輝夜の海に還るもの
彼らと対話できそうになかった。会話ができそうな見た目のものもいるけれど、彼らの誰もが、妙に切迫感のある、ぎらぎらとした目つきをこちらに向けている。輝夜はもう一度なぜここにきたのか問うたけれど、答えは返ってこなかった。
彼らの攻撃を躱しながら、輝夜は浅い呼吸を繰り返す。自分で決めたことだ。彼らをこの手で殺すしかない。暗夜のために、テトラのために――いや、違う。自分の途方もない欲望を叶えるために、輝夜は彼らを犠牲にして踏み越えなければならないのだ。
輝夜の脳裡に、初めて他者を害した、イノリの肉を斬った時の感覚が蘇る。最終的に自分で手を下したけれど、最初は事故によるものだった。苦しみを長く続かせるのも嫌で、輝夜はもう、彼を殺すしかなかった。
その後に残った死刑囚も輝夜が殺した。あれは仕方がないことだと、あの時の輝夜は自分に言い聞かせた。だって、自分が彼らに手を下さないと、彼らはもっと酷い死に方をしただろう。自分はそれを防いで苦しくない最後を彼らが迎えられるために、自ら手を下したのだ。言い訳めいた言論で、自分の罪悪感を薄れさせて蓋をした。その蓋が今、開いてしまった。
――そうだ。自分は、あの時だって、今だって、自分の意思で決めて、彼らを害すのだ。どんな言い訳をつけたって、避けられたであろうことを避けずに来たのは、他ならぬ輝夜なのだ。受刑者のためとか、暗夜のためとか、テトラのためとか、そんなことは、自分の罪を軽くするための言い訳に過ぎないのだ。
輝夜は手に馴染まない剣の鞘を握りしめて、震える息を吐いた。覚悟を決めなければ。彼らを傷つけずに壁の中に帰ってもらうのが、彼らにとっては一番いい。けれど、そうすればテトラは処刑されてしまう。輝夜は選ばなければいけない。自分の欲望のためにテトラをとって、彼らを捨てて殺すことを。その覚悟を、決めなくてはいけない。
呼吸が浅い。パン屋の彼女が飛びかかってきた。短く息を吐く。壁の国でオクリに叩き込まれた動きを思い出す。なるべく一太刀で相手を苦しめずに殺す。これが、壁の国兵士たちが学ぶ戦闘方法。実際の戦いではきっとそんなにうまくいかないのだろうけど、敵対者にも慈悲を持つのが、壁の国の兵士の教えだ。
輝夜はこちらに向かってくる彼女のただ一点だけを見つめて、剣を薙いだ。器用なテトラが不器用な輝夜の代わりに研いでくれた新品の剣は、あっけなく、彼女の首を刎ねた。背の高い草の中に、錆色の毛に覆われた猫によく似た頭部が落ちて、見えなくなった。
輝夜の薄い腹の中で、内臓がうごめく。心臓が大きく拍動して、輝夜の全身を揺らす。体が熱い。むしり取るようにして、輝夜は羽織った外套を取り払って投げ捨てた。
羽毛の男が駆け寄ってきて、足を振り上げた。輝夜はそれを躱して、背後に回り込む。首を刎ねようとして、横からまだらに毛の生えた男が剣を振り下ろしたのに気がついて、斬撃を受ける。跳ねるようにして距離を取る。しばし、間を読み合って見つめ合う。輝夜の後方で、何か、固いものが地面に落ちるような音がした。
前方を警戒しつつ、背後に目線をやる。毛むくじゃらの男に、テトラが捕縛されていた。両腕を掴まれたテトラは剣を持っていない。足元で光るテトラの剣。
今、彼はテトラをいつでも殺せる状態だ。喋らないので考えていることは汲めなかったが、テトラをすぐに殺す意思はないようだ。ただ、テトラの骨ばった手首を拘束して、輝夜に黄色い瞳を向けている。輝夜は手から剣を落として、真っ直ぐにテトラの後ろの彼を見る。丸腰になった輝夜を見つめる彼の瞳は、しかし、怯えるように揺れていた。
輝夜の背後から、ふたりが同時に襲いかかってきた。先ほど投げ捨てた外套を靴の踵に引っ掛けて巻き上げる。視界を塞いでふたりの動きを止めて、その足で、テトラの方へと駆けた。走りながら地面を探り、テトラが落とした剣の柄を踏みつける。宙を舞うテトラの剣。姿勢を低くしてその剣を手に取って、輝夜は一度に距離を詰めた。
