後日談 伯爵は見た!
爵位を返上するのだろう、そう言われていたカレント侯爵家に養女が入ると噂になったのは一月ほど前だ。息子ではなく娘を迎えれば今後も相続の諸々で面倒が増えるだけであろうに、回りくどいやり方がなんとも女侯爵らしいと社交界はしばらくその話題で持ちきりだった。
それというのも通常であればそれとなく縁続きになった家の噂などが飛び交うのだが、今回はどうにも勝手が違う。数日は一体誰がと騒がれ、すぐにそれが素性もはっきりしない『軍の魔女』だと知れると、興味本位の囀りは一層騒々しさを増す。
「さすがは血筋を気になさらない女侯爵様。間諜かもしれない方に爵位を譲られるなんて」
「ええ本当に。確かオルビィの継嗣様にも色目を使っていらしたのでしょう?」
「あら、わたくしはあちらがとてもお上手だとお聞きしましてよ?なんでもその手管で、長く軍にとどまり続けたのだとか」
「そうそう、あのランバート様もすっかり騙されて、骨抜きにされたんですって」
「魔女ってそういう意味でしたのね」
などという会話があちらこちらでなされ、結果、侯爵家が正式な披露宴を催す旨を招待状で伝える頃には貴族の一大スキャンダルであるかのように周知されるまでに至ってしまった。
大迷惑な当人たちをほったらかしで実しやかに囁かれる讒言の数々は、結局夜会当日も止むことなく主賓を待つ会場でもあっちでひそひそ、こっちでぼそぼそ、耳障りなほど大きくなってきていた。
「ふふん、なんとも楽しい晩だね」
そんなさざめく方々を縫って主賓が登場する扉近くへと陣取った若き伯爵は、独身のご令嬢方に今最も熱きアプローチを受けている伊達男である。
ワイルド伯爵家を継いだばかりのこの男、漆黒の髪と魅惑のパープルアイズを煌めかせ、言い寄るご婦人といい思いをし浮名を流しては次に乗り換えるという、下半身が緩い…失礼、節操のない…違った、自由奔放な日々を楽しんでいるそこそこ人気の婿候補であった。
「まあ、あちらエリック様じゃありません?」
「本当だわ。もしかして、本日お披露目のお嬢様を…?」
「そんなっ!あんなどこの馬の骨とも知れない方を…っ」
そうして己の周囲でこんな嫉妬渦巻く声が上がるのも大好きなトラブルメーカー…。
当然この場で楽しげにシャンパンのグラスを掲げているのも、計算の内である生粋の問題児だから、会場を満たす不穏な空気が心地よくて仕方がない。
「さて、毛色の変わったお嬢さんだと言うし、乗り心地はいかがなものか」
品の欠片もない呟きを漏らしたエリック・ワイルドは、顔がそこそこ上等で家にまとまった金がなかったのなら、女性からは、いや周囲の全ての者からも、見向きもされないような類の人間だ。
もちろん今回もその名に恥じぬ行いをするべく、貴族のことなどまるで分らない新米令嬢を望む様にひっぱりまわし美味しくいただいてしまおう。
重々しい観音扉がゆっくりと開き、威厳たっぷりの当主に続いて現れた娘にそんな不埒なことを考えていたのだった。
「とてもお似合いね、そのドレス。病的なまでに肌が白く見えましてよ」
「はぁ」
「そちらの髪飾りもお綺麗ですわ。最近はやりの生花など、くすんでしまうくらい立派な宝石ね」
「ええ」
「お顔立ちがエキセントリックでいらっしゃるから、そういったお召し物が似合うのね。わたくしにはとても着られませんわ」
「あー、えー」
ところがエリックが誘いをかける前に新米令嬢は、女侯爵が所用で席を外すやいなや突進してきた女たちに囲まれ、一見褒め言葉に聞こえる遠まわしな嫌味を聞いているのかいないのか、気のない受け答えで流している。
年若い娘なら涙ぐんでここを飛び出してもおかしくないであろうに、変に度胸が据わっているというかなんというか。二十歳そこそこに見えるのに随分と場数を踏んでいるのだろうか?
