新婚さんの週末
残業で帰宅が遅くなった翌朝。
つむぎは茅のベッドで、まだ深い眠りに沈んでいた。
休日だという安心感と、連日の疲れが重なって、身体が鉛のように重い。薄いカーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいる。部屋の空気は静かで、遠くで聞こえる街の騒音さえも、まどろみの中では遠くに感じられた。
そのとき、ベッドの脇で茅の声がした。
低くて、優しい声。
「つむぎ、起きてるか?」
「……ん……」
返事にならない吐息が漏れる。
茅は小さく笑って、彼女の髪に触れそうで触れない距離に手を伸ばした。
「新婚さんなので、週末デートしないか?」
まどろみの中で、言葉がぼんやりと耳に入ってくる。
新婚さん。デート。意味がうまく繋がらない。頭の中が、甘い霧に包まれているみたいだった。
「……うん……いいよ……」
適当に、ほとんど無意識に返事をしてしまった。
茅が小さく笑う気配がした。温かい視線が、自分の頰に落ちている気がする。
「ありがとう。じゃあ、後で起こすよ。ゆっくり寝ててくれ」
つむぎは再び、深い眠りに落ちた。
夢の中で、誰かが「おかえり」と優しく呼んでいる気がした。
――
二時間後。
「つむぎ、そろそろ起きてくれ。約束のデートだ」
つむぎはゆっくりと瞼を上げた。
まぶしい。茅がベッドの縁に座り、優しく微笑んでいる。シアーブラウンの髪が朝の光に透けて、柔らかく見えた。
「……はい?」
頭がまだ完全に覚醒していない。
茅は楽しそうに目を細めた。
「今朝、『いいよ』って言ってくれたよな。新婚さんの週末デートだ」
つむぎは枕に顔を埋めた。
昨夜の残業の疲れが、まだ身体の芯に残っている。
「適当に返事しただけです……! 寝ぼけてたんです! ちゃんと覚えてません!」
「でも、承諾は承諾だ。キャンセルはなしで頼む」
茅は彼女の布団を優しく剥がした。
冷たい空気が肌に触れて、つむぎは小さく身を縮める。
「それに、つむぎ、出かける服、ほとんど持ってきてないだろ。だから、まず服を買いに行こう。夜は久々にバーにも行こう。好きな服を着てくれ。できれば、ちょっと身体のラインが出る服がいい」
つむぎは起き上がって、茅を睨んだ。
頰が熱い。
「下心、隠さなすぎです」
「ああ。つむぎの綺麗なところ、俺だけに見せてほしいから。昼間のきっちりした姿も好きだけど、夜のつむぎも……大好きなんだ」
茅は彼女の手を取り、ベッドから優しく引っ張り起こした。
掌の温もりが、眠気を少しずつ追い出す。
「準備、手伝うよ。今日は一日、俺に任せてくれ。新婚さんのデート、俺が全部計画してるから」
つむぎは文句を言いながらも、結局身支度を整えた。
鏡の前で髪をまとめようとして、途中で止める。茅が後ろから「今日は下ろした方がいいよ。可愛いから」と囁いたからだ。拒みきれない自分が、少し悔しかった。胸の奥が、くすぐったい。
――
午後のショッピングモール。
明るくて広い通路に、人の声と音楽が溢れている。
茅はつむぎの隣を歩きながら、楽しそうに店を見て回る。時折、彼女のペースに合わせて歩幅を調整する。
「ここ、いいな。つむぎに似合いそうな色だ。落ち着いたトーンで」
試着室の前で、茅は何着も服を選んできた。
タイトめのワンピース、肩の開いたブラウス、少し腰のラインが出るスリットスカート。どれも、昼のつむぎが普段選ばない系統だった。
「これ、着てみてくれ。絶対可愛い。俺の目に狂いはないから」
「……茅さんが選ぶと、全部そういう系統になりますね」
つむぎはため息をつきながらも、試着室に入った。
カーテンを閉めて、服を着替える。鏡に映る自分は、確かにいつものスーツ姿とは違う。ボディーラインが自然に出るデザインに、頰が熱くなる。
「こんなの……仕事じゃ着られない」
出てくると、茅の目が一瞬で細められた。
視線が、ゆっくりと上から下へ落ちる。
「……やっぱり、可愛い。息が止まりそうだ。買うよ。全部」
「全部は多すぎます!」
「俺が払う。新婚さんの買い物だ。俺の家にいる間の、特別な服だ」
「誰が新婚さんですか。言い方もなんか変です」
「今朝、認めてくれたよな、新婚さんって。寝ぼけてても、本心が出るんだよ」
茅はレジに向かって歩きながら、振り返って笑った。
つむぎは後ろから追いかけて、彼の袖を軽く引っ張った。
「ああいう発言、人前で……恥ずかしいです」
「恥ずかしいのは、嫌じゃないってこと、だろ?」
つむぎは顔を赤くして、黙ってしまった。
茅はそれ以上いじらず、優しく袋を持ってくれた。
「赤い顔して照れてるの、好きだよ」
――
夕方までかけて、服と少しの小物を揃える。
茅は終始、下心を隠さなかった。
「これ、仕事に着てくれよ」
「絶対似合う」
「俺だけが見ていたい」
「腰のライン、綺麗だから」
つむぎは「はずかしい」を連発しながらも、なぜか楽しかった。
