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堅物女子がどろどろに甘やかされて落とされるまで  作者: 花依はな


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7/13

調子に乗った

家が住めなくなって茅のマンションに身を寄せてから、十日が過ぎていた。

週末のデートでスキンシップを少しだけ許可してしまったことが、つむぎの中でまだ生々しく残っている。


バーで彼の腕の中に収まった感触。額や頰に落ちたキスの熱。「いいです。少しだけ」と自分で言ってしまった言葉。


あれから、茅のスキンシップが増えたのは間違いない。

それも視線が甘い。「新婚さん」という言葉を、時々冗談めかして口にする。つむぎはそれに対して「はずかしい」と返しながらも、完全に拒めなくなっていた。


そんなある平日の午後。

つむぎは給湯室で小休憩のコーヒーを淹れていた。インスタントではなく、ドリップで。湯気が立ち上る音と、コーヒーの香りが狭い空間を満たす。誰もいない時間帯を見計らって来たつもりだった。


「立華課長」


後ろから、いつもの軽い声がした。

茅だった。ドアを閉めて、中に入ってくる。営業の忙しい時間帯なのに、ここにいる。


「……茅さん。何か用ですか」

「コーヒーの匂いがしたから。立華課長が淹れてるなら、一杯もらおうかと思って」


彼はつむぎの隣に立ち、カウンターに肘をついた。

近い。肩が触れそうな距離。つむぎはドリップポットを握りしめ、少し体を離した。


「自分で淹れてください。器具は自由に使っていいので」

「つむぎが淹れた方が美味しいだろ」


茅は彼女の手元を覗き込むようにして、声を低くした。


「それに、少しだけスキンシップ許可してもらったのに、職場で何もしないのも寂しいよ。肩、少し貸してくれないか」


つむぎの手が止まった。

湯気が顔に当たる。


「……茅さん」

「ん?」

「スキンシップの許可は、ほんの少しだけです。あと名前。職場でいいわけないでしょう」


声が、思ったより冷たく出た。

茅は目を丸くして、すぐに苦笑した。


「冗談だよ。触れない。でも、立華課長が赤い顔してるの、可愛いなって」

「からかわないでください」

「からかってない。本気で可愛いと思ってる」


茅が指を伸ばして、つむぎの頰に触れそうになった瞬間、つむぎはポットを置いて彼の手を払った。

音が小さく響く。


「しないでください。ここは職場です。私は課長で、茅さんは営業の方です。変な噂が立ったら、どうするんですか」


茅の笑顔が、少しだけ消えた。


「……ごめん。調子に乗りすぎた」

「本当に、いい加減にしてください。家では仕方ないかもしれませんが、ここまで付いてくるのもやめてください」


つむぎはコーヒーをカップに注ぎ、給湯室を出た。

茅は追ってこなかった。背中に視線を感じながら、つむぎは自分の席に戻った。手が、少し震えていた。怒りというより、動揺だった。許可した自分も悪いのに、茅を一方的に責めてしまった気がする。


――


その日の夜。

つむぎがマンションに帰ると、リビングの明かりはついていたが、茅の「おかえり」はなかった。

キッチンから簡単な夕食の匂いがする。茅はテーブルに座って、書類を見ていた。


「……ただいま」

「……おう」


短い返事。

いつもなら「おかえり」と笑顔で迎えてくれるのに、今日は目も合わせない。つむぎは荷物を置き、黙って手を洗った。


食卓につくと、茅が無言で皿を分けてくれる。

会話がない。箸の音だけが、静かに響く。ピリピリした空気が、部屋を満たしていた。


つむぎは何度か口を開きかけて、やめた。


給湯室での自分の言葉が、まだ耳に残っている。茅も、無理に話題を振ってこない。スキンシップどころか、視線もほとんど交わらない。

食事が終わり、つむぎが皿を下げようとしたとき、茅が小さく言った。


「明日の朝、俺が送る。いつも通りで」

「……はい」


それだけだった。


つむぎは風呂に入り、部屋に閉じこもった。天井を見つめながら、胸が重い。茅の寂しそうな横顔が、目に焼きついている。


翌日も、翌々日も、空気は変わらなかった。


朝は「行ってきます」「いってらっしゃい」だけの最低限のやり取り。夜は「ただいま」に「はい」と返されるだけ。茅は早めに帰ってきてご飯を作ってくれるが、会話はない。スキンシップはもちろん、冗談めかした「新婚さん」という言葉も消えた。つむぎはそれが、逆に苦しかった。


ある夜、つむぎは我慢できなくなって、口を開いてしまった。


「茅さん」

「……何?」

「私は、二週間ほどの居候です。たまたまバーで居合わせて、家が水浸しになって、無理やり連れてこられたようなものです。茅さんが勝手に鍵を渡したり、新婚気分とか言ったりするから、おかしくなるんです。私は、ただの仮住まいの人間です」