軍所属で魔女とまで言われるような娘は、平凡な見かけに反して内面が鋼並みに頑丈なのかもしれない。
興味深げに女性たちの戦いを眺めつつ、エリックは嫌らしく口角を上げた。手ごたえがあるほど狩りは楽しいものなのだ。
「侯爵家ではきちんとした会話もマナーだと教えて頂かなかったんですの?先ほどからちっともお話しになりませんけれど」
掴みどころのない態度に、先に痺れを切らしたのは取り囲む娘たちの方だった。
扇子で口元を隠したまま、とうとうものを言わなくなってしまったご令嬢を見下して、リーダー格のお嬢様が嘲る。それすらもそっとそらした視線でやり過そうとした彼女は、更にあからさまになった非難にとうとう重い口を開いた。
「この度ご縁がありまして侯爵家の養女としていただきましたが、長く軍人でありました身、皆様方のような教養もなく粗忽でお見苦しいことが多々あるかと存じます。今後も家名に恥じぬよう努めて参りますので今日のところはわたくしの不調法をお許しくださいませ」
遜って周囲にそう告げると優雅に膝まで折って見せたその姿に、慌てたのはご令嬢方を含む周りのやじ馬たちだ。騒ぎが起きているのかと覗いただけなのに、やいのやいのと責めたてていた娘たちに主賓の侯爵令嬢が頭を下げて許しを請うているではないか。
養女であろうと、元の素性がわからなかろうが、王に許しを得て侯爵家に迎え入れられたからには、どれほど嫌っても彼女は侯爵令嬢である。囀っていた娘たちは彼女より家格の高い者がいなかったはずだから、このままでは大問題になってしまう。
「え、あの、ちょっとっ」
「はい、なんでしょうか?」
狼狽えるお嬢様と小間使い。双方が豪華なドレスを纏っていなければ、間違いなくそんな力関係が透けて見える一場面だ。見物する分には十分すぎる楽しさだが、このままではいかんせん涙目の敵役が憐れすぎる。
ここはフェミニストを自称するエリックとしては黙っているわけにもいかず、苦い笑いと共に未だ膝を折るご令嬢の背後に回って囁いた。
「お顔を上げてください。今貴女がこのお嬢さんに謝罪されることは我々のルールで正しくない。それとも嫌がらせでやっておられるのですか?」
言い切るや否や、新米令嬢の背が伸びた。その顔は申し訳なさそうに歪み、正面で驚いた顔をしている娘に向けられている。
「申し訳…いえ、あの、そういったつもりではなかったのです。習慣なんです。上官にはすぐに謝罪することになっているので、その…」
おろおろと説明をしている様子を見るに、他意のある行動ではなかったようで、なにより以前にもこの手の指摘を受けたことがあるのだろうことは容易に想像できた。周囲にもそれは伝わってほっとした空気に変わったのがわかる。
「おちつ…」
「落ち着け、チホ。そうひどい間違いを犯したわけじゃないんだから」
さてここで彼女を宥め、本来の目的を果たそうか。
不埒なエリックがそんな下心満載で令嬢の剥き出しの肩に触れようとした時だった。
横手から上等なベルベットに包まれた太い腕が伸びて、声を上げる暇もなく華奢な体を攫って行く。
「副長っ!」
「…名前」
「あ…」
同じで男であるのに感じる身長差と体格差、何より圧倒的な迫力に荒削りな美貌まで相まって、この途中乱入の男に会場中が固唾をのんだ。
『子爵家の…』
『あの三隊の…』
一瞬の沈黙の後ひそやかに上がった声の真偽を測り兼ねる者たちが首を捻る中、美丈夫とその腕に閉じ込められた娘の背後から女侯爵のしかめっ面がのぞく。
「遅いわよ、キーファ。紹介が一度で済まなかったではないの」
「すみませんね。諦めの悪い前の上司が色々妨害してくれるもので、本部を抜けるのに時間がかかりました」
「あら。困ったものね、あの子にも」
さして困ってもいなさそうな養母と、心底うんざりしたとでも言いたげな男に何か言いかけて、新米令嬢は大人しく口を閉じた。
この場の雰囲気を読めばそれは賢明な判断だろう。
女性でありながら将軍と渡り合えると有名なカレント侯爵とこの大男は、妙な迫力があってそこにいるだけで誰もを黙らせる空気を纏っているのだ。きっとこの場面では何を言っても鼻であしらわれて終わりだろう。ならば黙っているのが賢明だ。
誰しも考えることは同じようで、小石一つ落として音が響きそうな静寂の中、満足そうににっこり笑った女侯爵は大仰な仕草で隣に立つ若い2人を指し示す。
「では皆様、改めてご紹介させていただきますわ。この度わたくしが迎えた娘、チホ・レベッカ・フラウ・カレントと、その婚約者であるキーファ・グスタフ・オルビィです。キーファは生家を出て侯爵家を継ぐよう陛下に結婚の許しを得るため謁見したさい命じられておりますので、皆さまのお引き立てをよろしくお願い致しますわね」
今、さらっと大事なことを聞かなかっただろうか?
