噂と、居心地のいい家
給湯室での衝突と茅の熱からの仲直りを経て、二人の距離は確かに近づいていた。
スキンシップの許可は「職場以外で、もう少し」に広がった。
家では茅がつむぎの髪を梳いたり、肩に軽く触れたり、食後に手を握ったりすることが増えた。つむぎは「はずかしい」と言いながらも、完全には拒まなくなっていた。それでも、心の奥では「これは仮の同居だ」「修繕が終われば終わる」と何度も自分に言い聞かせていた。
そんなある月曜日の朝。
オフィスに到着した瞬間から、空気がおかしかった。営業部の方から、ひそひそと聞こえてくる噂話。
「ねえ、聞いた? 茅さん」
「休日に、とんでもない美人と歩いてたらしいよ」
「マジで? あの茅さんが? 立華課長を口説いてるって噂だったのに」
「超美人だったらしい。スタイルも抜群で、誰も見たことない人だって。グレーのワンピースで、髪下ろしてて……」
つむぎの手が、キーボードの上で止まった。
胸の奥が、不意に凍りついた。
——グレーのワンピース。髪を下ろして。
週末のデートで、茅に選んでもらった服装だ。バーに行く前に、街も歩いた。
噂は午前中のうちに、管理部にまで広がった。
「立華課長、知ってます?」「茅さん、本気じゃなかったのかな」——そんな視線が、チラチラと飛んでくる。つむぎは表情を変えず、淡々と仕事を続けた。でも、心臓がうるさいほど鳴っている。ばれたらどうしよう。休日の自分の姿が、社内に知られたら。
昼休み近くになって、つむぎは給湯室にコーヒーを淹れに行った。
廊下の角を曲がったところで、営業部の数人が茅を取り囲んでいるのを目撃した。
「茅さん、本当なんですか? 休日の美人さん」
「誰なんですか? 彼女?」
「立華課長のこと、諦めたんですか?」
いつもなら「さて、どうでしょうね」とおちゃらけて流す茅が、今日は違った。
真顔で、はっきりと答えていた。
「プライベートだし、詳しくは言えない。ただ、誤解されるような関係じゃないよ」
声が低い。
冗談めかした様子は一切ない。周囲が「えー、教えてよ」「隠すなんて珍しい」と食い下がっても、茅は首を横に振った。
「誰かと歩いていたことは事実だけど、何度も言うけどそれ以上はプライベートだ。勝手な噂で、他に迷惑をかけないでくれ」
つむぎは壁に背中を預けたまま、その光景を見つめていた。
茅が、自分の秘密を守ろうとしてくれている。胸の奥が熱く高鳴った。
——自分で認めたくない感覚。「そんなはずない」とすぐに打ち消す。でも、打ち消すたびに、逆に意識してしまう。茅が真剣な顔で自分を守ってくれている姿が、離れない。心にはっきりと芽生えているのを、自覚してしまった。
午後、茅が書類を持って事務課に現れた。
「立華課長、これ頼むよ」
周囲の視線が集中する中、つむぎはできるだけ平静を装った。
「はい。確認します」
茅は彼女のデスクにファイルを置き、周囲に聞こえない声で短く言った。
「大丈夫だ。絶対に言わない。つむぎの秘密は、俺が守る」
つむぎは書類に目を落としたまま、小さく頷いた。
「……ありがとう」
声が、少しだけ震えた。
茅は優しく微笑んで去っていった。背中を見送りながら、つむぎは自分の心臓の音を聞いていた。
――
家の修繕は順調に進んでいた。
管理会社からの連絡では「来週中には入れるようになる見込み」とのこと。あと数日で、この同居は終わる。
一緒に過ごすのも、慣れてきた頃だった。
朝は茅が作る朝食を食べ、彼の車で出勤する。夜は「ただいま」「おかえり」を交わし、並んで夕食を食べる。スキンシップは、以前より自然になっていた。
その日の夜。
つむぎは仕事から戻り、茅のマンションの掃除をしていた。自分が使っている分の荷物が増えていたので、整理整頓も兼ねて。リビングの棚を拭きながら、ふと口をついて出た。
「……居心地、いいな」
自分の家より、整っていて、温かくて、誰かが待っていてくれる。
