バレる
グイグイ始まります
その夜も、立華はいつものバーにいた。
薄暗い照明が、琥珀色のボトルを優しく照らしている。カウンター越しに並ぶグラスの列が、静かに光を弾いていた。低いジャズの音色が空気に溶け、誰かの笑い声が遠くで聞こえる。氷の溶ける音だけが、耳に近い。
カウンターの端。
隣に座った男が、声をかけてきた。
「一人ですか?口説いてもいいかい」
「結構です」
「冷たいね。名前くらい教えてよ」
「興味ありません。離れてもらえますか」
男が少し粘っていると、背後から低い声がした。
「彼女は俺の大切な人だ。離れてくれ」
立華はびくりとして振り返った。
最近よく聞き覚えのある声。
心臓が、大きく跳ねる。
そこに立っていたのは——茅だった。
シアーブラウンの髪が、薄暗い光の中で淡く光っている。
綺麗な顔立ちを引き立てる、シンプルな黒いコート。いつもの軽い笑みはあるが、目が優しく、どこか熱を帯びていた。男は茅の雰囲気に圧倒されたのか、すぐに席を立った。
足音が遠ざかる音が、妙に大きく聞こえた。
立華は頭の中が真っ白になった。
まさか、ここで。
この格好で。
昼の自分が、夜の自分に追いつかれてしまったような、奇妙な羞恥と恐怖が胸を満たす。茅は空いた席に座り、店員に「同じもの」と注文した。そして、ゆっくりと体を寄せてくる。カウンターの椅子が小さく軋むほど、近い。
彼のコートから夜の冷気と、手元のウイスキーの甘い香りが混ざって漂ってきた。
「……立華さん?」
声が、いつになく低く、甘い。
立華は冷たいグラスを握りしめ、視線を逸らした。
指先が、少し震えている。
「……人違いです」
「人違い、か」
茅は彼女の頰に指を添えた。
熱い指先が、優しく顎を持ち上げる。無理にではなく、大切にするように。立華の鼓動が、耳の奥で大きく鳴る。
「立華さんの声も、耳に髪をかける仕草も、きれいな指先も、全部同じだよ。でも服装は、昼間のきっちりしたスーツ姿とは全然違うな」
視線が、彼女の唇から鎖骨、そして胸元の開きまでゆっくりと落ちる。その視線が熱くて、肌が焼けるようだった。
「夜の立華さん、マジで可愛い。息止まりそうだわ」
「やめてください」
声が上ずる。
茅の指が髪から首筋へ滑り、鎖骨のくぼみを優しく撫でる。夜の空気より熱い。立華は息を詰めた。誰にも触られたことのない場所を、こんなに自然に触れられて、頭が真っ白になる。
「隠しきれねえよ。目が合った瞬間、わかった」
茅は彼女の髪を耳にかけ、指先で耳たぶを軽くなぞった。
「この格好で、一人でバーに来るのか。ストレス発散?……俺が、全部受け止めてやりたかったのに」
立華は唇を噛んだ。
バレた。
完全にバレた。
羞恥と、どこか甘い動揺が、同時に胸を満たしていく。
「……誰にも言わないでください。お願いします」
「……いいよ。でもな」
茅は身を乗り出し、彼女の腰に自然に腕を回した。
カウンター越しではなく、完全に密着する距離。彼の体温が、背中からじわりと伝わってくる。
「職場じゃ絶対に口外しねえ。誰にも言わねえ。その代わり——その格好で、俺とデートしてくれ。むしろお願いだ。可愛い立華さんを、俺だけに見せてほしい」
立華の目が大きく見開かれる。
心臓が、痛いくらいに高鳴った。
「え?」
「昼間の立華課長は、俺をいつも即答で断る堅物さんだ。でも、今夜は……違う。派手な服も、服に合わせたメイクも、全部が」
茅は彼女の腰を軽く引き寄せ、唇を耳元に寄せた。
「独り占めしたい」
吐息がかかる。
熱い。甘い。
「一度でいい。俺とデートしてくれ。知らない立華さんを、俺に教えてほしい」
