春告草
煙管の羅宇は、いつの間にか飴色になっていた。
手に取るたび、指の跡が染み込むように色が深くなっていく。満岳が持ってきた時の、黒く塗られた頃の面影は、もうほとんどない。
山も、静かになった。
以前は夜になれば、獣の気配や遠い集落の物音が、風に混じって届いた。それさえも、いつの頃からか薄くなっている。
聞こえるものが変わったのか、己の耳が慣れたのか。どちらでも、大した違いはないことだ。
己が、ただ外界から目を逸らし、耳を塞いでいた間に、多くがなくなった。確かにあると思っていたものが、いつの間にか消えて跡形もない。
妖の時代が来たと喜んでいた焔嵐は死に、そんなものは最初からなかったかのように、静かな時が過ぎていく。
――あの地は今どうなっているのか。
ふと、そんなことを思った。
玉依良や祁山については、満岳の口ぶりから、既に忘れ去られているようだった。もう、何もその跡を遺すものはないのだろう。それでも唐突に、あの場所へ行きたいと思った。
夜の帳が下りた頃を見計らい、永く居場所にしていたそこを出る。
力を使えば早くたどり着くことができるが、それをする気にならなかった。過ぎ去りしあの日々を、少しずつ手繰り寄せるべきだと、思ったのだ。
現世に近づくにつれ、その匂いが強くなっていく。
現世を居場所にしていたが、常世に近い狭間ゆえに、風が運んでくるものは、ほんのわずかだったのだろう。
近づく度に、気が奇妙なものに感じる。久方ぶりゆえ、と理由をつけられないほどに。
現世に入った瞬間、息苦しさがのしかかった。
気が、みっしりと詰まっている。
音、匂い、光、生き物の気配――かつてであれば、風が運んできては流していったものが、ここでは流れずに、ただ充満している。
いつの間にか現世は、これほど目詰まりを起こしていたらしい。 妖には、ひどく生きづらい世だ。
(これでは、満岳も生きられないな)
しかし、二、三度、その気を吸い込むうち、その息苦しさは霧散した。やはり己には、あまり負荷がかからないらしい。己は、焔嵐や満岳らとは、似て非なるモノだから。
あちらは不可思議への恐れから、己は霊威への恐れから。
恐れ一つで、ここまで命運を分けられるとは、皮肉なものだ。
小高い山の眼下に、麓が広がる。
覚えのある家とは、姿形が違う。その前には、どこも奇妙な鉄の塊が置かれている。
何より奇妙なのが、ぽつぽつと照らす光だ。それは己の知る、松明や囲炉裏の、揺れて命を持つような火ではない。瞬きもせず、風にも揺らがず、ただ熱を持たぬ光が、辺りを白々と照らしている。
あれの下で暮らすのならば、さぞ、闇を畏れることもないのだろう。妖への恐れも、薄れて当然だ。
麓の向こうの山が、覚えのある稜線をしている。
あの山の側に、林があったはずだ。
知らずのうちに足がはやる。急いでも意味はないが、それでも足は止まらぬ。
しかし、その山へ足を踏み入れた途端、それはようやく止まった。
違うのだ。あの山――あの時の山とは。
土を踏む感触が、硬い。
下生えの匂いが、昔より薄い。
風が運んでくるものの中に、覚えのある気配が、もはや一つも混じっていない。
形は同じ、別物だった。
(千年を過ぎていれば、至極当たり前か……)
詰めていた息を吐き出し、次は林があった方へ向ける。
(林は、生えているものがやはり、変わっているのか? 静かな気配は、失われているのか……?)
様変わりしていることなど、端から分かっている。が、心ならずも、何か残っているのではないかと、落ち着かぬ。
歩くうち、開いた場所へ出た。
ここは――林があった場所の、はずだった。
見事なまでに、平らに均されている。
切り株、木の根、小枝の一つも見当たらない。丈の低い草が乾いた風に揺れるばかり。
空を覆うように茂るあの景色が、途端に、この更地へと塗り替えられ、掠れていった。
確かにあったはずの日々は、無にさらされたのだと、否応なしに突きつけてきた。
足を少し先まで延ばしてみたものの、やはりどこも、目にするのは覚えがないものばかりだった。
山際が、明るくなり始めている。
「……帰るか」
小さく呟いたはずの声が、やけに山の中に響いた。
何も残っていないと、分かっていたはずなのに。なぜ足を向けてしまったのか。
どこかで、浸れるものがあると期待をしていたのだろうか。己の考えの甘さに、辟易した。
踵を返そうとしたその時、視界の端に、妙に白いものが映った。山の木々の中に、ぽつんと異様に白い色が見える。
気にならないわけではないが、見過ごそうと思えば、見過ごせるもの。けれど、知らぬ間にその白へ、己は向かって進んでいた。
近づくほどに、白は形を結んでいく。
木々の隙間に、不自然なほど滑らかな曲面。山の何物にも似ていない、つるりとした白が、そこだけ世界から切り取られたように浮いている。
その白は、鉄の塊だった。あの、家の前に置かれている鉄の塊と同じらしい。
時折、灰色の硬い道を滑るように走っているのを、見た。
近くに寄ると、人が入っていた。側面に硝子が嵌め込まれており、中で座っているのが見える。
(なるほど。これは車、のようなものか)
牛や馬を要さずに、移動する物なのだろう。
つくづく、人間は突飛なものを作るのが好きなようだ。満岳が訪ねて来ていた頃の物に驚かされてはいたが、それを遥かに超えた奇抜さである。
硝子の向こうから、声がする。
赤子の泣き声だ。細く、けれど必死に、空気を裂くように上がり続けている。
その隣で、女は動かない。
これだけ泣かれて、瞼ひとつ動かさぬ。あやしもせねば、煩がりもしない。
(寝ているのか? ここで?)