鍵を開けた瞬間に明かりがついていて、「おかえり」と言ってもらえる。そんな日常が、いつの間にか染みついてしまっていた。
「居心地いい、か」
後ろから茅の声がした。
つむぎはびくりとして振り返る。茅がドアのところに立っていて、仕事のカバンを置いたところだった。聞いていた。完全に聞かれていた。
「……気のせいです。ただの独り言です」
「気のせいじゃないよ。はっきり聞こえた」
茅は獲物に狙いを定めたかのように、ゆっくりと近づいてきた。
視線が、甘い。
「つむぎが、俺の家を居心地いいって言ってくれた。嬉しい。すごく嬉しい」
「違います。修繕が終わるまでの話で……」
「修繕、来週には終わるらしいな。でも、つむぎが居心地いいって言ってくれたなら、俺はもっと残ってほしい」
茅は彼女の腰に両手を回し、引き寄せた。
密着する体温。スキンシップが明らかにマシマシだった。額を寄せ、鼻先が触れそうな距離で囁く。
「噂の件も、ちゃんと守っただろ?」
「...そうですね。ありがとうございます」
「つむぎが心配そうにしてたの、わかってたから」
茅は彼女の頰に唇を落とし、耳に、首筋に、と優しくキスを重ねた。
つむぎは彼の胸に手をつけて、押し返そうとする。でも、力が入らない。
「や……やめて……」
「やめたくないよ。つむぎが素直に『居心地いい』って言ってくれたのが、可愛すぎて。あと秘密を守ってあげられて、よかった」
茅は彼女をソファに座らせ、自分も隣に座って抱き寄せた。
腕の中で、つむぎの心臓が大きく鳴っているのがわかった。
「あの美人は、休日のつむぎだ。俺以外に知られちゃいけないから、絶対に隠し通す。つむぎの全部を、俺だけが知ってたい」
つむぎは彼の胸に顔を埋めた。
嬉しい。守られている安心感と、甘い気持ちが同時に溢れてくる。でも、素直に「好き」と言えない。
「……私は、もうすぐ帰ります。修繕が終わったら」
「帰らなくてもいい。居心地いいって言ったんだから。もう二人の家だよ。つむぎの居場所増えただろう?俺の隣はもうつむぎのものだ」
茅は彼女の顎を優しく持ち上げ、目を合わせた。
「素直になってくれ。つむぎは俺のこと、どう思ってる?」
つむぎの唇が、震えた。
恋心が芽生えている。自覚してしまった。茅が自分の秘密を守ってくれたこと。真剣な顔で噂を否定してくれたこと。全部が、胸に沁みている。
「……わかりません。ただ、約束を守ってくれてるってわかって、嬉しかったです。それだけです」
「それだけで、十分だ」
茅は彼女の額に、長くキスを落とした。
「つむぎが俺を少しでも意識してくれてるって自惚れていい?俺はつむぎが好きだ。本気で。修繕が終わっても、関係は終わりたくない。休日のつむぎも、昼間の課長姿も、全部好きだ」
つむぎは目を閉じた。
スキンシップが甘すぎて、思考が溶けそうになる。
「……急にそんなこと言わないで」
「急じゃないよ。ずっと言いたかった。つむぎが『もう少し』って許可してくれたから、言えるようになった」
茅は彼女を抱きしめたまま、ソファに深く沈んだ。
「今夜は、もう少し一緒にいたい。触れていたい」
つむぎは小さく息を吐いた。
拒む言葉が、喉まで出かかって、消える。
「……少しだけ、なら」
「少しだけでいい。つむぎが素直になるまで、俺は待つ。でも、離しはしない。秘密も、つむぎの心も、全部俺が守るから」
夜が更けるまで、二人はソファで寄り添っていた。
茅の体温と、甘い言葉と、優しいキス。つむぎは彼の胸に顔を埋めながら、思った。
茅さんが、私の秘密を守ってくれる人でよかった。
自覚してしまった恋心が、胸の奥で熱く灯っていた。
修繕の終わりが近づく中、つむぎは茅の腕の中で、初めて素直に彼の体温を受け入れた。心地よかった。そして、茅が隠してくれた「休日の自分」も、二人だけの大切な秘密として、静かに胸に収まった。
会話の違和感を修正しました!流れに変更はありません!




