調子に乗った
家が住めなくなって茅のマンションに身を寄せてから、十日が過ぎていた。
週末のデートでスキンシップを少しだけ許可してしまったことが、つむぎの中でまだ生々しく残っている。
バーで彼の腕の中に収まった感触。額や頰に落ちたキスの熱。「いいです。少しだけ」と自分で言ってしまった言葉。
あれから、茅のスキンシップが増えたのは間違いない。
それも視線が甘い。「新婚さん」という言葉を、時々冗談めかして口にする。つむぎはそれに対して「はずかしい」と返しながらも、完全に拒めなくなっていた。
そんなある平日の午後。
つむぎは給湯室で小休憩のコーヒーを淹れていた。インスタントではなく、ドリップで。湯気が立ち上る音と、コーヒーの香りが狭い空間を満たす。誰もいない時間帯を見計らって来たつもりだった。
「立華課長」
後ろから、いつもの軽い声がした。
茅だった。ドアを閉めて、中に入ってくる。営業の忙しい時間帯なのに、ここにいる。
「……茅さん。何か用ですか」
「コーヒーの匂いがしたから。立華課長が淹れてるなら、一杯もらおうかと思って」
彼はつむぎの隣に立ち、カウンターに肘をついた。
近い。肩が触れそうな距離。つむぎはドリップポットを握りしめ、少し体を離した。
「自分で淹れてください。器具は自由に使っていいので」
「つむぎが淹れた方が美味しいだろ」
茅は彼女の手元を覗き込むようにして、声を低くした。
「それに、少しだけスキンシップ許可してもらったのに、職場で何もしないのも寂しいよ。肩、少し貸してくれないか」
つむぎの手が止まった。
湯気が顔に当たる。
「……茅さん」
「ん?」
「スキンシップの許可は、ほんの少しだけです。あと名前。職場でいいわけないでしょう」
声が、思ったより冷たく出た。
茅は目を丸くして、すぐに苦笑した。
「冗談だよ。触れない。でも、立華課長が赤い顔してるの、可愛いなって」
「からかわないでください」
「からかってない。本気で可愛いと思ってる」
茅が指を伸ばして、つむぎの頰に触れそうになった瞬間、つむぎはポットを置いて彼の手を払った。
音が小さく響く。
「しないでください。ここは職場です。私は課長で、茅さんは営業の方です。変な噂が立ったら、どうするんですか」
茅の笑顔が、少しだけ消えた。
「……ごめん。調子に乗りすぎた」
「本当に、いい加減にしてください。家では仕方ないかもしれませんが、ここまで付いてくるのもやめてください」
つむぎはコーヒーをカップに注ぎ、給湯室を出た。
茅は追ってこなかった。背中に視線を感じながら、つむぎは自分の席に戻った。手が、少し震えていた。怒りというより、動揺だった。許可した自分も悪いのに、茅を一方的に責めてしまった気がする。
――
その日の夜。
つむぎがマンションに帰ると、リビングの明かりはついていたが、茅の「おかえり」はなかった。
キッチンから簡単な夕食の匂いがする。茅はテーブルに座って、書類を見ていた。
「……ただいま」
「……おう」
短い返事。
いつもなら「おかえり」と笑顔で迎えてくれるのに、今日は目も合わせない。つむぎは荷物を置き、黙って手を洗った。
食卓につくと、茅が無言で皿を分けてくれる。
会話がない。箸の音だけが、静かに響く。ピリピリした空気が、部屋を満たしていた。
つむぎは何度か口を開きかけて、やめた。
給湯室での自分の言葉が、まだ耳に残っている。茅も、無理に話題を振ってこない。スキンシップどころか、視線もほとんど交わらない。
食事が終わり、つむぎが皿を下げようとしたとき、茅が小さく言った。
「明日の朝、俺が送る。いつも通りで」
「……はい」
それだけだった。
つむぎは風呂に入り、部屋に閉じこもった。天井を見つめながら、胸が重い。茅の寂しそうな横顔が、目に焼きついている。
翌日も、翌々日も、空気は変わらなかった。
朝は「行ってきます」「いってらっしゃい」だけの最低限のやり取り。夜は「ただいま」に「はい」と返されるだけ。茅は早めに帰ってきてご飯を作ってくれるが、会話はない。スキンシップはもちろん、冗談めかした「新婚さん」という言葉も消えた。つむぎはそれが、逆に苦しかった。
ある夜、つむぎは我慢できなくなって、口を開いてしまった。
「茅さん」
「……何?」
「私は、二週間ほどの居候です。たまたまバーで居合わせて、家が水浸しになって、無理やり連れてこられたようなものです。茅さんが勝手に鍵を渡したり、新婚気分とか言ったりするから、おかしくなるんです。私は、ただの仮住まいの人間です」
言葉が、自分でも意外なほど鋭く出た。
そんなことが言いたかったわけじゃないのに。
茅は書類から顔を上げ、彼女を見た。目が、静かに揺れている。
「……そう、か」
「はい。だから、あまり深入りしないでください。修繕が終わったら、すぐに出ていきます」
茅はしばらく黙っていた。
それから、小さく頭を下げた。
「ごめん」
それだけだった。
つむぎが何か言い返そうとしても、茅はもう何も言わなかった。部屋に戻り、ドアを閉めた音だけが残る。
