秘密が増える
秘密を共有してから、一週間が経っていた。
オフィスでは、茅は相変わらず軽い笑みで近づいてくる。
「立華課長、書類頼むよ」
周囲に聞こえない声で、小さく囁く。
「次はいつ、あの可愛い格好で会える?」
立華は「一度だけです」と返すたびに、胸の奥が熱くなった。
逃げたいのに、嫌ではない自分がいる。
――
そんなある金曜日の夜。
立華はまた、いつものバーにいた。
赤黒いワンピースに黒いストッキング。昼間とは違うメイクで髪を下ろして。
カウンターの端で、ウイスキーのロックを傾けている。昼間の堅い自分を脱ぎ捨てて、ただの女でいられる時間。
氷が溶ける音を聞きながら唇をなぞると、スマホが震えた。
管理会社からの電話だった。
マスターに目配せをし耳に当てる。
「立華様、大変申し訳ありません。上階の水道管が破裂し、ご自宅が水浸しになっております。大規模修繕が必要で、直るまではお住まいいただけなくなりました。ただいまお部屋に伺っておりますが……」
立華は思わず声を上げそうになった。
「え? 今すぐ行きます」
「現状、室内はかなりの浸水で、安全確認が終わるまでお入りいただけません。仮住まいの手配を……」
頭が真っ白になる。その後の話は半分も入ってこなかった。
ホテルは高い。実家は頼りたくない。すぐに引っ越し先も見つからない。バーの薄暗い照明が、急に遠く感じられた。
「……わかりました。ご連絡お待ちします」
電話を切った瞬間、背後から低い声がした。
「立華さん?」
振り返ると、茅が立っていた。
私服の黒いコート。シアーブラウンの髪が、相変わらずカウンターの灯りに柔らかく光っている。いつもの軽い笑みはあるが、目が真剣だ。
「……茅さん。なんでここに」
「また会えるかなって来てみたら、ちょうど。顔色悪いぞ。どうした?」
立華は唇を噛んだ。
隠す気力も、もう残っていなかった。
「家が……水浸しになったらしいです。上の階の水道管が破裂して。しばらくは住めないって」
茅の表情が、すぐに変わった。
「今はまだ家に入れないみたいで……今日中に今後の連絡が来る予定です……」
彼は立華の隣の席に腰を下ろすと、自然に彼女の腰に腕を回した。
密着する体温。逃げられない距離。
「今日は俺の家に来いよ。荷物は後で一緒に取りに行くから。こんな立華さんを一人にしたくない」
「でも、急で……」
「いいよ。むしろラッキーだと思ってる。立華さんの好感度、上げられそうで」
茅は彼女の肩を抱き寄せ、耳元で甘く囁いた。
「拒まないでくれ。今夜は俺が全部面倒見るから」
立華は身をよじって逃れようとした。
茅の腕が、優しく、しかし確実に彼女を引き戻す。
「触らないでください。恥ずかしいです……」
「恥ずかしいだけ、だろ? 嫌なんじゃなくて」
ばれた。完全にばれた。
立華の頰が熱くなる。
茅はくすっと笑い、彼女の髪を耳にかけた。
「顔、赤いな。かわいい。嫌われてないってわかって、嬉しいよ」
彼は彼女の手を取り、指を絡めたまま立ち上がらせる。
「とりあえず俺の家に行こう。まずはゆっくりしてくれ」
立華は彼に連れられるようにバーを出た。
夜風が肌に触れるたび、茅の体温が近くに感じられる。腰に回された腕が、逃さないと告げていた。同じ会社のモテる男、しかも自分を口説きに来ている……早まったかもしれないと、胸の奥で小さく後悔していた。
――
茅のマンション。
落ち着いた照明のリビングに、簡素だが清潔な家具が並んでいる。大きな窓の外には、夜の街がぼんやりと光っていた。
立華をソファに座らせると、茅はすぐにタオルと着替えを持ってきた。
「シャワー使ってくれ。俺のシャツとスウェット、貸すよ。寒くないか?」
「……ありがとうございます」
立華は浴室に入り、熱いお湯に身を沈めた。
水浸しの家を思うと、胸がざわつく。先ほどまでの茅の優しさが浮かんで、余計に身に沁みた。
着替えて出てくると、茅はリビングで温かいココアを用意していた。
マグカップから立ち上る甘い香りが、緊張を少しだけほぐしてくれる。
「体、温めてくれ」
立華はマグカップを両手で包み、小さく息を吐いた。
「本当に、すみません。突然お世話になって」
「謝らなくていいよ。俺を頼ってくれたのが、嬉しいぐらいなのに」
茅は隣に座り、また自然に肩に腕を回そうとした。
立華は慌てて身を引いた。
「……恥ずかしいです」
茅の手が、空中で止まった。
「……また、恥ずかしい、か」
「こんな状況で甘えるみたいで……余計に……」
茅は少し驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく笑った。
「拒む理由が『嫌い』じゃなくて『恥ずかしい』なんだな」
