しっかり落ちました
告白から数日が過ぎた。
二人は正式に付き合い始めていた。
とはいえ、劇的に何かが変わったわけではない。朝は茅が朝食を作り、つむぎを車で送り出す。夜は「ただいま」「おかえり」を交わし、並んで食事をする。スキンシップは以前より自然に、遠慮が少なくなっていた。つむぎは相変わらず「はずかしい」と言うが、拒むことはほとんどなくなっていた。
そんなある平日の夜。
つむぎが帰宅すると、茅がテーブルに書類を広げていた。管理会社からの封筒が、そこに置かれている。
「おかえり、つむぎ。ちょっと、話がある」
「代わりに行ってもらった、修繕の件ですか」
「ああ。結局、終わらなかったらしい」
茅は書類を彼女に向けた。
「水道管の老朽化が想定以上にひどくて、部分的な修繕じゃ無理だと。大家さんが『どうせならフルリフォームしよう』って判断したそうだ。そうなると、半年以上は住めなくなるらしい」
つむぎは書類に目を通した。
契約解除か、長期で待つかの二択。大家側としても、修繕が終わるまで待たせるのは申し訳ないとのことだった。
「……そう、ですか」
「つむぎとしては、どうする? 待つか、契約解除するか」
つむぎは少し考えてから、顔を上げた。
「契約、解除します。こちらとしても、都合がよかったので」
茅の目が、ぱっと明るくなった。
「都合がよかった、か」
「はい。もともと仮のつもりでしたが……茅さんの家にいるのが、もう慣れてしまって。半年間も待って、また一人の生活に戻るのは、正直、寂しくなりそうです」
茅は椅子から立ち上がり、彼女の前に立った。
「つまり、このまま家にいてくれる、ってことか」
「……はい。迷惑じゃなければ」
「迷惑なんかじゃない。むしろ、最高だ」
茅は彼女を抱きしめた。
強く、嬉しそうに。
「フルリフォーム、ありがとう。大家さんに、心の中で感謝してる」
「変な感謝しないでください」
「いいじゃん。つむぎが『都合がよかった』って言ってくれたのが、すごく嬉しい。俺も、つむぎが居なくなったら困るところだった」
茅は彼女の額にキスを落とした。
「じゃあ、正式に。つむぎは、ここに住むことになった。同棲だ」
つむぎは頰を赤くしたまま、彼の胸に顔を埋めた。
「……まだ付き合い始めたばかりなのに」
「もう三週間以上、一緒に住んでたからな。実質、延長だよな。荷物も、どんどん増やしてくれ」
茅は彼女を離すと、にこにこと笑った。
「契約解除の手続き、俺が手伝う。引っ越し業者も、俺が手配する。つむぎは荷物整理してくれれば助かる。俺に任せてくれ」
「そこまでしなくても……」
「したいんだ。二人の家なんだ。至れり尽くせりで、当然だろ」
つむぎは小さく息を吐き、諦めたように笑った。
「……わかりました。お願いします。でも、調子に乗らないでくださいね」
「乗るよ。つむぎがこの家にいてくれるなら、いくらでも」
その夜、二人は並んでソファに座り今後の話をした。
——都合がよかった、なんて。本当は、ずっとここにいたかっただけだ。
茅は彼女の髪を撫でながら、小さく囁いた。
「ようこそ、正式に」
「……もう、いるでしょ」
「ああ。でも、改めて言いたかったんだ。つむぎが、俺の隣にいてくれることが、幸せだ」
――
さらに二週間が過ぎた。
つむぎの部屋は契約を解除し、つむぎは茅のマンションに本格的に住むことになった。
荷物は少しずつ増えていき、洗面所にはつむぎの化粧品が並び、クローゼットの半分は彼女の服で埋まり始めている。
朝は茅が作る朝食を一緒に食べ、彼の車で出勤する。
夜は「ただいま」「おかえり」を交わし、並んで夕食を済ませてから、ソファで寄り添う。それが、二人の日常になっていた。
職場では、相変わらずつむぎの休日の姿はバレていなかった。
