第8話
「はぁ……、ツンツンしてる理玖も良いけどぉ。 奈鬼羅様が居たらさぁ、さすがに手出しできないじゃん。でも今、キミ一人、外にいるよね。無防備じゃん? 分かってる?」
ニッと嗤う男の瞳孔が縦に裂けた。唇が捲れ上がり、異様に長い犬歯が二本、暗がりの中でも白く見えている。
「ククッ。まさか、街の中一人で走り出すとは思わないよねぇ。後つけてみてて良かったぁ。理玖もさぁ、オレと会えなくなるのが寂しくて、探しに来てくれたんだよね? もうこれ運命だよね♡」
「テメェに、都合良く解釈すんな。ストーカー野郎」
「ストーカーなんて、冷たいなぁ。俺はいつも君のこと想ってるのに、そんな薄っぺらいもんで表現しないでくれる?」
男は、顎を掴んだ手と反対の手で、理玖の首筋から喉仏へ、さらにシャツの上へと指を滑らせていく。
コツリと額を合わせ、吐息がかかる距離で見つめられる。理玖は顎を固定されているだけなのに、男の尋常ではない腕力によって微動だに出来ないままだ。
「奈鬼羅様に買われたって噂聞いたオレの気持ち分かる? めちゃくちゃ衝撃受けたんだよ? だってさ、あの家に入ったら手が出せなくなるもんねぇ?」
ブツッと制服の第一ボタンが、男の爪で千切られ――見る影もなくなった女の上に、ぽとりと落ちた。
「ねぇ、大人しくしてくれたら痛くしないからさ。昔より上手になったんだよ、オレ」
理玖のシャツを弄び、鎖骨が見え隠れする。顎を掴んでいた男の手が有無を言わさず、首を横に向かせようとした。
「……何が上手くなった、だ。あんな、あんな痛いやつ……っ。普通は、傷痕すら残らねぇらしいじゃねぇか!」
理玖の視界の端で、男の涎が牙の先端から糸を引くのが見える。欲に忠実で、完全に理性が飛びかけた吸血鬼の顔をしていた。
――噛む時は痛くないようにする。噛んだ傷の予後が悪くないように治癒させる。
それは車内で聞いた、話の続きだった。
『吸血鬼の唾液にはね、そういった効能がある。じゃないと人間がすぐに死んでしまうだろう?』
『そうそう。んで、長命種の吸血鬼の血を人間に飲ませるとさ、滋養強壮になんの。吸った血の量をすぐには戻せないけどね。回復の手助けにはなるってわけ。どう、面白いでしょ?』
だから、奈鬼羅と野良は吸血鬼のあり方からして違うのだと、あの二人はさらりと軽く理玖に告げたのだ。
――そんなの、知りたくもねぇ。全然、面白くもねぇ。
理玖の首元に生温かい吐息がかかった。男の牙がちらりと覗き、舌が理玖の耳の後ろを舐めるように這った。ぞわっとした鳥肌が理玖を襲う。
「うわぁ、なにこれ。久々だから、匂いだけで頭おかしくなりそう。やっぱりキミは最高だなぁ」
「放せ、よ――っ!」
今までは、吸血鬼に狙われても、無視、煽り、と隙をつき、さらに地の利を活かして逃げてきた。
この男が直接介入し、または裏で何かし、深追いがなかったせいもある。
――吸血鬼なんか嫌いだ。理不尽だ。
理玖は首から上を固定されたまま、震えないように自分を叱咤して声を張り上げた。
「――のっ、変――態、が!」
理玖の蹴りが、男のみぞおちに綺麗に入った。的確に、でも容赦なく、それは逃げるために走り続けた理玖が培った、筋力の賜物だった。
「がっ……!」
男がよろめいた。理玖の首筋から口が離れ、押さえていた手が一瞬だけ緩む。しかし、一瞬だけだった。
「……いったいなぁ」
男は腹を押さえながら、にやりと笑った。人間の蹴り程度で倒れる吸血鬼など存在しないだろう。
――本当に、卑怯だろ!
致命傷には程遠く、せいぜいが虫に刺された程度の不快感、猫のじゃれつき、甘噛みの可愛げとでも言いたげな、男の余裕の笑みがそこにあった。
「理玖は本当に元気いいねぇ。そういうの嫌いじゃないよ?」
男の手が再び理玖に伸びた。今度は両腕をそれぞれ掴み、壁の上の方に押さえつけた。理玖の足が地面から浮く高さで、完全に磔の状態だった。
「ぐ、――っ」
「暴れる子、大好き。だって、暴れるほど体力使って、そのうちぐったりして、されるがままになるじゃん? そうなったらさ、最後、あの心の折れた瞬間が良いよねぇ」
男は理玖の抵抗を楽しんでいた。昔からそうだ。理玖が暴れるほどに、罵るほどに、興奮が加速していくような、乱入しては愉悦に満ちた顔で現れるのだ。
「さ、続きしよっか」
「――っ。放、せ――!」
「放して、だって。まだ可愛いこと言うじゃん」
男は両手を離さなかった。むしろ理玖を壁に高く押し上げ、足が完全に届かない位置に固定した。
ぶらぶらと揺れる理玖の身体を、品定めするように上から下まで眺め回している。
「ん~。すぐにお楽しみにしたいんだけど、この街、奈鬼羅様がいるしね。外だと血の匂い嗅ぎつけられちゃうから……ちょっと、屋内に避難しよっか。理玖も大きくなって、遠くまで運ぶには……暴れる、とさ。さすがに面倒なんだよねぇ」
「ふざ――けん、なっ! 行かねぇって、言ってんだろ!」
「えぇ~、でもさぁ。奈鬼羅様の飼い犬にはなりたくないでしょ? あの方たち血ぃ吸うだけ吸って、囲って、大事にするらしいけど、壊しちゃうって有名だよ?」
「――――っ」
ビクッと、理玖の動きが固まった。あまりにもあっさりと、さらりと言われた言葉が、理玖の心にぐさりと刺さった。
――言われなくったって、そんなこと……。
目の前の異常者から、理玖を金で買った彼らもまた同類だと言わんばかりの――いや、男の口ぶりはまるで、自分の方がましだとでも言いたげだった。
「あれ、急に黙っちゃった? 奈鬼羅様たちが善人にでも見えた? テレビとか出るもんねぇ、あの方たち。でも、吸血鬼だよ? 人間の血が一番の娯楽で、嗜好品なの、分かる?」
「……うるせぇ。奈鬼羅だろうが、ストーカーだろうが、俺にとっちゃどっちもど――っ」
理玖の顎を掴んでいた手が離れ、男の拳が腹に沈んだ。せりあがる吐き気と共に、肺から空気が押し出される。視界がチカチカと明滅した。
「あ、ごめんごめん。痛かった?」
男のそれは謝る顔ではなかった。むしろ、苦痛に歪む理玖の表情を堪能している顔だった。
軽く、と本人は思っているのだろう。だが人間にとって吸血鬼の軽い一発は、内臓が潰れる衝撃に等しい。
「はぁ……、大人しくしてくんないキミも悪いんだよ? いや、キミのことならなんでもウェルカムではあるんだけど。ここじゃ、血が吸えないし、ね。ほら、暴れないで、静かにじっとしてたら優しくしてあげるから」
「………………」
言い返したいのに、理玖は息が詰まって何も出来なかった。殴られた腹がズキズキと熱を持ち、視界がグラグラと揺れている。
「ほら、ちょっと場所移動しよっか。誰にも邪魔されないところで、たっぷり……さ?」
男は理玖の腕から手を離し、傾いだ身体に手を入れて楽々と抱え上げた。




