020 アントルメ
祝賀行事、四日目の朝。
昨晩、あれほど甘くて淫らな時間を過ごしたというのに、翌朝の彼はまるで別人のように冷徹で、引き締まった戦士の顔をしていた。
四日目の祝賀行事は、王族が管理する広大な禁猟区での魔物狩りだ。
王族の狩猟というのは、優雅に獲物を待つような生ぬるいものではない。
ずらりと並んだ馬、鎧をまとった騎士たち、そして鎖に繋がれた何十匹もの猟犬が今か今かと興奮して吠え立てている。それは「完全にいつでも戦争に行けます」という、軍事演習の空気そのものだった。
私はといえば、リュシアンが操る漆黒の軍馬の前に、横座りで同乗させてもらっている。
(エレノアさん! ハイソなピクニックじゃなかったの!?)
「ナギ、しっかり捕まっていろ。振り落とされたら魔獣の餌だ」
「は、はいっ!」
――ぶおぉぉぉーーーーーーっ!!!
森の奥から、低く重々しい角笛の音が響き渡る。
すると、リュシアンが私の腰を抱く手に力を込め、一気に馬を駆け出させた。
「行くぞ! 犬が獲物を追い詰めた合図だ!」
凄まじいスピードで木々の間をすり抜けていく。
森のあちこちから、異なるパターンの角笛が鳴り響いていた。「獲物の足跡を発見」「包囲網を狭めろ」など、音の旋律だけで的確に連携を取り合っているらしい。この世界の音響通信システム、凄すぎる。
やがて開けた泥地に出ると、何匹もの猟犬に囲まれて狂暴に暴れ狂う巨大な影が見えた。
大樽のような巨体に強靭な角を持つ巨大な羊。この森の主――魔獣『シープ・キング』だった。
「メエェェェェェェェッ!」
まともに突撃を食らえば、馬ごと粉砕される恐怖の魔獣。
並の貴族なら怯むところだが、リュシアンは不敵に微笑むと馬から飛び降り、鞍から一本の頑丈な槍を引き抜いた。
槍の刃の根元には、太い金属の横棒がついている。獲物の肉に深く刺さりすぎて、至近距離から反撃を食らうのを防ぐための実戦的な武器、ビーストスピアだ。
「ナギ、そこで見ていろ」
リュシアンは盾も持たず、真っ向からシープ・キングの前に立ちはだかった。
怒り狂ったシープ・キングが、地面を抉りながら凄まじい速度で突進してくる。
(嘘、避けないの!?)
私が悲鳴を上げそうになった瞬間。
リュシアンは槍の石突きを泥に深く突き立て、自らの体重をかけてがっちりと固定した。
――ドズシュッ!!!
重い衝撃音が響き渡る。
シープ・キングは自らの突進の勢いのまま、リュシアンの構えた槍に胸を貫かれた。槍の横棒が分厚い肉をガッチリと止め、鋭い角がリュシアンに届くのを阻む。
魔獣が絶命するまで、リュシアンの腕はピクリともブレなかった。その圧倒的な筋力と冷徹なまでの冷静さに、周囲の騎士たちから「おおおお!」と地鳴りのような歓声が上がる。
「ふぅ……」
跳ねた泥と吹き出した血を浴びたリュシアンが、ふっと息を吐いて槍を引き抜く。
そしてその場で始まったのは、どこか厳かな解体の儀式だった。
仕留めた魔獣の部位は、作法に従って厳格に切り分けられていく。犬たちには褒美として内臓が与えられ、森には濃い血の匂いが立ち込める。
リュシアンが短剣で、シープ・キングの立派な右前脚をゴロリと切り落とした。
彼はそれを白い布に包むと、馬の上の私のもとへと歩いてきて、泥の積もる地面に片膝を突いたのだ。
「我が愛しの女神。この勇気ある獣の右前脚を、勝利の証としてあなたに捧げる」
この世界のリアルな作法――『仕留めた獲物の右前脚を、愛する貴婦人に捧げる高貴な求愛』。
「えっ……あ、ありがとう……?」
(羊……私、羊の群れに轢かれてこっちに転移したけど……まあ、そのおかげでリュシアンと結婚できたし……い、一応、あ、ありがとね……)
差し出された、まだほんのり温かい毛むくじゃらの魔獣の生脚。
ロマンチックなのかホラーなのか、現代人の感覚としては脳の処理が追いつかない。けれど、周囲の貴族たちは「おお! なんと情熱的な!」「昨夜に引き続き、お熱いですな!」と、やんやの喝采を送っている。