それ以降、家での会話は完全になくなってしまった。
つむぎはベッドで、自分の言葉を何度も反芻した。言い過ぎた。本当は、そこまで思っていない。無理やり連れてこられたわけでも、居候を嫌っているわけでもない。ただ、距離が近づきすぎて怖くなって、つい棘のある言葉を吐いてしまった。茅の「ごめん」が、胸に刺さっている。あの人は、いつも自分を優先してくれていたのに。
――
それから二日後の夜。
つむぎが残業を終えてマンションに帰ると、リビングの明かりが薄暗かった。
いつもなら茅が待っているのに、姿が見えない。
「……ただいま」
返事がない。
キッチンも静かなまま。おかしいと思って廊下を進むと、ソファに茅がうずくまっていた。額に手を当てて、息が荒い。
「茅さん!?」
つむぎは慌てて駆け寄った。
触ると、額が熱い。かなりの熱がある。
「熱、出てます……! 大丈夫ですか」
茅は薄く目を開けて、弱々しく笑った。
「……大丈夫だよ。少し、疲れただけだから」
「大丈夫なわけないでしょう! 寝てください。薬、ありますか?」
「寝室の……引き出しに」
つむぎは彼を支えるようにしてベッドへ連れて行き、横にした。
濡らしたタオルで額を冷やし、解熱剤を飲ませる。茅は薬を飲むと、すぐに意識が遠のくように目を閉じた。熱に浮かされた頰が、赤い。
つむぎは椅子をベッドの脇に引き、彼の手を握った。
熱い。
「……ごめんなさい」
声が、震えた。
「言い過ぎました。居候だとか、無理やりだとか……そんなこと、本当は思ってません。茅さんが優しくしてくれるのが、嬉しくて、でも怖くて。素直になれなくて、つい」
茅は答えない。
寝息だけが、規則正しく続く。
つむぎは彼の手を、両手で包み込んだ。
「ごめん。本当に、ごめんなさい。私、茅さんに嫌われたくないのに、意地悪なことばかり言って。スキンシップも、許可したのに職場で怒ったりして……矛盾してるの、自分でもわかってます」
涙が、一筋頰を伝った。
つむぎはそれを拭わずに、茅の手に額をつけた。
「休んでください。治ったら、ちゃんと謝ります。会話、したいです。『おかえり』って、言ってほしいです」
夜が更けるまで、つむぎは彼の傍を離れなかった。
熱を測り、タオルを替え、水を口に含ませる。茅が小さくうなされるたびに、胸が痛んだ。自分が傷つけた人を、自身が支えたかった。
――
翌朝。
茅の熱は、少し下がっていた。
つむぎが目を覚ますと、茅が彼女を見ていた。弱々しいが、意識ははっきりしている。
「……つむぎ」
「起きてますか。熱、まだありそうですね。無理しないでください」
「つむぎが……側にいてくれたのか」
「...はい」
茅はゆっくりと手を伸ばし、彼女の指に触れた。
つむぎは今度は払わなかった。
「ごめん。俺が悪かった。職場で調子に乗りすぎた。つむぎが嫌がるのに、無理に近づこうとして」
「違います。私が悪かったです。言い過ぎました。居候だとか、無理やりだとか……あんなこと、言わなければよかった。茅さんが鍵をくれたり、ご飯を作ってくれたり、『おかえり』って言ってくれたりするのが、本当は嬉しかったのに。素直に言えなくて」
つむぎの声が、途中で詰まった。
茅は彼女の手を、優しく握り返した。
「……つむぎ」
「茅さん...」
茅の目が、柔らかく細められた。
「つむぎ。ありがとう。側にいてくれて。謝ってくれて」
「こちらこそ、ありがとうございます。いつも優しくしてくれて」
二人はしばらく、手を繋いだまま黙っていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を優しく照らす。ピリピリした空気は、もうどこにもなかった。
茅は弱々しく微笑んで、言った。
「新婚さんの喧嘩、だったな」
「……まだ言うんですか」
つむぎは彼の額に、新しいタオルを当てた。
指先が、自然に髪を梳く。
「スキンシップ、もう少し許可します。職場以外で。……触れていいです」
茅の目が大きく見開かれ、すぐに嬉しそうに細められた。
「本当に?」
「本当です。ただし、調子に乗らないでくださいね」
「乗らない!」
茅は彼女の手を引き、自分の頰に当てた。
にっこりと笑うその顔に熱はまだ残っているが、その体温が心地よかった。つむぎは俯いて、彼の手を握り返した。
距離が、本当に近づいた。
喧嘩して、傷つけ合って、それでも側にいたいと思った。居候だとか、仮住まいだとか、そんな言葉はもう、要らない。
つむぎは茅のベッドの脇で、静かに微笑んだ。
「お粥、作ります。食べられますか?」
「ああ。奥さんが作ってくれるなら」
「調子に乗らないでください」
「病人だから、ゆるしてよ」
二人の間に、やっと温かい笑いが戻ってきた。
窓の外では、朝の街がゆっくりと動き始めている。修繕が終わるまでの日々が、もう仮のものではなくなりつつあった。
会話を中心に加筆修正しました、流れに変更はありません!




