第9話
『――いっ』
厚い雲に覆われ、どんよりとした曇りの日だった。 走っていた足がもつれて、引っかかる。ランドセルの重さもあって、体勢が崩れて転んだ。
『イェイ。オレ、いっちばぁん!』
男がしゃがみ込んで、幼い理玖を見下ろしていた。影が覆い被さるように落ちている。
『やだっ。たすけ、て……、……やめ……て……っ……!』
笑う男の舌が、泣きじゃくる幼い理玖の首筋を這った。ぬるりと、生温い感触が鎖骨まで滑り落ちる。味を確かめるように、何度も、何度も。
『……っは。やっば。匂いだけでこれとか。噛んだら絶対止まんないわ、これ』
牙の先端が、理玖の首筋に触れた。まだ刺さっていない。肌を押しているだけ。
だが、その僅かな圧力で、理玖はさらにぼろぼろと大粒の涙を溢した。男の涎が理玖の鎖骨に垂れる。
『やっ……、ひっ……く……、いた、い……』
『……ごめんねぇ。もう、我慢できないや』
『あ――っ!』
牙が沈んだ。理玖の細い首筋に深々と突き刺さり、痛みで頭が真っ白になる。
『ん、ぅ……っは。なにこれ、なにこれ、なにこれ、なにこれ!!』
男が血を啜りながら声を上げた。目が見開かれ、瞳孔が限界まで広がっている。恍惚、狂喜、それに近い表情だった。
『すっごい。うますぎ。やばぁ、頭飛ぶ。なにこれ、こんな血あるの?』
男は止まらなかった。止める気もなかった。理玖の首筋に顔を埋めたまま、ごくごくと喉を鳴らしている。
理玖の頭の芯がじんわりと痺れ、血が急速に失われていく、視界の端がぼやけ始めていた。
『――――……』
手足から力が抜けて、寒さが襲う。声は次第に出なくなり、そこから先を、幼い理玖は覚えていなかった。痛みと恐怖が全てを塗りつぶしていた――……。
『………………』
気がつくと、幼い理玖はぼんやりと白い天井を眺めていた。消毒液の匂いに包まれて、首を中心にズキズキと疼くような痛みがあちこちにある。
『――傷自体は深いものもあるけど化膿もなく、経過は良好です。が、血糖値が悪い。点滴追加しておくので……、食べられるなら少しでも食べてくれた方が、貧血も早く良くなるよ?』
『…………』
知らない大人たちの話し声を、理玖はどこか遠くに聞いていた。気遣うような医師の声が横からして、目だけを向ける。視線が合うと大きな手に頭を撫でられた。
『傷が全部塞がったら退院だから。君のお父さんとお母さんも仕事で来られないらしいけど、退院の日はちゃんとお迎えに来てもらうから』
身体がひどく重たくて、理玖は口を開こうとも思えなかった。頭もぼんやりとしていて、何も考えられないでいる。ただベッドに横たわっていた。
『今回は、……その、運が悪かったね。でも、人間と同じで吸血鬼にも、良い吸血鬼、悪い吸血鬼が要るんだ。今後は怪我に気をつけなさい』
『…………』
『私たちにとってはそうではなくても、吸血鬼にとっては血の匂いは空腹を刺激されて、吸血したくなるらしいんだ』
『…………吸血、鬼……』
『でも、良かったね。噛み痕の数、歯形からして複数の吸血鬼と考えられるけど、失血死しないですんだのは幸運だよ』
ぽつりと掠れた声で呟いた理玖を見て、医師は穏やかに言葉を続けた。
力が抜け、どこかぼんやりとしていた理玖の表情がみるみるうちに変わり、悲壮感に染まった。
『……ぁ……ああ…………、あ、ぅ……、……うっ、わぁぁぁぁああ!!』
地面に押さえつけられて動けない身体の感覚、伸びてくる無数の手に牙、喚き罵り合う複数の声が一気に呼び起こされ、理玖は絶叫した。
◇◆◇◆◇◆◇
最初に感じたのは寒さだった。いつ気を失ったのか、理玖は男に殴られたことだけはハッキリと覚えていた。
――何が良かった。何が幸運だ。クソッ、あんな夢見たせいで……。
左首にある噛み痕を、無意識に手で触る。成長と共に、腕や足は痕が薄くなったのに、嫌でも目につく――首の痕だけは、一番牙が深く突き刺さっていたらしく、今も消えていない。
「……っ」
埃っぽく暗い、どこかの屋内。座らされていたらしく、触れたところから身体が冷えていくようだった。理玖は手で首を擦りながら身動ぎをし、腹部の激しい痛みに息を詰めた。
「あ、目が覚めた?」
「……っ、この野郎……」
「ねぇ、覚えてるかな? ガキの頃にさ、君が泣き叫んでた声あるじゃん? あれ最高だったんだよねぇ。……それが今はさぁ、こんな目、ギラギラさせて睨んでくるの、ヤバくない?」
拘束されていないのに、動けば殴られた箇所が痛くて、汗がこめかみを流れていく。
男の声はどこまでも軽く弾んでいた。理玖が苦痛に泣いて叫んでいた記憶を、懐かしむように目を細めてさえいる。
「でもさぁ、その口が後でどうなるか楽しみだよねぇ。起きるの待ってたんだよ?」
男の牙が、ゆっくりと理玖の首筋に近づき――。
「――――っ、あ!」
理玖の首に痛みが鋭く走り、そして次の瞬間、何かが体内に侵入してくる。
脳の奥がぐらりと揺れた。視界の端が歪み、牙で穿たれた箇所を中心に感覚が、血が失われていく。
「ん――、んぐ……っは。やっぱ他と違うなぁ。あ――、やばい。前に飲んだ時より何倍も美味い。気絶もしないし、成長してんじゃん、君。我慢して待ったかいあったぁ!」




