第5話
「あ、ちゃんと明確な終わりを決めようか。逃げるリミットは……、そうだな。夜明けの始発が動く時間まで、逃げきれたらそのまま好きに出来るから、ちょうど良いでしょ? で、どうする?」
「本邸がさぁ、理玖の通ってた学校からだと遠方で、場所が山の中なの。帰るとなれば、夜も運転しっぱなしになっちゃうんだよね。俺たちは良いけど、理玖は人間だから、余裕もって一泊してくってわけ。ってことで、時間はたくさんあるよ」
遥人がにっこりと目を閉じて笑う。耀もなぜホテルに向かったのかをここで補足してきた。
「………………」
理玖は思わず、ドアへとベタッと後ずさった。今まで吸血鬼相手に逃げきってきた本能による反応だった。
頭で考えるより先に、体が動いた。理性では、たかがゲーム、遊ばれていると分かっていても、あの碧い目の奥に潜む何かが、理玖の勘に警鐘を鳴らしているのだ。
「あ、可愛い」
遥大はそれを距離を詰めるでもなく、ただ観察していた。どう動いても、許容するような寛容さだった。
「ねぇ、やるの? やらないの? せっかくのチャンスだよ?」
耀が運転席から背もたれに寄りかかって、にまにまと笑いを隠さず、理玖を見つめている。
「てかさぁ。君、またちょっと勘違いしてない? これ、理玖のためを思って言ってあげてるの、分かる? 遥大兄、優しいからさぁ。約束守る奴だよ?」
「そうそう。逃げきれたら、理玖君のことは諦めて、綺麗さっぱり忘れてあげる」
これまでの発言を棚に上げるように、遥大は帳消しにすると言いきった。
「ふふ、拒否してもいいよ? でもその場合、ゲームはなし。つまり俺の言うこと……なんでもっていうのは、ゲームに負けた時じゃなくて――今すぐに、発動するかもね?」
遥大の声は優しく、柔らかかった。流れに騙された人間が過去にいたのではと、理玖が邪推するほどだ。
――ふざけんな。
選択肢を与えているように見せて、実際にはどちらを選んでも同じ結末に辿り着くよう設計されていると分かる。吸血鬼に有利な完璧な二択なのだから。
「…………っ」
理玖は舌打ちすると、彼らに付き合うことなく、車のドアを開けて外に向かって走り出した。
ずっと逃げ続けた脚力が理玖の武器だ。さらに学校からホテルの駐車場までの道のりは、窓から景色を見て全て頭に入っていた。
――なにしたって変わらねぇとか言うなら……!
理玖はホテルの敷地外まで、迷うことなく進んだ。野良の吸血鬼だけじゃない。親が家に不在の間、借金取りからも逃げたことがある。
逃げ続けた年月が生み出した、思考力と体力が理玖にはあった。
――ホテルの中でいいように扱われるなら、少しでも走って時間稼いでやる。
ずっと狭い車内の密室だった。立て続けの展開に、もう堪えきれなかった。ひたすら走れば、少しは頭の中が空になるだろうか。
数時間振りのスモーク越しではない景色、だが――外は、もう真っ暗だ。
時刻は夜七時過ぎ。帰宅ラッシュが一段落し、辺りの飲食店が賑わっている。春の冷えた空気が理玖の肌を叩く。
――当然だけど、知らない街、知らない土地。
所持品はポケットのスマホが一つ。卒業式だったから、バッテリーはほとんど減っていない。
理玖が走りながらスマホを開けば、SNSへの未読メッセージが幾つか来ていた。開くことなく、ポケットに仕舞った。
――時間が欲しい。一人で頭ん中、整理してぇ。
排気ガスの臭い、人間の生活臭。理玖は通り過ぎながら、振り返らなかった。追ってくる気配はない。すぐに捕まえる気がないのだろう。息ひとつ乱さず、制服姿で走り続けた。
「――クソッ!」
背後で、何の気配もない。追いかけてくる足音が、ない。
◇◆◇◆◇◆◇
「遥大兄、……理玖、返事もせずに行っちゃったけど?」
ホテルの駐車場で、耀が車の鍵を弄びながら、理玖が走り去っていった出入口を眺めていた。
「ああ、行っちゃったね。耀、まだ追わなくていいよ」
遥大は車に軽くもたれ、空を見上げていた。その顔には焦りの色など微塵もなく、むしろ予定通りだとでも言うような、余裕に満ちた微笑みが張り付いている。
「ずっと外見てて、ホテルからスタートだから心配要らないでしょ。頭の回転の早い子みたいだし、疲れたら帰ってくるだろうね」
「うわぁ……。ね、なんで鬼ごっこ提案したの?」
「なんで、かぁ……耀はなにも思わなかったの? 車内の会話」
「あ――、野良に追いかけられてたとかのやつ? でも、アレは理玖の匂いがヤバすぎるって。昔、怪我して血の匂いで襲われたとか言ってたけどさ。今日、怪我してない状態の車内でも充満してたじゃん? 俺、くらくらしたんだけど、なんで遥大兄、平気なの?」
耀はトランクを開けて、理玖の持っていた卒業式の紙袋を始めとする荷物を取り出した。
「ん? そりゃ、奈鬼羅家の長男だしね。血を飲んだらどうなるか分からないけど、直接の血の匂いでもなく、ただの体臭なら大丈夫かな。耀は匂いに慣れるまで過度な接近控えて」
「えぇ、お預けなわけぇ? それ、困るぅ。ちょっとくらい良くない?」
「困らないでしょ。ダーメ。頻繁に吸血しなくても、別に死にはしないんだから、理玖の方が大事」
ひらひらと手を振って、遥大は受付の方へ歩いていく。それも本館の一般受付ではなく、離れの宿泊者専用の出入口から、さらに直通のエレベーターを使って上った先の受付だ。
「大事なわりには、今、放ったらかしじゃん。他の兄弟に怒られるよ?」
「追い詰めすぎて、すぐに壊れたらダメだろう? それに、勝手した分のツケは理玖自身が払うことになる」
「遥大兄のお仕置き?」
遥大が手慣れた様子で受付を済ませるのを見ながら、耀は思ったままを口にした。
手続きを終えて振り返った遥大から、張りついていた笑みが消えている。
「耀、受付済んだら荷物置いて、君はすぐ本来の仕事ね。理玖の吸血鬼への不信感、野良が好き放題したせいだよ?」
「……あ――、はいはい。怖いから、そんな目で睨まないで」
「理玖の首に、野良の噛み痕があっても?」
「……は?」
遥大の一言に、今度は耀の飄々とした笑みも消えた。