結婚やら王命やら、養女の件1つでも重大発表なのに複合にしてくれたものだから貴族たちは一瞬理解に時間を要してしまった。とはいえほんの数秒のこと、直後にはざわめきさざめき会場は騒然とした空気で満たされる。
「う、嘘よ!あの目障りな女がキーファ様のお傍から消えて、皆ほっとした矢先ですのにっ」
「そうよっ、なぜよりにもよって…っ」
「身分違いでこれまで牽制できましたのに!」
「なんだ、これではわざわざ来た意味がないな。侯爵位は魅力的だったのに」
「本当に。平民上がりの娘なら、夫になれずとも取り入るのは簡単だと思ったんですがな」
「オルビィの長子が相手では、分が悪い」
寝耳に水の出来事に、思惑のある者たちが聞こえよがしに洩らした不満は、何故かキーファ・オルビィの頬を緩ませた。
「どれもこれも愉快な勘違いばかりだが、一番はあれだな、チホに取り入るのが簡単だと考えている馬鹿者どもだな」
くつくつと喉奥で笑った男が流した視線を受けた女侯爵は、そうねぇと神妙なそぶりで頷いて、
「医術に優れただけの軍人では侯爵家の養女にはなれないのだけれど、いつ気づくのかしら」
実に深刻そうに首を傾げる。茶化しているとしか思えないその態度に笑みを崩さない男は、すぐでしょうと肩を竦めた。
「既にいくつか不正がありそうな取引先を見つけて昨日手を切ったそうですから…そうですねぇ、隣りの侯爵家辺りは青くなるんじゃないですか?」
「あら、わたくしはあちらの伯爵家の面白い話を聞いたけれど」
「お2人とも、やめてくださいっ。今警戒されると困るんです」
楽しげな2人を小声で諌めたご令嬢は先ほどまでのもの慣れない様子とは一変、軍人であったことを納得させる厳しさを纏ってちらりと周りを確認する。そうしてそこに、立ち去るタイミングを逃したエリックを見つけるとにこりと、とても可愛らしく微笑んで唇に立てた人差し指を当てて見せた。
「すみません、内緒にしてくださいね?」
それは強制力のないお願いで、聞く義理もないのだけれど。
思わず頷いた百戦錬磨の男は、知らずにほんのり朱の差した頬を隠すよう口元に手を当てた。特段美しくもなく、男の目を引くような娘ではないのに、ツボを押さえているというかなんというか男がハッとするような仕草で実にタイミングよく気を引いて見せる。
さすが男所帯の中で地位を固めただけはあると、感心していると。
「遊ぶなら、相手を選べよ?こんなことで命を落とすんじゃ、割りに合わないだろう?」
至極物騒なことをほざいた男がこれ見よがしに侯爵令嬢の腰に手を回し、悪人にしか見えない顔つきでにやりと唇を歪めて見せた。直後に当人に咎められてはいたが、どこ吹く風で見せびらかすように婚約者をホールへと連れ出していく。
エリックはそれをぼんやり眺めた後、馬鹿らしいと眉を跳ね上げるとくるりと踵を返した。
勝てない喧嘩はしない主義だし、何よりまじめすぎる軍人は遊びの相手に不向きだ。
今日は来るべきではなかったな。
無駄足をそう評しはしたが、面白い情報が得られて明日からの社交界が楽しみなエリックでもあった。
果たして侯爵家の令嬢がすこぶるやり手であると、噂されるようになるのは数か月後のこと。