第1話 久しぶりのキャンプ
神谷悠真、三十八歳。
独身。
十五年以上、同じ会社に勤めている。
仕事は嫌いではなかった。
ただ――会社が嫌いだった。
朝は早く、帰宅するのはいつも夜遅く。
定時という言葉は、もはや飾りになっていた。
休日出勤も珍しくない。
給料は、決して悪くない。
生活に困るほどではない。
けれど、金を使う時間がなかった。
買ったものを楽しむ時間もない。
友人と会う時間もない。
恋人を作る余裕もない。
気がつけば、仕事をして、帰って、寝る。
その繰り返しだった。
昔は、それなりに趣味もあった。
映画を見たり、旅行に行ったり。
そして、一番好きだったのがキャンプだった。
焚き火を眺めながら酒を飲む。
何をするでもなく、ただ夜の静けさを楽しむ。
そんな時間が好きだった。
けれど、いつからだろう。
キャンプ道具は押し入れの奥にしまったままになっていた。
休日があっても、身体を休めるだけ。
「……俺、何のために働いてるんだろうな」
ある日の夜。
自宅でぼんやりとスマートフォンを眺めながら、悠真はそんなことを考えていた。
そして、ふと思った。
「……キャンプ、久しぶりに行くか」
理由なんてなかった。
ただ、久しぶりに焚き火が見たかった。
翌週。
悠真は押し入れから古いキャンプ道具を引っ張り出した。
少し埃をかぶっている。
テントも、ランタンも、バーナーも。
どれも昔使っていたものだ。
「まだ使えるかな」
思わず笑みがこぼれた。
久しぶりに、自分から何かを楽しみにしている気がした。
そして休日。
悠真は車にキャンプ道具を積み込み、山へ向かった。
久しぶりのキャンプ場。
テントを張り、薪を並べ、火を起こす。
パチパチと薪が爆ぜる音。
オレンジ色の炎。
夜の山に広がる静寂。
悠真は椅子に腰を下ろし、缶ビールを一口飲んだ。
「……うまい」
それだけだった。
けれど、それだけで十分だった。
仕事のことを考えなくていい。
明日の予定もない。
誰かに急かされることもない。
悠真は炎を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「そういえば……昔は、こういう時間が好きだったな」
久しぶりだった。
仕事を忘れたのは。
会社員になってから、こんなに何も考えずに過ごした夜があっただろうか。
悠真は炎を眺めながら、静かに笑った。
――このまま、ずっとこうしていられたらいいのにな。
そんなことを考えた。
しかし。
深夜。
空から、大粒の雨が落ちてきた。
「……雨?」
最初は、ただの雷雨だと思った。
だが、雨は次第に強くなっていく。
テントを叩く音が、どんどん大きくなる。
ザーッ。
ザーッ。
「……ちょっと降りすぎじゃないか?」
悠真はテントの外を確認した。
視界が悪い。
山道には雨水が流れ始めている。
嫌な感じがした。
そのときだった。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
地面の奥から、低い音が響いた。
「……なんだ?」
悠真は立ち上がった。
音が近づいてくる。
地鳴り。
次の瞬間。
山の上から、何かが崩れるような轟音が響いた。
「……っ!」
ライトを手に取り、外へ出る。
暗闇の向こう。
大量の土砂と水が、こちらへ向かって押し寄せてくる。
「嘘だろ……」
逃げる暇などなかった。
土石流。
濁流がテントを飲み込み、悠真の身体を吹き飛ばす。
「――うわああああっ!」
一瞬で視界が暗くなった。
冷たい水。
土。
石。
そして、激しい衝撃。
(……死ぬのか、俺……)
薄れゆく意識の中で、悠真はなぜか笑った。
(久しぶりのキャンプ……楽しかったな)
それが、神谷悠真の人生最後の記憶だった。