「……それは、脅しですか」
声がかすれる。
茅の腕の中で、自分が小さくなっている気がした。
「いや。お願いだ」
茅は彼女の手を取り、自分の掌に重ねた。
指を絡め、ゆっくりと撫でる。掌の温もりが、不安を溶かしていくようで、逆に怖かった。
「嫌なら、俺は何も言わねえ。ただ俺は本気で、今夜の可愛い立華さんを独占したい。誰にも渡したくない」
茅の目が、真正面から彼女を捉えている。
腰に回した腕の力が、優しく、しかし逃がさない。立華は深く息を吐き、グラスを置いた。氷が溶けきったグラスが、薄い琥珀色に小さく揺れた。
「……一度だけ、です。一度だけなら」
茅の顔に、柔らかくて甘い笑みが広がった。
「サンキュー。嬉しい。……本当に嬉しい」
茅は額に、優しく唇を落とした。
柔らかくて、熱い。
恥ずかしすぎるスキンシップに、立華の瞼がぎゅっと閉じた。
「じゃあ、今から行こうか」
「今から!?」
「逃げる前に、確保しときたくて。離したくねえんだ」
茅は会計を済ませ、立華の手をしっかり握った。
熱い掌。彼女が立ち上がると、コートを優しく羽織らせ、腰に手を添えてバーを出た。
夜風が肌に触れるたび、茅の体温が近くに感じられる。ネオンの光が二人の影を長く伸ばし、街の音が遠くに聞こえた。
――
タクシーが止まったのは、少し離れたオーベルジュだった。
個室の扉が閉まった瞬間、外の喧騒が遠のいた。落ち着いた照明が、濃い赤のカーペットと木目の壁を優しく照らしている。控えめなジャズが流れ、空気はほのかにワインの香りがした。
茅は立華のコートを丁寧に預かり、彼女の肩に手を添えて席へ導く。個室のソファは二人きりには広すぎるほどで、茅は迷わず彼女の隣に腰を下ろした。
「もっと寄ってくれ。俺の隣がいい」
茅は彼女の腰に腕を回し、自然に引き寄せる。
体温が密着する。
「緊張してるな。手がまだ冷たい。俺が温めてやるよ」
立華は視線を逸らした。
個室の静けさが、二人の距離を余計に近く感じさせる。茅は彼女の頰に指を添えた。親指で唇の端を優しく撫でる。
「俺は嬉しいよ。昼間の課長がちゃんと羽を伸ばしてるみたいで。しかもこんなに綺麗だなんて」
「……確かにストレス発散の様なものですが……」
「目がくっきりして、唇も赤い。……キスしたくて、たまんねえ」
「やめてください……」
「ごめん。でも、本気だ」
茅はくすっと笑い、彼女の耳に口を寄せた。
吐息が、耳の奥まで響く。
「本当に綺麗だ。俺だけが知ってる秘密の立華さん」
腕の力が強まり、彼女を自分の方へ引き寄せる。
肩が密着し、髪の匂いが混ざる。立華は彼の体温に包まれながら、胸の奥が甘く疼くのを感じていた。
茅はメニューを開き、彼女に見せる。
「好きなもの、教えてくれ」
料理が運ばれてくる間も、茅の手は離れていない。
テーブルの下で膝に手を置き、太ももの上をゆっくり撫でる。ワインを注ぎながら「唇、赤いな。綺麗で、見とれちまう」と囁き、指で口元を拭う。立華が顔を赤くすると、満足そうに笑い、耳たぶを優しく摘まむ。
「昼間の立華課長は、俺をすぐ『お断りします』って切るのにな。でも今夜は、逃げられないよな。嬉しい」
触れられるたび、立華の中で「だめだ」という声と、「もっと」という声がせめぎ合った。
雰囲気に流されている。そう思いたかった。
「……約束したからです」
「約束、守ってくれて嬉しいよ。サンキュー」
茅は彼女の手を取り、指を一本ずつ優しくキスした。
唇の感触が、指先から心臓まで響く。個室の照明が、二人の影を壁に優しく落としている。
