一緒に住む、距離が縮まる
秘密を共有し、家が住めなくなって茅のマンションに身を寄せてから、三日が経っていた。
立華は有給を一日取ることにした。
家の修繕状況の確認と、生活用品の買い揃え。最低限の荷物しか持ってきていなかったので、下着や化粧品、仕事用の着替えなどが必要だった。
朝、茅にそのことを伝えると、彼はすぐに頷いた。
「わかった。今日は俺も早めに上がれるように調整する。何かあったらすぐ連絡してくれ」
「大丈夫です。一人でやれますから」
「でも今は俺の家にいるんだ。責任がある」
茅はキッチンの引き出しから、小さなカードキーと紙に書いた数字を取り出した。
「これ、マンションのカードキーと、玄関の暗証番号。渡しておく。自由に使ってくれ」
立華は目を見開いた。
「そんな……迷惑です。私がいるだけでも申し訳ないのに」
「謝らなくていいよ。俺を頼ってくれてるのが、嬉しいんだ。鍵を預けるくらい、当然だろ」
茅は彼女の手に、カードキーと紙をそっと置いた。
指先が触れる。立華は慌てて手を引いたが、茅は笑って追わなかった。
「恥ずかしいのはわかってる。無理に触れない。でも、鍵は受け取ってくれ」
立華は唇を噛み、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。大事に使います」
茅は満足そうに目を細めた。
「行ってらっしゃい。夜は俺がご飯作って待ってるから」
――
立華は一日を、修繕の確認と買い物に費やした。
管理会社で状況を聞き、写真を見せてもらう。天井は剥がれ、床はまだ湿っている。壁紙の端がめくれ上がり、湿った匂いが鼻をついた。
「早くても1か月はかかりますね」と改めて言われた。
その後、近くの商業施設で必要なものを揃える。下着、化粧品、タオル、簡単な衣類。茅の家に置くものだと考えると、選択に時間がかかった。棚に並ぶ商品を手に取り、戻し、また手に取る。自分の物が少しずつ増えていく感覚が、どこかで胸をざわつかせた。
夕方をとうに過ぎ、空が暗くなり始めていた頃、立華は重い袋を提げてマンションに戻った。
カードキーをかざし、暗証番号を押す。玄関のドアが開く音が、妙に大きく聞こえた。
「ただいま……」
声が自然に出たことに、自分で驚いた。
リビングの明かりがついている。いい匂いがした。煮物と、ご飯の香り。茅がキッチンから顔を出した。エプロンをつけている。立華は立ち尽くした。
「おかえり。遅かったな。大丈夫だったか?」
茅はすぐに袋を受け取り、テーブルに置く。
「手が冷たいな。温かいお茶、淹れるよ。風呂も沸かしてある。落ち着いたあとにでもいいから、先に入ってくれ」
至れり尽くせりだった。
鍵を預かっただけで、こんなに自然に「おかえり」と言ってくれる。ご飯を作って待っていてくれる。
「……すみません。遅くなって」
「謝らなくていい。無事に帰ってきてくれただけで、十分だ」
茅は彼女の肩に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「触れないでおく。恥ずかしいだろ? でも、側にいていい?」
立華は小さく頷いた。
茅は彼女をソファに座らせ、お茶を運んでくる。
「買い物、たくさんしたな。俺の家に置いて立華さんの居場所、増やしてくれ。」
立華はお茶を両手で包み、俯いた。
嬉しさと、複雑な気持ちが同時に胸を満たす。
こんな風に待ってもらったのは、いつ以来だろう。
ふと、昔の記憶が蘇った。
子供の頃、両親は忙しかった。共働きで、帰りはいつも遅かった。立華が学校から帰っても、家は暗い。鍵を自分で開けて、一人で夕飯を食べ、一人で風呂に入る。
「鍵、なくすなよ」とだけ言われて、それ以上の言葉はなかった。ある日、親が喧嘩をしていて、立華が「ただいま」と言っても気づかれなかった。
その夜、立華は自分の部屋で、静かに泣いた。——誰も、待ってくれていなかった。
茅の「おかえり」が、その記憶を刺激した。
胸の奥が、甘くて苦くて、熱くなる。
茅は彼女の横顔を見て、少し首を傾げた。
「立華さん? 顔色がよくないぞ。疲れたか?」
「……いいえ。大丈夫です」
立華は無理に微笑んだ。
でも、その笑みに陰りがあるのを、茅は見逃さなかった。
「無理してるな。何かあった? 家の修繕のことで、落ち込んでる?」
「違います。ただ……」
立華は言葉を濁した。
家族の話なんて、したくなかった。弱っているところを、これ以上見せたくなかった。
茅はそれ以上追及せず、優しく言った。
