第10話
「ねぇ、オレも吸うの、上手くなったでしょ? 噛む瞬間がさ、痛みより、頭ぼうっとして、気持ちよくなって、もっとって欲しくなっちゃうでしょ?」
男の舌がべろりと唇の血を拭うように舐め回した。理玖の首筋、二箇所からは血が伝い、服の襟を赤く染めている。
――ムカつく。なのに……。
男に肩を掴まれているはずなのに、感覚がほとんどない。理玖はぼんやりとした思考で、歯医者の部分麻酔を思い出していた。血管を通して全身に回ってるようだと、場違いなことが頭をよぎった。
「ねぇ、気持ちいいでしょ? なってきたでしょ? もっと欲しいでしょ?」
男は今度は首筋ではなく、理玖の襟元を引き裂くようにさらに広げた。鎖骨が露わになり、肩口が剥き出しになる。
理玖の瞳からはまだ、反抗の光が消えていなかった。
「……ふざけ……んな。ストーカー、がっ!」
「ストーカーって呼ぶのさぁ、そろそろ、やめてくんない? ちょぉっと傷つくんだけど?」
傷つく心など持ち合わせていないくせに、男はわざとらしく胸を押さえてみせた。そして、すぐさま下卑た笑みに戻る。
「俺はさぁ、理玖の血に恋してるだけなの。愛だよ、愛」
男の牙が理玖の肩口に触れた。鎖骨の少し上、首の付け根あたりだ。ぴくぴくと脈打つ場所を、牙が正確に狙っている。
「気色、悪――っ!」
「気色悪い? ひっどいなぁ」
今度は傷ついた素振りすら、男は見せなかった。むしろ嬉々として、理玖の暴言に酔いしれているような顔をしている。
「――いっ」
鋭く尖った牙が肩口に突き立てられ、ずぶりと深く穿たれた。柔らかい肉がまとめて貫通していくような感触――同時に、熱い何かが理玖の体内に流れ込んできた。
――やっべぇ。マジで麻酔みてぇ。熱くて、重い……。
男が牙を抜き、またすぐに別の場所へ突き立てる。わざと傷痕を増やすように、血を吸うことなく牙がずるりと抜かれ、穿たれ、繰り返された。
「…………つ、ぅ」
理玖の傷口から、だらだらと血が流れている。男は口元を手の甲で拭い、恍惚とした表情で理玖を見上げて嗤った。
「そう、その目……。良いよねぇ、本当にさ。ガキの頃はさぁ、ちょっと舐めただけでガチガチ震えて泣いてたでしょ? それが今はその目、生意気に歯向かってくるとこが、また良いねぇ。成長じゃん」
「――っ、変態、が!」
「変態? 褒め言葉だねぇ♡」
男の手が理玖の制服を下まで更に引き裂いた。布が千切れる音が静かな廃墟に響く。
上半身は完全に露出し、白い肌が空気に晒された。首から鎖骨にかけて穿たれた幾つもの牙痕が並び、生々しく盛り上がった傷からは血が流れている。
「うわぁ、いい身体。ちゃんと筋肉ついてんだぁ。ガキの頃はひょろひょろだったのにね」
男は片手で理玖の胸板を愛おしげに撫でた。所有物を確認するような、ねっとりとした触り方だった。
男の指が理玖の胸の中心、心臓の真上あたりをとんとんと叩く。
「さて、いこっか。次はここ。オレが思うに、心臓の近くが一番美味いんだよね。知ってた?」
「……お前、の……嗜好……なん…………知る、か。…………くそ、がっ!」
「知らない? 教えてあげるよ、親切でしょ、オレ。浅い血はさらさらしてるの、深いほどにトロリとして甘く濃くなっていくんだよ」
男は理玖の胸の中心に顔を寄せた。心臓の上、肋骨に守られた柔らかな肉、それを覆う皮膚を舌でべろりと舐め、理玖の反応を窺っていた。
「心臓の近くってね。血が温かくて、濃厚で、美味しすぎてとろけんの」
男の牙が肋骨の間を正確に狙い、ずぶりと深く肉へ突き立てられた。
「――っは――……」
理玖の視界がぐらつき、影をさし始めた。頭にかかった靄が思考を邪魔している。幾つもの傷から疼く熱と寒気。手足の先の力も抜けていく脱力感があった。
「んっ、んん……♡ ここ、ここぉ。美味すぎ。死ぬ。オレ、死んじゃうぅ」
男は夢中だった。ごくごくと喉を鳴らし、貪るように吸っている。理玖の身体が弛緩していくのを、男は両肩を掴んで支えていた。
「………………っ……」
脳が溶ける、と形容するのが最も近い感覚だった。理玖の身体が悲鳴を上げて、崩れ始めていた。
「……ぷはぁっ。ねぇ、どう? まだ平気?」
男が顔を上げた。血で濡れた口元が三日月型に歪んでいる。理玖は、浅く荒い息を吐きながら睨んでいた。
「……じゃぁ……死、ねよ。…………変、態……がっ……」
身体が傷のせいで燃えるように熱を帯びているのに、どこか寒い。通常の人間ならば、とうに抵抗する意思を失っていても不思議ではない。
貧血に苛まれながら、理玖の目はまだ死んでいなかった。
「死ね、だって。あはは、最高。その強気がさぁ、どこまで持つか見たいんだよねぇ」
男は理玖の肩から手を離した。支えを失った理玖の身体が壁伝いにずるりと崩れた。
血を失ったことで、理玖の身体は確実に自由を奪われていた。
「お、ほらもう、自力で座れもしないじゃん。身体は正直で可愛いねぇ。なのに、まだ折れないんだ?」
男が不思議そうに疑問符を浮かべる。そして興味深そうに、好奇心によって瞳がぎらぎらと輝いていた。
男の手が倒れかけた理玖の髪を掴み、顔を持ち上げた。
「やっぱ、奈鬼羅の連中に渡すの勿体なさすぎでしょ、これ……。ねぇ、本当にオレと一緒に来る気ないの?」
「…………きめぇ……んだ、よ! 誰が、…………行く、か……」
「きめぇ、か。あはは、いいね、いいね。その強がり、まだ悪態ついて喋れるんだ? このまま続けたら、本当に失血死するよぉ?」
実に楽しそうに男の声が弾み、上機嫌だった。舌なめずりする音が、理玖の耳に辛うじて届く。
――クソ野郎……。
霞んだ視界では表情が見えず、ただ理玖の血で真っ赤な口が歪み嗤っているのが分かった。
「……すごく、惜しいけど、……じゃあ仕方ない。惜しいけど、一欠片も残さず、完食しようかな。誰かにくれてやるほど心広くな――」
「ねぇ、俺のモノに何してくれてるのかな?」
どこからともなく、声が降ってきた。ひび割れた窓を蹴破り、金髪の青年が上空から飛び込んできた。
「……は?」
男が固まった。振り返った先にいる存在を認識した瞬間、顔から血の気が引いた。さっきまでの下卑た笑みが凍りつく。
「奈鬼羅、様……? なんで、ここに……」
男の言葉には一切答えず、遥大の碧眼がスッと細くなる。男を見下ろして、次に理玖を見た。口許には、綺麗すぎるほどの完璧な笑みが浮かんでいる。
「理玖、言ったでしょ、俺。これは、朝まで逃げ切れたらっていうゲームだってね」
「………………」
明かりの届かない暗闇で、貧血で濁った理玖の色彩のない視界に、仄かに光っているような、鮮やかな金色が美しく映った。