立華の頰がさらに熱くなる。
茅はわざとらしく距離を取り、手を上げてみせた。
「わかった。触らない。男の家だし不安だと思うから、スキンシップは……立華さんが『いい』って言うまで我慢する。だから安心して、ここにいてくれ。俺が全部面倒見るから」
立華はココアを飲みながら、視線を落とした。
秘密を知られている上に、こんな弱っているところまで見られてしまった。もう、普通の同僚には戻れない気がした。
「……わかりました。本当にスキンシップは控えてくださいね」
「了解。恥ずかしいって言われたからな」
茅はくすっと笑い、ソファの端に移動した。
「でも、立華さんが寂しくなったら、いつでも言ってくれ。俺はいつでも、側にいるから」
落ち着いたころ、管理業者から連絡が入った。
「3週間ないし1か月は住めません」——その言葉が、静かに現実を突きつけた。
――
その夜。
立華は茅のベッドで眠ることになった。茅はソファで寝るという。
「俺は平気だよ。ちゃんと休んでくれ」
そう言われて、立華は「わかった」と頷いた。
でも、布団に入っても目が冴えていた。
天井を見上げたまま、何度も寝返りを打つ。
茅の「平気だよ」という言葉が、逆に胸の奥に引っかかっていた。平気なわけがないのに、そう言って距離を置こうとするところが、余計に気になってしまう。
優しさとして胸に残る一方で、距離を置こうとしている。守ろうとしている。その両方を感じ取ってしまうのが、たまらなく苦しかった。
結局、浅い眠りから何度も覚めた。
夜中にトイレで起きたとき、リビングの明かりがついているのに気づいた。
茅がソファに座り、スマホを見ている。
薄暗い光が、彼の横顔を淡く照らしていた。
「……まだ起きてるんですか」
「何かあったらすぐ対応できるように、なんてな」
立華は戸口に立ち、彼を見た。
「……無理しすぎです」
「立華さんのためなら、無理じゃないよ」
茅は彼女を見た。
「眠れないのか? こっちに来るか。触れないから」
立華は首を横に振った。
「恥ずかしいなら、それでいい。『触っていい』って言うまで、絶対に無理はしない。でも、逃げさせないよ」
茅は静かに立ち上がり、彼女の前に立った。
触れない。ただ、目を見て、優しく微笑む。
立華の胸が、熱く痛んだ。
「……茅さんって、優しすぎます」
「立華さんにだけだよ。他の誰にも、こんなことしない」
茅は彼女の髪に、触れそうで触れない距離で手を伸ばした。
「おやすみ。俺の家にいてくれて、ありがとう。大変な時にバーで会えて、本当によかった」
立華はベッドに戻り、布団に潜った。
茅の声が、耳に残る。
拒んでも、優しくされる。
恥ずかしいと正直に言っても、受け入れられる。
——もう、絆されてるのかも。
そう自覚してしまった夜だった。
――
翌朝。
立華が目を覚ますと、キッチンからいい匂いがした。
トーストと卵の香ばしい香りが、廊下を伝って届いてくる。
茅が朝食を作っている。
「おはよう。よく眠れたか?」
「……はい。ありがとうございます」
「今日は時間通りの出勤か? 俺が車で送るよ。帰りも一緒に。家の関係で用事があれば、済ませよう」
立華はうなずき、テーブルについて、朝食を食べながら隣に座った茅を見た。
こんなに至れり尽くせりにされると、拒む理由がなくなっていく。
「茅さん。スキンシップは控えてくれるって言いましたよね」
「ああ。控えてるよ」
妙に近い距離で、茅は笑顔で答えた。
「昨日は『恥ずかしい』って言ってくれたのが、すごく嬉しかった。嫌われてないんだって改めてわかったから。バーで拒まれたときも、顔が赤かったしな」
立華は箸を止め、顔を赤くした。
「……そういうことは言わないでください」
「弱った立華さんに、しっかりとつけ入れさせてもらうよ」
茅の言葉が、優しくて重い。
立華は視線を皿に落とし、小さく呟いた。
「……しばらくの間、よろしくお願いします」
「ああ。俺の家にようこそ。立華さんを、逃がさないから」
妙に会話が成り立っていなかった。
――
出勤の車の中で、茅はハンドルを握りながら言った。
「立華さん。今夜は何が食べたい? 俺が作るよ」
「……何でもいいです」
「じゃあ、立華さんが好きそうなものを。今夜からいろいろ教えてくれ」
立華は窓の外を見つめた。
朝の光が、街を優しく照らしている。
社内恋愛は面倒くさい。
絶対にしたくない。
そう思っていたはずなのに。
茅の隣にいる時間が、少しずつ、当たり前になっていこうとしていた。
昨夜の腕の感触が、まだ熱を帯びていた。
王道に王道を重ねていきます。
※立華の心理描写と、会話に違和感や話のつながりが悪い部分を追記しました。流れに変更はありません!




