007 婚約
ヴァルディシア王国の王都にそびえ立つ、天を突くような尖塔を持つ荘厳な大聖堂。
中に入ると、見上げるほど高い肋骨天井がどこまでも続き、神の威光を示すかのような巨大なステンドグラスの窓から、色鮮やかな光が石造りの床に降り注いでいる。
香炉からくゆり出す乳香の神秘的な香りと、石の冷たさを和らげるために床一面に撒かれた甘い香りのハーブ。そして、何百本もの高価な蜜蝋ロウソクが揺らめく中、集まった三百人の視線が、祭壇の前に立つ私たち二人に一斉に注がれていた。
「……っ、息が……」
「堂々としていろ。俺の隣に立つ女が、三百人程度に見られたくらいで震えるな」
「だって、こんなの聞いてないし……!」
エレノアさんに限界まで締め上げられたコルセットが、容赦なく私の肋骨を圧迫する。上から羽織っているベルベットの重厚なマントには、金糸の刺繍とミンクの毛皮があしらわれていて、肩が抜けそうなほど重い。
そのうえ、各国の特命大使、王室ファミリー、国内の有力貴族、高位の聖職者、文字通り、歴史の教科書から飛び出してきたような、ガチの中世の超絶セレブたちの値踏みするような視線に、ただの新米パティシエである私の胃はキリキリと悲鳴を上げていた。
しかし、私の隣に立つ第一王子、リュシアン・ド・ヴァルディシアは違った。
本日は王家の紋章である真紅のバラをあしらった陣羽織に身を包み、腰には宝石が散りばめられた儀礼剣を帯びている。
いつもの三割増し……いや、十割増しで超絶美形に見える。25歳という若さでありながら、三百人の貴族を前にしても微動だにしないその威圧感は、まさに王たる者の風格だった。
大司教がゆっくりと進み出て、よく通る声で列席者に問いかけた。
「皆の者、証人としてここに集え。第一王子リュシアン・ド・ヴァルディシアと、異郷より来たりし流れ人、ナギ。この二人の婚約が、神と王国の名において正当なるものか、ここに問う」
水を打ったように静まり返る大聖堂。
絹やベルベットの衣擦れの音すら消え失せた。誰も異議を唱える者はいない。……というか、リュシアンの放つ絶対的な覇気が凄すぎて、誰も逆らえないだけな気がする。
「よきかな。では両名、前へ」
促されて、私たちは向かい合った。
リュシアンの冷徹そうな青い瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
いつもはニヤニヤと意地悪く笑うくせに、今の彼は、息を呑むほど真剣な表情をしていた。
前の婚約者に別の『流れ人』へ心変わりされて寝込んだ……なんて、お母様が暴露していた過去を感じさせないほどの、強く、熱い意志を宿した瞳だ。
リュシアンが、重い袖口から覗く私の震える手を取った。
「我が血統と、この背に負う王国の名にかけて誓う。私は、異郷より来たりし汝ナギを、我が唯一の婚約者、そして未来の王妃として迎えることを、神と諸公の御前で約束しよう」
低く、よく通る声が大聖堂の石壁に反響し、幾重にも響き渡る。
その本気の誓いに、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。
そうだ。私、綿貫なぎは、わずか23歳にして羊の群れに轢かれてこの世界にやってきただけの小娘だ。でも、この人は私を見つけ、私を守り、私の居場所を作ってくれた。
私は緊張で震えそうになる手をぐっと握り返し、彼を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「私の世界のすべてを置き去りにしても、私はあなたの手を取ります。あなたを私の未来の夫、この国の光とすることを、ここに誓います」
その瞬間、リュシアンの瞳がわずかに揺れ、目元がほんの少しだけ優しく和らいだ気がした。
誓いの言葉が終わると、リュシアンは私の右手の薬指に、王家の紋章が重厚に刻印された大きなガーネットの指輪をゆっくりとはめ込んだ。
続いて大司教が進み出ると、重ね合わせた私たちの右手の上から、ヴァルディシア王家の色である真紅の鮮やかなシルクの紐を、何重にも巻き付けていく。
「これなる『手結びの儀』により、二人の運命は強く、固く結ばれた」
シルクの紐がしっかりと結ばれたのを確認すると、大司教は厳かに頷き、最後の一言を告げた。
「では、契約の証を」
……えっ?
心の中で間抜けな声を出した瞬間、リュシアンの大きな手が、私の頬をそっと包み込んだ。
そうだった。この中世レベルの世界観において、公衆の面前での接吻は単なる愛情表現などではなく、『契約の成立』を意味する極めて重い法的なサインなのだ。
「っ……」
逃げ場なんてない。いや、逃げるつもりもないけれど。
リュシアンの顔がゆっくりと近づいてくる。彼自身の甘い香りが、微かに鼻腔をくすぐった。
目を閉じると、私の唇に、温かく柔らかな感触が重なる。
それはほんの数秒のことだったけれど、ステンドグラスの光に包まれながら交わしたその口づけは、私の頭の中を真っ白にするには十分すぎる破壊力を持っていた。
唇が離れると、リュシアンは私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「……これで、お前は完全に俺のものだ。絶対に逃がさんからな」
「……望むところよ」
私が精一杯の強がりで微笑み返した直後。
王家の紋章旗を下ろした長いトランペットのファンファーレが、大聖堂の高らかな天井を震わせた。
「第一王子リュシアン殿下と、流れ人ナギ様の婚約、ここに成立せり!!」
大司教の宣言と同時に、三百人の列席者たちから地鳴りのような拍手と歓声が巻き起こる。
なだらかな丘陵地帯と肥沃な大地に恵まれ『大陸の心臓』と呼ばれるこの美しい王国で、私は未来の王妃として認められたのだ。
怒涛のような祝福の嵐の中、私は真っ赤になった顔を誤魔化すようにリュシアンの腕にギュッとしがみついた。
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