「わかった。話したくないなら、無理に聞かない。でも、俺はここにいる。立華さんが笑えない夜も、側にいさせてくれ」
立華はお茶を飲み干し、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
――
立華の生活は、茅のマンションを中心に回り始めていた。
朝は茅が早起きして朝食を作り、立華を送ってくれる。
「行ってらっしゃい。夕方、迎えに行くよ」
夜は「おかえり」と待っていて、ご飯を一緒に食べる。
スキンシップは控えている。立華が「恥ずかしい」と言うたびに、茅は手を引く。でも、距離は近い。ソファで並んで座れば、肩が触れそうになる。テレビを見ていると、茅の視線が自分に向いているのを感じる。
ある夜、立華が仕事の書類を広げていると、茅が後ろから覗き込んできた。
「お疲れ。無理してないか?」
「大丈夫です。明日提出なので」
「じゃあ、俺がコーヒー淹れる。集中できるように、静かにしてるよ」
彼は本当に静かにして、ただ側に座っていた。
時折、立華の空になったマグカップを黙って新しいのに替えてくれる。その優しさが、胸に沁みた。
――
週末、茅が「立華さんの荷物、もっと増やそう」と言って、一緒に買い物に連れて行った。
「これは立華さんの好みそうな柄だな。買うか?」
「いいです。余計なものは……」
「余計じゃない。俺の家にいるって証、残してくれ」
茅は彼女のカートに、静かに入れた。
「拒否権、なし」
立華は苦笑した。
「……茅さんって、強引なところありますね」
「立華さんにだけだよ。他の人には、しない」
夜、風呂から上がると、茅がドライヤーを持って待っていた。
「髪、乾かそうか? 触れない。風だけ当てる」
立華は少し迷ってから、彼の前に座った。
温かい風が、髪を優しく揺らす。茅の指は、本当に髪に触れなかった。それでも、近さが甘かった。
「立華さん」
茅の声が、後ろからした。
「この一週間、俺、すごく幸せだ。朝『行ってきます』って言ってくれるのも、夜『ただいま』って帰ってきてくれるのも」
立華は目を閉じた。
「……私は、迷惑かけてるだけです」
「迷惑なんかじゃない。いてくれるだけで、この家が生きてるみたいだ」
ドライヤーの音が止まった。
茅は彼女の後ろに跪くようにして、目線を合わせた。
「さっきから、時々暗い顔するな。何か、思い出すことでもあるのか?」
立華は唇を噛んだ。
隠しても、ばれる気がした。茅は、自分の些細な表情の変化まで見逃さない。
「……昔、家族と上手くいってなかったんです。両親は忙しくて、家に誰もいないことが多くて。『ただいま』って言っても、返事がないのが普通で。
だから、茅さんが『おかえり』って言ってくれると……嬉しくて、でも複雑で」
茅の目が、優しく細められた。
「そうだったのか…… 今度から、下の名前で呼んでもいいか?」
「え?」
「つむぎは、ずっと一人で耐えてたんだな」
「急に何で……」
「俺だけが知ってる、弱いつむぎ」
茅は手を伸ばしかけて、また止めた。
「触れない。でも、側にいていい?」
立華は小さく頷いた。
茅は彼女の隣に座り、肩が触れそうな距離でただそこにいた。
「俺は、つむぎが帰ってくるのを待ってる。返事のない家には、しない。『ただいま』に、ちゃんと『おかえり』って返すから」
立華の目が、熱くなった。
涙は溢さなかった。でも、胸の奥が、音を立てて崩れていくようだった。
「……優しすぎる」
「ああ。でも、つむぎ限定だよ」
茅は優しく笑った。
「一週間、俺を頼ってくれてありがとう。まだ修繕は続くだろけど、俺の家にいてくれ。鍵も、暗証番号も、つむぎのものだ。…あ、今照れた?」
立華は膝に手を置き、俯いた。
嬉しさと、複雑な気持ちと、昔の孤独が混ざって、胸がいっぱいだった。茅はそれを理解しているようで、追及しなかった。ただ、側にいてくれる。
その夜、立華はベッドで目を閉じながら思った。
——もう、この温かさから、逃げられないかもしれない。
社内恋愛は面倒くさい。
絶対にしたくない。
そう思っていたはずなのに。
茅の「おかえり」が、毎日の当たり前になりつつあった。
一週間が過ぎても、修繕はまだ終わらない。
立華は茅の家で、朝を迎え、夜を迎える。鍵を握りしめながら、複雑な気持ちを胸に秘めたまま。茅は、彼女の陰りのある笑顔に気づきつつも、優しく待ち続けていた。
名前呼ぶの早すぎない?
※段落調整や会話の違和感を修正しました。話の流れに変更はありません!




