コーヒーが好きなやつ
暗夜が城に戻ると、入口の大きな扉は開いていた。扉の横にはファーグともうひとりの魔物が立っていて、暗夜の姿を捉えると器用にマズルを歪めて笑いかけてくる。
「魔王様おかえりなさい! 朝帰りとは大胆ですねえ!」
「昨日は大変でしたよ! アドレイン様とオクリさんが喧嘩しちゃって……もう凄かったです。魔王様、早くアドレイン様のところにいってあげてください」
「うん……」
頷いて、暗夜は彼らから遠ざかる。城内は朝餉のいい匂いがする。今日はミルクのスープだろうか。少し前に食べたけれど、結構おいしかった気がする。
ひとけのまばらな廊下を歩くと、暗夜の足元から硬質な音が湧く。冬の朝の凜とした空気を割るように、こつり、こつりと音を鳴らしながら歩く。
階段を登った。書庫の隣が輝夜の部屋だ。その隣は、アドレインの部屋。暗夜は輝夜の部屋を通り過ぎて、アドレインの部屋の前に立つ。小さな手で扉を叩く。しばらくの間、静寂。小さな足音がして、のちに扉が開いた。
「おかえりなさい」
いつもと違う、落ち着いた声色。彼の金色の目は普段より落ち窪んでいて、どうやら彼は、昨夜眠れなかったようだった。
「ただいま。ごめんね」
暗夜は俯く。アドレインから返答はない。俯いたまま、黒目だけを彼に向ける。疲れた容貌のアドレインが、ぎこちない動きで目を細めた。
「ご無事でよかったです。朝食は摂られましたか?」
「うん。きみは?」
「私はまだです。お疲れでしょう? 輝夜様のお 部屋で休んでいてください」
そう言って、腕につけた時計に視線を落とした。文字盤の真ん中で、薄紫色の魔導石がきらりと光る。
「今日は二時間後からいつもの集まりがあります。グロー様はお休みです」
「それまでは暇なの? だったら、寝ててもいいよ?」
「いえ、そういうわけには行きませんので」
首を振って返された。顔を伏せた暗夜の頭頂に、アドレインの静かな声が降ってくる。
「今日は外出してはいけませんよ」
暗夜は素直に顎を引いて、踵を返して輝夜の部屋に入った。
窓の外で活動し始めた使用人たちを眺める。ベッドに腰掛けて、布団で眠っているような形で横たえられている猫のぬいぐるみを取り上げて膝に乗せる。洗ったとのことだったが、グローが夜襲してきた時に飛び散った血の染みは消えなかったようだ。ぬいぐるみの白い頬には、赤茶けたいびつな水玉模様が残っている。
わたが詰まっただけのただのぬいぐるみでも、ずっと膝に乗せていると段々と暖かくなってくる。今朝までいたあの小さな家の中で、ユユを膝に乗せたことを思い出す。彼の方がずっしりと重さがあったけれど、このぬいぐるみみたいに暖かかった。
他者の体温と重みを感じると、暗夜の心の中にずっとある埋めきれない孤独感が、少しだけ和らぐ。盾の国に何人かいた彼女たちは、暗夜の心を埋めるために縋っていた。
ここには彼女はいないけれど、自分に心を向けていない彼女たちよりも、もっと暗夜の心を埋められるものが森の中にはある。自分の居場所は盾の国にもこの城にもないけれど、あの森になら、もしかしたらあるのかもしれない。
ぬいぐるみを抱きしめたまま、ベッドに仰向けに倒れて天井を見る。何もない天井。窓から差す爽やかな光が、天井に茫洋とした闇を残している。
扉がノックされた。反射的に暗夜がベッドから起き上がりながら返事をすると、扉が開かれる。部屋に入ってきたアドレインは手に白いポットを持っている。香ばしい匂いがする。コーヒーだ。
「コーヒー、淹れたてなので飲みませんか?」
暗夜が頷くと、彼はぎこちなく目を細めた。
部屋の中央に置かれたティーセットにコーヒーを注ぐアドレイン。慣れた手つきを見ながら、暗夜は椅子に座る。
鼻腔をくすぐるいい匂い。テトラの部屋も、いつもこの匂いがした。彼はコーヒーに凝っていて、ちょっとした手隙のたびにコーヒーミルの改良に勤しんでいる。彼の中で改良がうまくいった時には淹れたてを暗夜にもご馳走してくれたけれど、暗夜には味の違いはよくわからなかった。けれど、いつも無愛想で表情の変化がわかりにくい彼がその時に限ってはわかりやすく上機嫌なのだ。彼の淹れたコーヒーを飲むのは、暗夜は結構好きだった。
暗夜は今、盾の国を壊そうとしている。それが意味することは、向こうに置いてきた父親とテトラを手にかけるということだ。盾の国を潰して、彼らだけ救うなんて器用な真似は暗夜にはできない。
アドレインが注いでくれたティーカップを手に取る。ゆっくりと息を吐くと、深いチョコレート色の水面が波立った。まだ湯気の立つそれにそっと口をつける。熱かったので味見程度に少し啜って、ソーサーに置く。青い花柄の隙間から白い犬が顔を出している変わったデザインのティーセット。これは輝夜の趣味だろうか。それともアドレインの趣味だろうか。
暗夜がアドレインに目を向けると、金色の虹彩がこちらを見ていた。
「まだ熱いですよね。眠気覚ましにはちょうどいいです」
彼の目が、テーブルの中央に向いた。ティーセットと同じ柄の皿に置かれたクッキーを見て、彼の目は再び暗夜に向けられる。
「クッキーも焼きたてなんですよ。お腹がいっぱいでなければどうぞ」
「うん」
粒の大きな穀物が練り込まれたクッキーを一つ手にとる。切って整形しているようで、クッキーの上面には綺麗に切られた縦長の穀物が見える。小さなそれを一口で口に入れる。ティーカップを口から離したアドレインが、中身が半分ほどになったそれを手元のソーサーに置いた。
暗夜も彼に倣って、コーヒーを一口、二口。舌の鈍い暗夜にはテトラのコーヒーとの違いはわからなかったけれど、テトラが飲めばまた違った感想を抱くのだろうか。今の自分にとって余計な感想を振り切るように、暗夜はカップをソーサーに置いた。アドレインと目が合う。
テーブルの上の皿とカップが全て空になった。アドレインが立ち上がって、テーブルと椅子を壁際に寄せた。彼の行動の意味はわからなかったが、暗夜も彼がしたように立ち上がってまだ座面に自分の体温が残る椅子を壁に寄せた。
広くなった部屋の中央で、こちらを見ていたアドレインと目が合う。彼の目はいつもと違う調子で細められていた。
「――ところで、輝夜様はコーヒーが苦手なのですが」