輝夜が向かってきたことに驚いたらしい。男は体を揺らして、硬直した。テトラを掴んでいるせいで無防備な彼の脇腹に剣を突き立てる。よろめいて、テトラの腕が解放される。テトラの腕を掴んで、輝夜は彼の長身を自分の背後へ乱暴に引き倒した。流れるような動きで、男の首を胴体から切り離す。
後方のテトラ含む三人の方へ向き直る。輝夜の墨色の虹彩が、日光を受けて澄んだ色に光る。残されたふたりの魔物は硬直して、血を浴びた輝夜の白い肌を見る。まだらに毛の生えた男が、薄暗い表情をして地面に膝をつく。羽毛の男は、足下に崩れた彼を見て、輝夜から離れるように数歩後退した。
輝夜が、薄い唇を開く。
「魔物は殺した。もう殺した。きみたち、壁の国に帰るかい? 帰るなら、見逃してもいいよ」
まだら模様の男が、這いずるようにして、輝夜の方へと近寄る。それを制したのは、羽毛の男の低い声だった。
「帰るのか? お前、帰るのか? お前が帰れば、どうなるかわかるだろう? なあ、帰るのか?」
一音ずつ、彼を咎めるように発せられる言葉。羽毛の足下で、男がうめく。
「あぁ、でも、オレは死にたくない。オレは……」
「オレたちが死んだ方がいいから、ここにきたんだろう。お前、オレと死ねよ」
羽毛が、まだら模様の背中を蹴る。蹴られてよろめいた彼が、ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる。輝夜を見つめる彼の虚ろな瞳は、鈍く光る殺気を湛えて澱んでいた。
*
全て片付いた後、テトラは輝夜の行動を見て青い顔をしていた。
「一体何してるんです?」
震える唇から、掠れた声を上げる。
一旦テトラの言葉を無視して祈りの言葉を言い終えた輝夜は何食わぬ顔で振り返って、唇についた四人分の血を拭った。
「何って……うーん、お祈り?」
「そういう宗教ってことですか? それで血を……」
相変わらず青い顔をしているテトラは自分の喉仏が浮き出た首を掴んで、半分しか開かない瞼をゆっくりと上下させる。胃が痙攣している。鳩尾のあたりで強力な液体がさらに上へと登ろうとして、それを食い止めようとする己の内臓とせめぎ合っているのを感じる。無理もない。突然輝夜が遺体の切り離された首から血を舐めたのだ。同族喰らいの文化なんかないテトラには、ショッキングがすぎる光景である。ひくひくと痙攣する胃と闘いながら、処刑場でも輝夜はそうしていたような気がすることを思い出した。
観客席の上の方にいたので、あの時はよく見えなかった。けれど、今と同じように口元を拭う仕草をしていたように思う。あたりを漂う血の匂いが、だんだん自分の口腔から漂っているような気がしてきて、テトラは地面にうずくまって胃液の食道への侵攻を許した。
帰りの馬車で話を聞くと、魔王である輝夜は(その性別に関わらず)国の母なのであるという。死んだものは母の胎内に還り、そしていずれ新しく生まれるのだという。輝夜も誰かれ構わず食べるわけではない。けれど、死刑囚や戦って死んでいったものには祝福を与え、次の生をより善く生きられるように、食べられる状態であれば輝夜は彼らを摂食するのだと語った。
ドン引きするテトラに憤慨して、「いつもはちゃんと火を通すんだよ!」という的外れな主張をしていたけれど、テトラにはその感覚が理解できなかった。けれど確かに、ネズミやカエルの子どもだって共喰いをしたりするのだ。倫理的には受け入れられない。しかし、自然の摂理として同族喰いは存在している。深刻に考えているうちに再び胃液が侵攻を開始したので、テトラは考えるのをやめて足下に目を向けた。靴先に血がついていた。――ああ、やばい。
なんとか堪えて城に帰ったテトラと、彼の不具合の原因である輝夜。テトラはシャワーを浴びて綺麗になった輝夜を部屋に押し込むなりそそくさと部屋に帰って、その日は一歩たりとも部屋から出なかった。
それから魔物は、次の日も、その次の日も、暗夜との約束の日が来るまで、毎日毎日現れた。