「この姿、俺以外に見せないでくれ。独占したい。誰にも渡したくない。俺だけのものでいてほしい」
立華は胸が熱くなった。
茅の視線が、露骨に自分を追いかけてくる。なびかない女が珍しくて、という段階を超えている気がした。自分が、こんなにも特別に見られているという事実が、怖くて、嬉しかった。
食事が進むにつれ、茅のスキンシップはさらに甘くなっていく。
ソファの背に腕を回し、彼女の髪を梳く。時折、額に軽いキスを落とす。
「疲れてないか? 俺の肩、貸すよ。寄りかかってくれ」
立華が遠慮がちに頭を預けると、茅は満足そうに髪を撫でた。
「いい子だな。……好きだ。本当に好きだ」
個室の空気とアルコールが、徐々に熱を帯びていく。
茅は彼女の手を握ったまま、真剣な目で見つめた。
「俺、本気で好きになった。昼間のきっちりとした課長も、今夜のかわいい立華さんも。社内恋愛が面倒くさいのもわかってる。それでも、付き合いたい」
茅は彼女の額に唇を寄せ、優しくキスを落とした。
柔らかくて、長い。
「一度だけのデートでも、伝えるなら今だと思った」
立華は彼の胸に顔を埋めそうになり、慌てて離れた。
鼓動が、ばれてしまいそうだった。
「……一度だけのデートです。これ以上は」
「でも、次も誘う。この格好でなくてもいい。昼間の姿でもいい。ただ、一緒にいたい。お願いだ」
どうしてか昼間の様に断ることができなかった。
食事を終えて店を出ると、夜風が二人を優しく包んだ。
茅は立華を自宅まで送り、玄関の前で彼女の腰に両手を回し、軽く引き寄せた。密着する体。吐息がかかる距離。
「おやすみのキス、いい? 我慢できないくらい可愛くて」
「だめです」
「じゃあ、頰だけ」
彼女の頰に、優しく、長く唇を落とした。
熱い。甘い。指が背中を撫で、離れがたそうにする。立華は目を閉じ、その感触を噛みしめてしまった。胸の奥で、何かが音を立てて崩れていくようだった。
「……ばれたら、許しません」
「ばらさない。約束だ。絶対に」
茅は彼女の髪を軽く撫で、額にもう一度キスをしてから離れた。
「おやすみ、今夜は、ありがとう」
立華は部屋に入り、ドアを閉めてから壁に背中を預けた。
頰が熱い。
胸が騒がしい。
腰に残る腕の感触、唇に残るキスの余韻。
秘密がばれたことで、距離が急激に縮まってしまった。
——社内恋愛は面倒くさい。絶対にしたくない。
そう自分に言い聞かせても、茅の「好きだ」という優しい声と、甘いスキンシップが、体の芯まで残っていた。
夜の街の音が、遠くで静かに響いている。
立華は窓の外を見つめながら、初めて、人の気持ちから逃げられないかもしれないと思った。
――
翌朝。オフィスで茅と顔を合わせたとき、立華はできるだけ平静を装った。
蛍光灯の白い光が、昼の世界をはっきりと照らしている。
茅はいつもの軽い笑みで近づいてくる。
「おはよう、立華課長。書類、頼むよ」
周囲には聞こえない声で、小さく付け加えた。
「昨夜は、サンキュー。また誘うからな。俺、待ちきれねえ」
指先が、さりげなく彼女の手の甲を撫でる。
その一瞬の温もりが、昨夜を鮮明に呼び起こす。
立華は書類を受け取りながら、小さく呟いた。
「……一度だけ、です」
茅は目を細めて、甘く笑った。
「ああ。一度だけのつもりだったよ。でも、誘うのはいいよな?」
営業エースと事務課長の距離は、秘密を共有したことで、もう後戻りできないところまで来てしまっていた。
昼のオフィスの喧騒の中で、立華は昨夜の甘い余韻を、静かに胸に隠した。
段落、会話の違和感の修正をしました。流れに変更はありません!




