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逃亡勇者、魔王になる  作者: ねさかなこ
6.輝夜の覚悟

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冷たい手

 身体が熱い。狭い部屋に、咳の音だけが響く。今日も魔物は来たようだが、勇者の様子を見て代わりに兵士たちが派遣されることになった。国から家畜のような扱いを受けている勇者だが、民の平和の象徴だ。陰でどんな扱いをしようとも、失っては困るのだろう。


 ベッドに横たわった輝夜の横顔は、わずかに上気してうつろだった。

 輝夜と同じように乾いた咳をこぼしながらベッドの横に座るテトラは、輝夜の伏せられた睫毛をぼんやりと見ている。輝夜の目は開かない。起きているのか、まどろんでいるのかも曖昧に、輝夜の胸が上下する。


「輝夜様」


 テトラが名前を呼ぶ。輝夜の閉じられた瞼の隙間から、涙がこぼれた。そっと拭うと、目が開く。赤く充血した瞳。腫れた目元。いつもと違う雰囲気の彼女。どう声を掛けようか考えて黙したテトラは、腹に抱きつかれて息を詰まらせた。


 輝夜の体が震えている。胸元に当たる息は熱く湿っている。華奢な顎先を己の肩に乗せるようにして、輝夜の体を抱き返す。熱のせいか、感情が昂っているせいか、彼女の体は熱かった。嗚咽の音に混じって聞こえるのは、小さな咳の音。


「ぼくは」


 輝夜が小さな声を上げた。咳を一つ。それから、ゆっくりと口を開く。


「スケイルを殺したくなかった。パン屋のとこの子も、殺したくなかった。他にも、壁の国で見かけたひともいたんだ。でも、みんな、ぼくが殺した」


 咳き込みながら、とぎれとぎれに言葉を紡ぐ。


「暗夜も同じ気持ちだったのかな? 殺したくなかったけど、そうしないと生きていけなくて、それで、あんなふうになっちゃったのかな?」


 テトラがそっと、輝夜の背中を撫でる。熱い身体。その身体は小さくて、『勇者』や『魔王』といった権威の影に隠れている小さなこどもの姿を鮮明に映し出している。


「わからないよ、ぼく。何かを成し遂げるためには、何かを犠牲にしなきゃいけないんでしょ? でも、ぼく、あの人たちが、本当に暗夜とぼくのために犠牲になるべきだったのかなって、思うんだよ」


 けほっ。咳の音。テトラの服をぎゅっと掴む輝夜の小さな手。


「オクリさんは、暗夜を止めてくれなかった。暗夜が壊れちゃいそうだからって。でも、それは、間違ってると思うんだ」


 テトラの肩口が熱に染まる。湿っていく布地。小さな身体を抱き留めたまま、テトラがゆっくりとまばたきをした。


「ぼくは、ぼくが暗夜を止めなきゃいけないんだ。ぼくがやる。暗夜を殺してでも、ぼくが止める」


 いつの間にか、輝夜の嗚咽は止まっていた。服越しに触れ合う胸から、強い鼓動が響いてくる。テトラは彼女の細い体をひときわ強く抱き締めてから、ベッドにその体を横たえる。


 テトラのそれと比べると子供のように小さな手が名残惜しそうにテトラの背中を撫でて、それから素直に離れた。


「寝てください。きっと熱が下がったらまたすぐに連れていかれる。今のうちに少しでも良くしておかないと」


「……うん」


 輝夜が大人しく顎を引いた。目を閉じて、ひたすらに胸を上下させる。


 テトラはしばらく輝夜が胸まで被った布団が穏やかに上下するのを眺めてから、おもむろに立ち上がった。部屋を出る。廊下に開いた窓からはいつの間にか夕暮れの朱が差し込んでいて、明日の天気は良さそうだった。


 テトラが階下へ行こうと体の向きを変えたところで、背後から落ち着いたトーンの足音が聞こえてきた。


「輝夜の調子はどうだ?」


 テトラの方に歩み寄りながら、レーデが滑らかな低い声で問う。テトラは何も言わず、輝夜によく似た彼の黒い瞳を見つめ返した。


「これを飲ませてくれ。風邪に効く薬だ。おまえも飲むといい」


 小さな容器に入った液体とさじをこちらに差し出してきた。階下へ行く用事がなくなったテトラはゆっくりと息を吐いて、それから咳をこぼした。


「あんたが飲ませればいいじゃないですか。この前のこと気にしてるんですか?」


「いや、……ああ、そうだな」


 露骨にうろたえて視線を彷徨わせるレーデに半眼を向けて、テトラは渡された容器を彼に突き返した。



 薄闇の中。扉が開かれた音で、まどろみのふちにいた輝夜は目を冷ました。入ってくる長身の影。

 彼は長時間姿が見えないと探されると聞いた。しかし、実際にはこうして勇者の部屋に自由に出入りしたり、輝夜とそれなりの時間顔を合わせることができている。どうせたいしたこともできないと放置されているような気がする。この国はどこまでも雑で腹が立つ。