「……リュシアン、これ、どうすればいいの……?」
「城に持ち帰って、お前の好きなように料理させるといい。私の愛の重さだ、受け取ってくれ」
そう言って、泥と返り血で汚れた顔のまま、リュシアンは悪戯っぽく微笑んで、私の手の甲にそっとキスをした。
(格好いいけどワイルドすぎる……! でも、これがこの世界の、愛の形なんだ……)
魔物狩りから帰城した後、私はリュシアンから贈られた「シープ・キングの右前脚」を抱えて王城の厨房へ駆け込んだ。
さすがに生脚を部屋に飾るわけにはいかないので、宮廷料理長に「これでリュシアンのための極上の料理を作ってください!」と託したのだ。
◆◆◆◆◆
そして始まった四日目の夜の大宴会。
大広間には、昼間に仕留められたシープ・キングの頭部が、リンゴをくわえ、ローリエやハーブで厳かに飾り付けられて堂々と運び込まれてきた。溢れんばかりのワインと肉の香りに、会場の熱気は最高潮だ。
「さあ、宴の締めくくりだ! 今宵の狩りを記念した、我が国が誇る神の使い・ナギ妃の至高の『アントルメ』を披露せよ!」
国王陛下の高らかな声を合図に、会場の明かりが一斉に消された。
ざわざわと身を乗り出す貴族たち。私の隣に座るリュシアンも、ふっと目を細める。
アントルメとは、ただのデザートではない。城の形をした砂糖細工から本物の小鳥が飛び出したりするような、中世ならではの演劇的な「見せる仕掛け菓子」なのだ。
◆◆◆◆◆
――数時間前。
私は厨房でアントルメを前に悩んでいた。
色を付けた氷砂糖とアイシングで巨大な王宮を再現。壁面には太陽と月のモザイク画を施し、内部には明かりの魔道具を仕込んでステンドグラスのように眩しく光り輝くようにしてある。
そして王宮の前に立つのは、剣を掲げる王子の砂糖細工と、その前に横たわるグリフォン。
(リュシアンもエレノアさんも『素晴らしい出来だ』って言ってくれたけど……あの狩りの凄まじさを見た後だと、どうにも迫力不足だよな……)
「エレノアさん……これ、今から作り変えたいんだけど……」
「畏まりました。バルザード伯爵を至急お呼びします」
「お願い!」
◆◆◆◆◆
静寂の中、巨大なアントルメが大広間に運び込まれる。
「おおおーーーっ!」
闇の中に浮かび上がる、氷砂糖で作られた光り輝く王宮。太陽と月のモザイク画が美しく煌めいている。
王宮の前に立つのは、凛々しい王子の砂糖細工。
そして、その前に横たわるのは――ホワイトチョコレートで精巧に作られた、巨大なシープ・キングだった。
(バルザード伯爵のおかげで、ギリギリ間に合ったわ……)
「姿を見ないと思ったら、これを数時間で作っていたのか……まるで魔法だな」
「ふっふっふ、驚くのはまだ早いよ。リュシアン、あの羊の首を切って」
「ん?」
リュシアンが訝しげに歩み寄り、羊の首にナイフを入れる。
すると、羊の頭がゴロッと転がり――首の断面から、真っ赤なワインが勢いよく吹き出した。
一流の魔道具技師バルザード伯爵に協力してもらった仕掛けだ。
「おおおーーーっ!!!」
「なんと見事な仕掛けだ! まるで本物の血のように赤く美しい!」
「まあ、残酷で……なんて美しいのかしら!」
「リュシアン殿の圧倒的な武勇と、ナギ妃の洗練された感性。この国は恐ろしいほどに豊かになるぞ……」
割れんばかりの拍手の中、リュシアンは小さく笑みをこぼした。
そして、昼間と同じように羊の右前脚をナイフで器用に切り取ると、甘い香りの漂うそれを片手に私の前へと歩み寄り、恭しく片膝を突いた。
「ふふっ、我が愛しの女神。この勇気ある獣の右前脚を、勝利の証としてあなたに捧げる」
昼間は生々しい血に塗れていたが、今はワイン香る甘いホワイトチョコレート。
「ありがとう、リュシアン」
私は吹き出しかけるのをこらえながら、とびきりの笑顔でその甘い愛の証を受け取った。
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