言葉が、自分でも意外なほど鋭く出た。

そんなことが言いたかったわけじゃないのに。


茅は書類から顔を上げ、彼女を見た。目が、静かに揺れている。


「……そう、か」

「はい。だから、あまり深入りしないでください。修繕が終わったら、すぐに出ていきます」


茅はしばらく黙っていた。

それから、小さく頭を下げた。


「ごめん」


それだけだった。

つむぎが何か言い返そうとしても、茅はもう何も言わなかった。部屋に戻り、ドアを閉めた音だけが残る。


それ以降、家での会話は完全になくなってしまった。

つむぎはベッドで、自分の言葉を何度も反芻した。言い過ぎた。本当は、そこまで思っていない。無理やり連れてこられたわけでも、居候を嫌っているわけでもない。ただ、距離が近づきすぎて怖くなって、つい棘のある言葉を吐いてしまった。茅の「ごめん」が、胸に刺さっている。あの人は、いつも自分を優先してくれていたのに。


――


それから二日後の夜。

つむぎが残業を終えてマンションに帰ると、リビングの明かりが薄暗かった。

いつもなら茅が待っているのに、姿が見えない。


「……ただいま」


返事がない。

キッチンも静かなまま。おかしいと思って廊下を進むと、ソファに茅がうずくまっていた。額に手を当てて、息が荒い。


「茅さん!?」


つむぎは慌てて駆け寄った。

触ると、額が熱い。かなりの熱がある。


「熱、出てます……! 大丈夫ですか」


茅は薄く目を開けて、弱々しく笑った。


「……大丈夫だよ。少し、疲れただけだから」

「大丈夫なわけないでしょう! 寝てください。薬、ありますか?」

「寝室の……引き出しに」


つむぎは彼を支えるようにしてベッドへ連れて行き、横にした。

濡らしたタオルで額を冷やし、解熱剤を飲ませる。茅は薬を飲むと、すぐに意識が遠のくように目を閉じた。熱に浮かされた頰が、赤い。

つむぎは椅子をベッドの脇に引き、彼の手を握った。


熱い。


「……ごめんなさい」


声が、震えた。


「言い過ぎました。居候だとか、無理やりだとか……そんなこと、本当は思ってません。茅さんが優しくしてくれるのが、嬉しくて、でも怖くて。素直になれなくて、つい」


茅は答えない。

寝息だけが、規則正しく続く。

つむぎは彼の手を、両手で包み込んだ。


「ごめん。本当に、ごめんなさい。私、茅さんに嫌われたくないのに、意地悪なことばかり言って。スキンシップも、許可したのに職場で怒ったりして……矛盾してるの、自分でもわかってます」


涙が、一筋頰を伝った。

つむぎはそれを拭わずに、茅の手に額をつけた。


「休んでください。治ったら、ちゃんと謝ります。会話、したいです。『おかえり』って、言ってほしいです」


夜が更けるまで、つむぎは彼の傍を離れなかった。

熱を測り、タオルを替え、水を口に含ませる。茅が小さくうなされるたびに、胸が痛んだ。自分が傷つけた人を、自身が支えたかった。


――


翌朝。

茅の熱は、少し下がっていた。

つむぎが目を覚ますと、茅が彼女を見ていた。弱々しいが、意識ははっきりしている。


「……つむぎ」

「起きてますか。熱、まだありそうですね。無理しないでください」

「つむぎが……側にいてくれたのか」

「...はい」


茅はゆっくりと手を伸ばし、彼女の指に触れた。

つむぎは今度は払わなかった。


「ごめん。俺が悪かった。職場で調子に乗りすぎた。つむぎが嫌がるのに、無理に近づこうとして」

「違います。私が悪かったです。言い過ぎました。居候だとか、無理やりだとか……あんなこと、言わなければよかった。茅さんが鍵をくれたり、ご飯を作ってくれたり、『おかえり』って言ってくれたりするのが、本当は嬉しかったのに。素直に言えなくて」


つむぎの声が、途中で詰まった。

茅は彼女の手を、優しく握り返した。


「……つむぎ」

「茅さん...」


茅の目が、柔らかく細められた。


「つむぎ。ありがとう。側にいてくれて。謝ってくれて」

「こちらこそ、ありがとうございます。いつも優しくしてくれて」


二人はしばらく、手を繋いだまま黙っていた。

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を優しく照らす。ピリピリした空気は、もうどこにもなかった。


茅は弱々しく微笑んで、言った。


「新婚さんの喧嘩、だったな」

「……まだ言うんですか」


つむぎは彼の額に、新しいタオルを当てた。

指先が、自然に髪を梳く。


「スキンシップ、もう少し許可します。職場以外で。……触れていいです」


茅の目が大きく見開かれ、すぐに嬉しそうに細められた。


「本当に?」

「本当です。ただし、調子に乗らないでくださいね」

「乗らない!」


茅は彼女の手を引き、自分の頰に当てた。

にっこりと笑うその顔に熱はまだ残っているが、その体温が心地よかった。つむぎは俯いて、彼の手を握り返した。


距離が、本当に近づいた。

喧嘩して、傷つけ合って、それでも側にいたいと思った。居候だとか、仮住まいだとか、そんな言葉はもう、要らない。


つむぎは茅のベッドの脇で、静かに微笑んだ。


「お粥、作ります。食べられますか?」

「ああ。奥さんが作ってくれるなら」

「調子に乗らないでください」

「病人だから、ゆるしてよ」


二人の間に、やっと温かい笑いが戻ってきた。

窓の外では、朝の街がゆっくりと動き始めている。修繕が終わるまでの日々が、もう仮のものではなくなりつつあった。

会話を中心に加筆修正しました、流れに変更はありません!

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