第7話
「坊や、いい性格してるのは褒めてあげる。でもね、坊やが人間なのは変わらないのよ?」
理玖の顎を撫でる女の声が低くなったかと思えば、それは一瞬の出来事だった。
「――っ!」
改札口を出てすぐ、月明かりも届かない路地の暗がりで、理玖は壁に押しつけられ息を詰めた。
壁に後頭部を打ちつけた痛みの中、理玖は理解する。吸血鬼の身体能力で移動させられた、と。
「ほら、やっぱり口だけよ。非力ねぇ、坊やはさしずめオオカミ少年かしら? 大法螺吹きねぇ、本当は怖いんでしょうぉ? こぉんな……吸血鬼を魅了するくらい――いい香り、だものね。絡まれ慣れてるんじゃなぁい?」
ニタァと口を歪めて嗤った女は、理玖の耳の後ろに鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅いだ。
痛みに、眩むほどキツイ香水の香りも混ざり、反射的に身体が強張る。理玖はうんざりするように呟いた。
「…………いい香り、ね。じゃあ、奈鬼羅の一族がそれに目をつけないとでも思ってんのか?」
「奈鬼羅、奈鬼羅って、ホント、そればっかりねぇ。いいわぁ、味見なんて趣味じゃないし、もっと邪魔の入らない屋内の方が、アタシは好みなんだけどぉ」
理玖を掴む女の手が、苛立ったようにギチッと力が強くなる。食い込んだ女の鋭い爪が、制服を裂いて針のように理玖の皮膚を刺した。
「坊やの減らず口を閉じてから、持って帰っちゃお。ねぇ、吸血されたことあるぅ? 吸われるとね、人間ってば動けなくなるのよぉ?」
女は片手で理玖の口を塞ぎ、そのまま首がよく見えるように顔を横へ反らせる。
女と言えど吸血鬼、理玖の力ではびくともしなかった。
「本当に生意気な目ね。折ってやるのが楽し――、何、この……匂い?」
何かに気づいたように、女の動作が止まった。理玖の制服の袖を乱暴にまくり上げ、肌を露出させる。爪を立てられた腕に、うっすら三日月の形をした赤い線が出来ていた。
「――はっ、傷とも言えない、この出血で? それでこれ?」
女はゴクリと喉を鳴らした。理玖を見る目が、飢えた獣のように変わる。
「やぁだ。大当たりじゃ――」
「はい、そこまでぇ」
言い終わらぬうちに牙を突き立てようとした女が、理玖の視界から消えた。
「ちっ」
「あれえぇ、つれないなぁ。助けてあげたじゃない?」
代わりに現れたのは、理玖の両頬を挟み、満足げに微笑んだ男だ。女を足で踏みつけたまま、目は理玖を見つめて離さない。
理玖は毒つくように舌打ちをした。爪が食い込んだ時点で誰かが来ると思ったが、来てほしくない奴が来たせいだ。
「キメェ、呼んでねぇ。ここまで追ってくるとか、ただのストーカーだろうが、お前」
「良いねぇ、良いねぇ。久しぶりの理玖の罵倒。昔は泣いて可愛かったのに、大きくなったよねぇ。人間の成長って早いなぁ、本当に」
「……ぐっ、誰よ。アン、タ……、アタシに何し……っ」
ギリッと歯軋りする音が聞こえた。殺気にまみれた醜い顔で、女が憤怒で震える声を出した。
「喋るなよ。こんなのゴミ掃除にも入らないだろ。オレの理玖に汚い手で触ってさぁ。この子、オレが育てたんだぜぇ?」
男は女に目もくれず、容赦なく足で顔をまた踏みつける。鈍く生々しい音が、理玖の耳にまた届いた。
「誰が……、お前のだ。育てられた覚えもねぇ、ふざけんな」
「あぁ、声変わりしても、理玖はいい声だよねぇ。……それを、たかだかゴミの分際で、理玖の言葉が、ただのハッタリだってぇ? 理玖が命乞いのためだけに、意味もない嘘言うわけないからさぁ。見当違いも甚だしいって」
目の前の男も、下の女も見るに堪えなくて、理玖は横へ視線をずらす。
逃げた理玖をすぐに追ってくると、都合のいい時だけ奈鬼羅の彼らに期待してたわけではない。
――最悪。コイツ、なまじ強ぇんだよな。
この男以外で誰か、雑魚同士で揉めてくれればその隙に――と、思っていたのだ。
「いやぁ、奈鬼羅様が新しい人間を飼うって、界隈ではとっくにホットニュースになってたんだよぉ? 野良で知らないって、その頭、ゴミどころか中身空っぽなんじゃなぁい?」
理玖の頬を壊れ物でも扱うように丁重に撫でて、男は足でグリグリと女をいたぶっている。さっきの威勢もなく、聞いてる方が痛くなるような女の呻き声が発せられていた。
「……でもね。ムカつくよねぇ、オレの理玖を横からかっさらおうとするとか。いくら奈鬼羅様でもさぁ」
男は指が白くなるほど強く、理玖の顎を掴む。人間の筋力で振りほどける類の拘束ではない。
理玖と目線が合うように顎を動かし、男は欲を隠さずに話を続けた。
「理玖ぅ、二人でさ、奈鬼羅様の手の及ばない所に行こうよ。無人島でも、山奥でも、海外とかも良いねぇ?」
「誰が行くかよ。一人で行け」
「えぇ、冷たい。オレ、もう理玖の血しか無理なんだって、あの味忘れらんないの。でも、昔飲み過ぎて壊しかけたからさ。大きくなるまで我慢したんだよ、偉くない?」
男が恍惚とした表情で、思い出しすように目を細めている。まるで極上のワインを舌の上で転がすような顔だった。
理玖がこの男に初めて会ったのは、小学生に上がったばかりの頃だ。体育で転けて擦りむいた傷の手当てを受けるありふれた学校生活で、その下校中だった。
――軽く言いやがって、あの吸血の苦痛が、俺が、どんな気持ちだったか……っ!
怖くて、痛くて、声が枯れる程泣いて、何が起こったのか……。突然のことで理玖には最初、分からなかった。
次に目を覚ましたのは病院で、不運な事故として処理されたのだ。
「今までずっと、他の野良が手を出さないように、オレが守ってあげてたじゃん。見返りにさぁ、卒業式記念の血、ちょうだい?」
「どこがだよ。恩を売るために、毎回影でずっと見てるド変態が……、なに言ってやがるっ!」
「あぁ……。その目、とっても良い。オレが野良の相手してると、脇目も振らずに走って逃げるもんねぇ。恐ろしいよねぇ。あの必死さ、いつも見てたよ、可愛いのなんのって」
男が、熱いほどの眼差しで理玖を見つめている。理玖が少しいたぶられたタイミングでいつも出てくるのだ――さっきのように。




