平和のための犠牲
この場所に輝夜が来るのは、十五日ぶりになる。まだ日が暮れ始めたばかりであたりは薄暗く、空は朱く灼けていた。ひどく傷んだ椅子に腰を下ろすと、向かいでテトラが同じように椅子に尻をつけた。
勇者の罰が解けたのは、つい昨日のことだ。前回のように処刑をしたりはしなかった。処刑を頻繁に行えるほど罪人がいるわけもなく、きっと輝夜の監視がめんどくさくなってきたから罰を解いたに違いない。輝夜はそう思っている。なんだか腹が立つけれど、輝夜にとってはありがたいことだった。そうでなければ、今日、ここには来られなかったから。暗夜は自分のことなんか心配してもいないだろうけど、輝夜は今日、暗夜に会いたかった。
暗夜と初めて出会ったあのボロ屋で彼を待つ。椅子に座ってぼんやりとしている間にいつの間にか日が暮れて、輝夜は睡魔に襲われ始めた。船を漕ぎ始めた輝夜の向かいで、テトラは神経質な顔をして時折あたりを眺めたり、腕を組んでうつむいたりしている。
月が自分の真上まで登った。暗夜は来ない。そんな予感もしていた。けれど輝夜は、暗夜と約束したのだ。一縷の望みに賭けて、暗夜を待つ。
月が移動して、枯れた枝葉の隙間に隠れた。ぱき。遠くから、枝を踏む音。テトラが先に反応して、椅子に掛けていた剣を握って椅子から尻を浮かせた。続いて輝夜が立ち上がる。
こちらに近づいてくるその音の主は、暗夜のものとはかけ離れた体躯をしていた。黒い、大きな影。あまりにも巨大な体。テトラはこれほどまでに大きな生き物を、今までに見たことがなかった。たまらずに剣を引き抜いたテトラの手首を、輝夜が小さな手で捕まえて制した。
「オクリさん」
「お久しぶりです。魔王様」
大きな体で恭しく礼をして、オクリはまっすぐな目で輝夜を見て、それからテトラと目を合わせた。彼が剣を抜いたのを気にした風もなく、穏やかに目を細めて見せる。
「あなたは暗夜様の従者ですね。その様子だと、事情はわかっているようだ」
「あなたは?」
テトラは頷いて、改めて目前に立つ異形の大男を見る。輝夜の従者はほとんど人間と同じ姿をしていると聞いたので、彼がそうでないことはわかる。いつかにレーデが語った魔物に特徴が似ているように思うが、その魔物が輝夜とどんな関係なのかはわからない。
「俺は、先代魔王様の従者です。暗夜様は今日は来ないでしょう。ですので、俺が代わりに」
輝夜が息を吐く。顎を引いて、頷く。
「暗夜は向こうで、どうしてる? なんか、ぼく、暗夜が悪い事をしてる気がするんだ」
輝夜の言葉を受けて、オクリは大きな手で自分の顔を押さえて天を仰いだ。
「……魔物のことだろう。俺も、うっすらとは把握しています。
――輝夜様、レーデ様を連れてこちらに戻ってきてください。そうしないと、暗夜様は今のまま、どんどん自分で堕ちていく……」
オクリが吐いた苦い息。彼の黒い瞳が床の上を這って、それから輝夜に向けられた。
「アドレインはまだ暗夜様を輝夜様だと思っている。輝夜様の様子がおかしくなったと思って悩んでいるよ。あいつのためにも、頼みます」
「……うん。頑張る」
*
城に帰った輝夜たちは、その足でレーデの部屋に向かった。彼に顛末を話す。レーデは、眉間の皺を深めて輝夜の話を聞いていた。
「……私には無理だよ。帰れない。輝夜、きみがひとりで帰るんだ」
彼が放った予想外の答え。輝夜は目を丸くして、隣に控えているテトラに一度視線をやってから小さな手でレーデの腕を掴んだ。
「なんで、一緒に帰ってくれないの? ぼくたちより、ここでの生活のほうが大事なの?」
掴んだ腕を掴み返される。真っ直ぐに交差する視線。レーデが首を横に振る。
「違うんだ。そうじゃない。でも、一緒に逃げて、万が一きみだけが捕まったりしたら……」
「ぼくだけ逃げたって一緒じゃないか。なんでそんなに頑固なの?……お母さんに、会いたくないの?」
「私はいいんだよ。どうなっても。だから、きみだけ逃げてくれ。私はそれでいい。私はここで、暗夜を見捨て続けた罰を受けるんだ」
