ファーグの巨体にのしかかられてうめき声を上げる輝夜。その首筋に鼻先を押し当てて真剣に匂いを嗅ぐファーグ。いまいち緊張感のないふたり。
「輝夜様! ファーグ貴様、輝夜様から離れろ!」
アドレインにぐいっと顔を押されて、強制的に輝夜から引き剥がされるファーグ。
「うぐぅ……だって、さっき魔王様と会ったところなのに、また入ってきて、絶対こいつ偽物だと思って……」
もごもごと喋りながら輝夜をエスコートしつつ立ち上がったファーグは、抜き身の剣を構えた暗夜とアドレインの存在に気がついて、状況を理解したらしい。顔全体が茶色い毛に覆われていているので視認はできないが、おそらく青ざめて廊下の方へ向けて叫んだ。
「おい! ひとを呼べ! なんかやばムギュ」
廊下に向けて叫んだファーグのマズルを、輝夜が掴んで止める。
「ああまって、呼ばないで! オクリさんを呼んで」
マズルが開かないように固定している輝夜の手ごとぶんぶんと頭を上下に振って、輝夜から解放されたファーグは走って行ってしまったらしいもうひとりを何か叫びながら追うようにして消えていった。――騒がしいやつだ。
ファーグの背中を見送ってようやくひと息ついた輝夜が、ゆるく息を吐いた。間抜けなやり取りに興が削がれつつも未だ剣呑な空気を醸しているふたりに視線を向けると、目を細めた。
「アド、ごめんね、ただいま」
「輝夜様ぁ……!」
アドレインが、いつものように口元をだらしなく緩ませて笑った。それから鋭い視線を暗夜に向けたのを見て、輝夜が手で制して剣を納めさせる。剣をしまったアドレインは、輝夜を暗夜から庇うようにして輝夜の左前に立つ。鋭く息を吐いて、暗夜が剣を納める。
輝夜はアドレインの身体を捕まえて、一歩前へ進み出る。アドレインを背後に控えさせて、暗夜の闇色の目をまっすぐに見据えた。
「暗夜、きみはぼくとの約束を破ったね。ぼくの大切な子どもたちを傷つけた。だからぼくは、きみを止めに来たんだ」
「ああ、そうだね、約束、破っちゃった。でも、僕はこうしないと救われないんだよ」
暗夜が、目を細めた。輝夜はそっと目をまぶたを下ろして、いつになく細い目で暗夜を睨む。
「きみひとりのために、他の人たちを犠牲にしてもいいの?」
「……じゃあ、僕の今までの人生は何だったの? あいつらの幸せのために、僕ひとりだけがずっと不幸でい続ければいいの?」
輝夜はしばしの間、口をつぐんだ。伏せた視線で床を撫でて、暗夜に目を向ける。
「……ねえ暗夜。このまま、盾の国のことなんか忘れてここで一緒に暮らそうよ。向こうのことばっかりにこだわってたって、きみはずっと不幸なままだよ?」
「おまえに、僕の気持ちがわかるかよ」
「わかるわけないでしょ。ぼくはきみじゃないんだ。
どうしても向こうのことが気になるなら、みんなで一緒にどうしたらいいか考えようよ。ここではきみはひとりじゃないよ」
「おまえはいつも綺麗事ばっかりだ。ここまで来て、今さら退けないよ。僕はもう、全部壊すしかないんだよ」
「父さんも、テトラも、ぼくもみんな壊すの?」
輝夜が問うと、暗夜の黒目が、ふらりと上を向いた。虫でも追うように空を彷徨ってから、再び輝夜の目に止まる。
「……テトラ、あいつ元気だった?」
ひとりごとのように放たれた一言。輝夜が柔らかく目を細めた。
「風邪ひいちゃって寝込んでるよ。きみのことずっと心配してたよ。心配なの?」
「どうでもいいよ。どうせあいつも死ぬんだから」
「ふぅん? じゃあなんで聞いたの?」
「うるさい。気まぐれ起こしたっていいだろ」
「そうだね。父さんもきみのことずっと心配してたよ」
「……」
暗夜は、口を閉ざした。長い沈黙。空気が痺れる音だけが響く室内。静寂を割ったのは、暗夜が剣を引き抜いた音だった。
「輝夜、僕はおまえが、羨ましかったよ。いい環境に恵まれて生きて、いつまでだって綺麗事言ってられるんだ」
鋭く光る切っ先が、輝夜の顔に向けられる。輝夜は口元を緩めたまま、それを見つめる。輝夜の背後でアドレインが動いた靴音がした。
「おまえが僕の妹だって知ったとき、本当は守ってあげようと思ったんだ。でも僕は、それじゃあ幸せになれないんだ。向こうにいるお前ごと、父さんも、テトラも、みんな、全部壊して、僕の過去をまっさらにして、そうしたらようやく幸せになれる気がするんだ」
懺悔でもするような、小さな声。窓の外から、風の音が聞こえる。暗夜の目がふわりと窓に向けられて、輝夜の目に戻る。
「だから輝夜、僕はおまえを殺す」
輝夜は静かにうなずいて、暗夜を見つめ返す。
「暗夜、戦う前に、ぼくの話も聞いて」
輝夜の背後で動いたアドレインの手を掴んで止める。
「――ぼくも、きみが羨ましかったよ。辛いこともいっぱいあったろうけど、きみは勇者で、ぼくみたいにお飾りじゃなくて、自分の手でちゃんとみんなを守ってるんだ」
床に目を落として、息を吐く。輝夜が靴底でにじった床には、うっすらと血の跡が残っていた。
「向こうに行ったってぼくはずっとお飾りのままだったよ。向こうで人も魔物も殺したけど、ぼく一人じゃ何もできない。向こうにきみが帰ったときに少しでも過ごしやすくなるように頑張ろうと思ったんだ。でも、余計に状況を悪くしただけだった。ごめんね」
アドレインに目を向ける。彼の表情に笑顔はなく、ただ、細い目でふたりの成り行きを見つめている。
「きみが言ったように、ぼくはずっと、守られて生きてきたんだ。守られて、そばで守ってくれるひとを犠牲にしてきた。でもそれじゃあだめなんだって思ったんだよ」
暗夜を見つめる輝夜。向けられた切っ先の奥にいる暗夜は、唇を引き結んで真っ直ぐに輝夜だけを見つめ返してくる。
「暗夜。ぼくはきみと戦いたくないよ。きみを殺してでも止めるって思ってここまで来たけど、でも、やっぱり嫌だよ。きみの気持ちは変わらない?」
静かな問いかけ。かすかに震える輝夜の声。暗夜から返ってきた言葉は、ごく短いものだった。
「変わるわけないだろ」
「――わかった。じゃあ、やろうか」
輝夜が、剣を抜いた。