ワンピースで髪を下ろした「超美人」の噂は、茅が真剣に説明し続けたおかげで、徐々に下火になっていた。「プライベートだから」と繰り返し、誰にも詳細を話さない。その姿勢が、逆に周囲に「本気で隠すほどの関係なんだ」と勘違いされることもあったが、茅は気にしなかった。つむぎの秘密を守ることが、今の彼にとって一番大事なことだったから。
そして、もう一つ変わったことがある。
茅は社内でアピールをしてこなくなった。以前のように給湯室で肩を寄せたり、書類を渡すついでに耳元で囁いたり、視線を甘く絡めたりすることが、ピタリと止まった。仕事中の茅は、純粋に同僚として振る舞うようになった。
つむぎにとっては、それがとても助かった。
仕事の手が止まらなくなった。視線を気にせず、書類に集中できるようになった。周囲の「また茅さんがつむぎ課長のところに」というひそひそ話も、減っていった。
ある夜。
二人は食後のリビングで、並んでソファに座っていた。テレビは小さな音で流れていて、茅がつむぎの肩に自然に腕を回している。スキンシップは、もう遠慮がほとんどなくなっていた。
「つむぎ」
「ん?」
「...仕事中の俺、邪魔だった?」
突然の質問に、つむぎは手を止めた。
茅は真顔で、でもどこか楽しそうに彼女を見ている。
「……結構、邪魔でした」
本音が、思ったより素直に出た。
茅の目が、細められる。
「本当にごめん。あの時はデートしたくて必死で...」
「いいですよ、過去の事です」
つむぎは彼の胸に、軽く頭を預けた。
「……でも、家に帰ったら、ちゃんとアピールしてください。でないと、調子に乗った茅さんが恋しくなります」
茅が大きく笑った。
「了解。家では、思いっきりアピールする。今すぐでもいい?」
「今は、ダメです」
「つむぎが意地悪になった」
「茅さんに似てきました」
二人の距離は、こんな本音を語れるほど、確かなものになっていた。
「邪魔だった」と素直に言えて、「恋しくなる」と冗談めかして返せる。以前のつむぎなら、絶対に口にしなかった言葉だった。
話題は自然と、社内への周知のことに移った。
「つむぎ。俺たち、付き合い始めたこと、社内に周知するか?」
つむぎは少し考えてから、首を横に振った。
「今は、しなくていいです。現状、仕事の邪魔になるトラブルは避けたいので」
「わかった。俺も、つむぎの仕事を最優先にしたいから。言わない方向で」
茅は彼女の髪を優しく梳きながら、付け加えた。
「でも、結婚するときには、さすがに言わないとだめだよな」
つむぎの顔が、一気に真っ赤になった。
「……!何言ってるんですか、急に!」
「急じゃない。将来の話だ。つむぎと結婚する前提で考えてるから」
「……」
つむぎは何も言えなかった。
でも嫌ではなかった。正直な気持ちを言うのが、なんだかすごく恥ずかしかった。「嫌じゃない」「嬉しい」「考えてみてもいい」と認めてしまったら、負けたような気がしてしまう。だから、まだ言ってあげない。
でも、たぶん茅にはバレている。
彼はつむぎの赤い顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「顔、出てるよ。つむぎは口が素直じゃないだけで、嫌じゃないってこと、ちゃんと伝わってる」
「伝わってません」
「伝わってる。俺、つむぎの顔と態度と行動で全部わかってるから。口では『はずかしい』しか言わないのに、俺の隣にいてくれてるし?」
―――素直になるなら今だぞ。そう耳元でささやかれたらもう駄目だった。
つむぎは彼の胸に顔を埋めて、小さく唸った。
「……す、好きです」
「愛してる」
二人はしばく、そのまま寄り添っていた。
テレビの音が遠くに聞こえる。茅の体温が、背中から優しく伝わってくる。つむぎは目を閉じながら、思った。
——本当は嬉しい。結婚なんて言葉を、こんなに自然に出されるなんて。でも、素直に言えない自分が、まだいる。茅はそれをわかった上で待っていてくれる。その事実が、たまらなく愛おしかった。