 それでも暗夜もレーデも、精神的な逃げ道を徹底的に潰されて生きていたのだ。悔しいけれど、この雑な管理でもひとの心を潰すのには効力があった。


 ベッドサイドで、レーデが立ち止まる。輝夜が起きているとは思わなかったらしい。目が合うと、レーデが目を丸くして背筋を正した。 


「父さん。ねえ、ぼくと一緒に帰ろうよ」


「……すまない」


「……うん。もういい。もう言わないよ」


 静かに首を振って、ベッドから身体を起こす。身体を支えてくれたレーデが、輝夜の手に小さな瓶を差し出してきた。


 レーデに与えられるままに薬を飲む輝夜。今までにないほどまずい薬だった。流し込む水なんかもなかったので、口の中に広がる不味さをごまかすためにうめき声をあげる。


 ひとしきりうめいてようやく口の中が落ち着いた頃。そっと背中を撫でつけてくるレーデの冷たい手を捕まえて、ランタンの光を孕んでオレンジ色に光る目で、輝夜が彼の目を見る。


「ぼく、もう、行くよ。もう会えないね。母さんに会って欲しかった」


「……行ってくれ。すまない」


 レーデの答えは、最後まで変わることはなかった。



 体の深層と表層の温度が釣り合わない。汗で濡れて重い体。浅くおぼつかない呼気。気だるくて、もう眠ってしまいたかった。


 室内は挽いたコーヒーの香りで満たされていて、いつもの自分の部屋と同じ匂いだ。いつもは一人だけのものであるはずのこの空間は、今日に限ってはそうではなかった。


 額に置かれたタオルが、新しいものへと取り替えられる。自分が看病するときには、そんなことまで気が回らなかった。しっかりと見てあげられなかったことを後悔する。

 男ばかりの所帯で暮らして、誰も彼もがほとんど病気をしなかったのだ。看病だって適当だった。病人にはこんなに手厚い看護が必要だったなんて、知らなかったのだ。


「輝夜、さ」


 言いかけて、テトラは激しく咳をした。


「ごめんね。ぼくがうつしちゃったね」


「違います」


 呼吸が重くて、それ以上言葉を発することはできなかった。


「無理しないで」


 頬に、冷え切った小さな手が当てられた。昨日は自分と同じように結構な熱を持っていたはずのそれは、ひんやりとして心地がいい。その指先を、気だるい手のひらで捕まえた。首筋まで引き寄せて、自分の体温で温める。


「あんたが一番無理しちゃいけない。今日にはもう、連れていかれる」


「うん。大丈夫だよ」


 静かに微笑む輝夜。テトラは唇を噛んで、壁の方に顔を向けて口を開いた。


「もう、行くんですよね」


「うん」


「見送りに行きたかったです」


「うん」


「暗夜は、多分もう帰ってこないよ」


「……はい」


「ごめんね」


 テトラは静かに、首を振った。


 不意に、乱暴に部屋のドアが叩かれる。死刑宣告を受けたような気持ちで、テトラはその音を聞いた。輝夜はテトラに微笑み掛けて、熱い頬に自分の頬を寄せた。


「テトラくん、ぼくと暗夜によくしてくれてありがとう。行ってきます」


 耳元で囁いて、輝夜は顔を上げる。返事を待たずに扉を開けたのは、トーアとその従者だった。


「おい、家畜。仕事の時間だ。――なんでオレがお前なんかの世話させられるんだ。こんなの下っ端のカスがやればいいのに……」


 ひとりで愚痴をこぼしながら、トーアが乱暴に輝夜の肩を捕まえた。


「来い。さっさと終わらせろ。無駄に時間掛けたら殺すからな」


 素直に立ち上がった輝夜はトーアの茶色い目をじっと見つめて、表情を変えずに頷いた。テトラの方を振り返り、再度微笑み、ささやかに手を振る。テトラが頷いて返したのを見て、勇者は部屋を後にした。





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