「罰ってなに? 罰って、自分から望んで受けるものじゃないでしょ? 言ってる意味がわからないよ」
すがるように、輝夜がレーデの手を引く。冷たい彼のその手は、最後に母親に会ったときに触れた手の温度によく似ていた。
「……とにかく、私は帰らない」
強く輝夜の手を握るレーデ。輝夜の知らない、大きくて硬い手のひら。次第に痛いくらいに力が込められていくその手を、怒りに任せて振り払う。
「意地悪! 石頭! ぼくのわがまま聞いてくれたっていいじゃないか!」
「……他のことなら何でも聞くよ」
「もういいよ。もういい。知らない。もう眠いから帰る。行こ、テトラくん」
かつん、と輝夜の靴底が冷たい石床を叩く。眉間にしわを寄せてふたりのやりとりを見ていたテトラの腕を引く輝夜。輝夜に引かれるままにドアの方へ向かって歩き始めながら、テトラはレーデの墨色の瞳を見つめた。
*
輝夜は今、馬車に揺られている。布製の座席に血が染みるのを避けるために掛けられた大雑把な作りのなめし革の上に腰を下ろして、砂利にまみれた悪路に尻を痛めつけられている。
あのボロ屋でオクリと出会ってから、二日が経った。けれど、相変わらず毎日のように魔物は来る。あまりにも魔物が来るので、スケイルのときのように輝夜が逃がしているのではないかと疑われたくらいだ。しかし、帰還後の輝夜の格好を見ればその無実はやすやすと証明された。
馬車が止まる。降ろされたのは、森の入り口だった。――見覚えのある景色。血がざわめく。輝夜が馬車を降りる時、御者が輝夜を睨んだ気がする。テトラの方を見る。彼も同じことを思っているのかもしれない。目が合うと、彼の黒目はふわっと揺れた。
互いに無言のまま、進んでいく。しばらく歩いて、ひらけた先には花畑。その奥に、小さな家。
ふたりの足音が聞こえたのかもしれない。家の扉が開いて、大きな影が、現れた。その魔物の名前は、輝夜もテトラも知っている。スケイルだ。彼はこちらに貫くような双眸を向けていて、輝夜が思わず後退すると、テトラの胸に肩をぶつけた。
「スケイル。なんで?」
「理由は言わなくてもいいだろう。お前も知っているんじゃないか?」
地響きのような低い声が、輝夜の足元を揺らす。理由はわかっている。暗夜がけしかけたのだ。
「俺は間違っていたんだ。何も犠牲を払わず、ただ逃げて、それであの子と幸せになれるだなんて」
スケイルが聞き取りづらい低い声で喉を揺らす。輝夜は何も言えなかった。口をつぐんだまま、彼のいびつな形の瞳孔をただただ見つめる。
「俺はあの時、死んだって、おまえと戦うべきだった。そうすれば、俺が死んだ後だって、あの子はここで家族と幸せになれたのに」
滔々と語るスケイル。彼の砂色の虹彩は、光を反射してぎらぎらと光っている。
「ねえ、スケイル。君の大事なひとの名前を教えて」
輝夜が剣を抜いた。スケイルはしばし黙して、それから、鱗に覆われた口を開いた。
壁の国に囚われた愛しい者の名を口にしたスケイルは、凶悪に光る爪を輝夜に向けた。それ以降、ふたりは言葉を交わさなかった。
ひとりの大きな魔物が肉塊に変わる頃、雨が降り始めた。それは次第に勢いを増して、輝夜の頬に付いた血と、足元の草花に散った血を洗い流していく。
震える輝夜の肩に、テトラの大きな手が置かれる。輝夜は顔を上げなかった。
「幸せになるための犠牲って、なんだろうね? どんな犠牲を払ったら、人間と魔物は殺し合わずに済むのかな」
テトラは何も答えなかった。黙ったまま肩を引かれて、帰路へ付く。たっぷりと雨水を含んだ布地をまとったふたりが馬車に戻ると、御者は露骨に眉を寄せてみせた。
馬車の中で会話はなかった。ふたりとも黙したまま、何も喋らない。馬車が悪路を駆ける音と雨音だけが支配する空間。遠くで犬が吠える声がした。
「ああ、そっか。ぼくは暗夜を犠牲にして、暗夜の暴走を止めなきゃいけないんだね」
不意に、輝夜がぽつりとつぶやいた。
怒りもない。悲しみもない。誰に聞かせるわけでもなく、自分に言い聞かせるような小さな声。テトラは黙ってうつむいた。