ふと、つむぎはリビングを見渡した。
広々とした空間。大きめのソファに、ゆったりしたダイニング。寝室も、浴室も、一人暮らしにしては明らかに広すぎる。
「……そういえば」
「ん?」
「この部屋、一人暮らしにしてはすごく広いですよね。茅さん、こんなに広い所にどうして住んでたんですか」
茅は少しだけ目を細めて、苦笑した。
「……実は、隠しててごめん」
「隠しててごめん?」
「俺、うちの会社の社長の息子だ」
つむぎの動きが、ぴたりと止まった。
茅は彼女の反応を見ながら、続けた。
「このマンションは、もともとは俺の両親が使用していたところなんだ。俺が独り立ちするときに譲り受けた。だから、一人暮らしにしては広い。……びっくりさせたくなかったから、黙ってた。ごめん」
つむぎは声が出なかった。
御曹司。社長の息子。自分が勤める会社の。茅が営業部で普通に働いているのが、急に別の意味を持って見えた。
茅は彼女の固まっている様子を見て、優しく髪を撫でた。
「だから、結婚しても会社辞めなくていいよ。俺の嫁が社内にいるくらい、全然問題ないから。むしろ、いてくれた方が嬉しい」
その言葉に、つむぎは完全に声を失った。
顔が熱い。頭の中が真っ白になる。結婚の話に続いて、社長息子のカミングアウト。そして「辞めなくていい」という軽すぎるフォロー。何をどう返せばいいのか、わからない。
茅はそんな彼女を見て、くすっと笑った。
「つむぎ、固まってる。可愛い。無理に今すぐ答えなくていい。俺は、つむぎが俺の隣にいてくれるだけで十分だから」
彼は固まっているつむぎをそのまま抱きしめた。
「驚かせてごめん。でも、隠す理由もなくなったから、正直に言った。つむぎは、俺の彼女だ。会社
とか関係なく、つむぎが好きだ」
つむぎはやっと、小さな声を絞り出した。
「………ハードル高すぎです。社長の息子相手に、無理です……」
「関係ないだろ」
茅は彼女の頰に唇を寄せ、優しく囁いた。
「俺はただの、つむぎの恋人だ。社長の息子とか、どうでもいい。つむぎが好きなんだから」
「でも……」
「でも、じゃない。関係ない」
茅は彼女の顎を優しく持ち上げ、目を合わせた。
「あと、一つお願いがある」
「……何ですか」
「もう、『茅さん』って呼ばないでくれ。『茅』でいい。恋人なんだから」
つむぎの顔が、さらに赤くなった。
「……急に何を」
「急じゃない。ずっと言いたかった。『茅さん』だと、まだ距離がある気がして。つむぎの口から『茅』って呼ばれたい」
つむぎは彼の胸に顔を埋め、小さく唸った。
「……む、無理です。急には……」
「さっきから無利しか言わないな、練習しよ。今から」
茅は彼女の耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。
「つむぎ。俺の名前、呼んでみろ。『茅』って」
「……玉野さん」
「名前だよ」
「……茅」
声が、小さくて震えていた。
茅の顔が、ぱっと明るくなった。
「もう一回」
「……茅」
「もっと聞かせてくれ」
つむぎはもう、顔を上げられなかった。
茅はそんな彼女を抱きしめたまま、額に、頰に、唇の端に、と優しいキスを重ねた。
「つむぎ。俺の彼女。将来の嫁」
「…まだ結婚してない」
「言うとつむぎが赤い顔して可愛くなるからつい」
二人はソファで寄り添ったまま、夜を更けさせていった。余韻が、部屋に優しく満ちている。
秘密のままでいい。
社長の息子だという新しい秘密も、二人の間に加わった。それでも、これから先の朝は「おはよう」ではじまり、「おかえり」の声で一日が終わるのだろう。
一緒に笑い合いながら、少しずつ甘えて、少しずつ素直になっていく毎日が、窓の外の夜景の向こうに、優しく続いていた。
ハッピーエンド!お読みいただきありがとうございます!