誰かに選んでもらうという、久しぶりに感じる甘えに、少しずつ心が緩んでいく。買い物袋が重くなるたびに、茅が「俺が持つよ」と自然に受け取ってくれる。その仕草が、当たり前のように優しかった。
カフェで休憩したとき、茅は彼女の前に甘い香りのするカフェラテを置いた。
「疲れてないか? ホットで少しはちみつ入れてる。ブラックが良ければ交換するぞ」
「……ありがとうございます、ちょうど甘いのが飲みたかったです」
つむぎはカップを両手で包み込んだ。陶器の温かさが指先に伝わってくる。ゆっくりと口をつけた。ミルクのまろやかさと、ほのかな甘さが舌の上に広がる。
その瞬間、視線を感じた。
顔を上げると、茅が真正面から彼女を見ていた。目を逸らす様子もなく、つむぎがラテを口にする様子を、じっと見つめている。つむぎが小さく目を細めて味を確かめると、茅の唇が緩んだ。静かに、でもはっきりと、嬉しそうに微笑んでいる。
つむぎはカップを少し強く握りしめ、もう一度、熱い液体を口に含んだ。甘さが、胸の奥まで染みる気がした。
「...つむぎが楽しそうにしてくれてるのが、俺は一番嬉しい。ちゃんと新婚さんのデートになってるか?」
「まだ言ってるんですか……」
「本気だよ。この時間が、俺にとって特別なんだ」
つむぎはカップを両手で包み、湯気を見つめた。
茅の視線が、優しく自分に注がれている。恥ずかしいのに、嫌じゃなかった。このまま時間が止まればいいのに、と思う自分がいた。
――
夜。
二人は、いつものバーへ向かった。
つむぎは茅に選んでもらった、肩の出るグレーのワンピースを着ている。髪を下ろし、清楚めなメイクをした。夜風が肌に触れるたび、ワンピースの生地が優しく揺れる。茅は隣を歩きながら、何度も視線をくれた。その視線が熱くて、つむぎは俯きがちになった。
「本当に綺麗だ。昼間の課長とは別人みたいで……でも、どっちも好きだ。俺の隣にいてくれるつむぎが、可愛いすぎる」
「また、そういうこと言って……」
「睨む顔もかわいい、好きだよ」
バーのドアを開けると、いつもの低いジャズと、琥珀色の照明が出迎えた。
カウンターの端に並んで座る。氷の入ったグラスが運ばれてくる音が、静かに響く。
茅が彼女の方に体を寄せてきた。
肩が触れそうな距離。
「今日は一日、ありがとう。新婚気分で満喫できた。つむぎの笑顔も見れたし」
「まだ言ってるんですか」
「本気だからな。で……一つ、お願いがある」
茅は彼女の手に、自分の手を重ねた。
熱い掌。指が、優しく絡まる。
「スキンシップ、許可してくれないか。触れたい。今日一日、我慢してたんだ」
つむぎはグラスを握りしめ、少し黙った。
氷が溶ける音が、いつもより大きい気がする。
恥ずかしい。
でも、今日一日、彼の優しさに触れて、拒む理由が薄れていた。鍵を預けられ、「おかえり」と待たれ、デートまがいなものもして、笑わされ、隣を一緒に歩いた。茅の下心を知りながらも、その温かさに絆されてしまった。
「……いいです。少しだけ」
茅の目が、明るく柔らかくなった。
「ありがとう」
彼はゆっくりと腕を回し、彼女の腰を抱いた。
密着する体温。ワンピースの生地越しに、彼の熱が伝わってくる。耳元で、低く甘く囁く。
「嬉しい。本当に嬉しいよ。つむぎが許してくれた」
「……耳元で話さないで」
「恥ずかしいのか?」
茅は彼女の髪に顔を埋め、優しく唇を寄せた。
額に、頰に、髪の生え際に。触れられるたびに、つむぎの心臓が大きく鳴る。
拒まない自分に、驚いていた。
恥ずかしいのに、身体が自然と彼に寄りかかってしまう。
「……そこまでいいなんて言ってないのに」
「俺、つむぎのことが好きすぎて、どうしようもないんだ」
茅は彼女を抱きしめたまま、カウンターの灯りを見つめた。
琥珀色の光が、二人のグラスを優しく照らしている。
「このまま、もう少しだけ。新婚さんの夜を、延長させてくれ。つむぎが『もういい』って言うまで、離さないから」
つむぎは彼の胸に、小さく額を預けた。
恥ずかしいのに、温かい。
彼の心拍が、耳に届く。絆されながらも、この腕の中が嫌じゃなかった。
社内恋愛は面倒くさい、絶対にしたくない、と何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに。
バーの低い音楽が、二人の距離を優しく包んでいた。
つむぎは目を閉じ、茅の体温に身を委ねた。今夜だけは、逃げなくてもいいかもしれない。そう思ってしまった自分に、少しだけ、甘く敗北した。
茅は彼女の髪を梳きながら、何度も「好きだ」「可愛い」「ありがとう」と囁いた。
その声が、夜のバーに溶けていく。
つむぎは彼の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
許可したスキンシップが、今夜は特別に優しくて、特別に甘かった。
絆され始めました。
※情景描写を中心に追記をしました。流れに変更はありません!