泣き声の主へ、目をやる。
女の後ろで、布にきつく包まれた赤子が、もがいていた。もそもそと手足を動かすだけで、何の意味もなさない。
しかし、そのはずみに小さな顔がこちらを向き――深く澄んだ、黒い瞳と、目が合った。
その刹那、己の時が、止まった。
(……そんなこと、あるわけない)
見間違いだ。そう片付けるべきだと分かっている。
しかし、あの目と魂が、脳裏から離れない。
深く息を吐き出し、もう一度、赤子の顔を覗き込む。
濁りのない、底まで見透せそうな黒。乳飲み子のものとは思えぬほど、静かで、深い。
「……玉依良?」
喉の奥で、声が掠れた。
その魂は――見誤りようがなく、玉依良のものだった。
何も残ってなどいないと諦めたばかりだった。跡形もないことを確かめたはずだった。
だが今、それは己を見上げている。
途端に、と呼ぶには、あまりに緩やかに。
灰に沈んでいた世界が、その赤子を中心にして、滲むように色を取り戻し始めた。
永く現世へ降りなかったというのに、今日、降りようという気が起きたのも。車のもとへ足を運んだのも。この赤子が己を呼んでいたからだ。
赤子は大きく声を上げながら、運命から逃れようと、ひ弱にもがき続ける。
女は、やはり動かぬ。その隣で、炭が焚べられている。立ち昇る煙が、硝子の内に、薄く溜まり始めていた。
――そういうことか。
この小さな命は、道連れにされようとしている。
消えかけているそれに、いつの間にか、怒りを覚えるようになったらしい。誰かのせいで。
――ああ、そうか。お前はまた、柵に囚われているのか。
自分で選んだわけじゃない、抗う術もないというのに、囚われてしまったのか。
(お前はいつだって、生きづらそうだな)
生きようと、ただ泣き続けるその赤子に向かって、己は、手を伸ばした。
ずぶりと手が硝子に入り込む。
導かれるようにして道が開き、ついに赤子へ触れた。
ふにゃりとした温もりが指を伝う。
そのまま、その命を掴み、中から引きずり出した。
そっと己の腕に抱くと、赤子はしゃくりを上げながらも、泣き声を抑え始めた。
小さく、指一本を動かしただけで、消えてなくなりそう。だが、開いたその目には、生への執念に近いものがあった。
「久しぶりだな……随分と、チンケな姿になったものだ」
滑らかな頬を軽くつつくと、むず痒そうに小さく唸った。しかし、先までの大泣き具合が嘘のように、大人しくなっていた。
「よく静かになれたものだ。仮にも己は、『巫女喰らいの鬼神』と、恐れられていたらしいぞ」
そんなことは知らぬというように、急に赤子は、まぶたを重たげに閉じ始める。
眠気に抗おうと、薄目を開けては閉じ。また開けては閉じて。
ついに、まぶたが降りて寝息が聞こえ始めたところで――車から鈍い音がした。
幸い、赤子は目を覚まさなかった。
車に目を向けると、先とは違い、女の頭が硝子に寄りかかっている。どうやら、眠りこけていて、体の向きが変わっただけのようだった。
――腹の中では母と子。けれど、外に腹から出れば他人になる。
――恋しさや寂しさはないけれど……母というものを、知りたかったとは思うの。
一歩、車のほうへ踏み出しかけた。
この女を生かせば、玉依良は母を知るのだろうか。腹の中で繋がっていた、たった一人を。
しかし、足が止まった――否、止めたのだ、己が。
(道連れに死のうとしたこの女と、共に生きられるものだろうか?)
見殺しにする言い分を探している。その時点で、答えなど疾うに出ているというのに。
「己は……この女を、救わぬ」
赤子は、腕の中で静かに眠っている。
「何の柵に縛られていたのかは知らぬが、この女は自ら望み、お前の柵となったのだから」
寝息を小さく立てている。
ただ、その沈黙が己に賛同をしているかのようだ――否、そう思いたいがために、そう見えるだけだろう。
「いつか、真を知っても……許す必要はない」
最後に、もう一度車の中に目を向けると、充満した煙で見えづらくなっていた。
赤子を抱いて踵を返し、もと来た道をたどり始めた。
足を進めていくうちに、頭が冷えていった。
(この赤子は、己の手元にいて良いものか?)
人間の赤子の世話など、出来るわけでもない。
この赤子にとって、常世のモノと深く関わり続けても、良いことはない。
(血迷っていたな。己は)
人間の手の中で育つべき。誰か人間に預けるしかない。けれど、人の知り合いなどいるわけもない。
(……預けるべく人間を、選ばなければ)
選ばなければ、またこいつは、柵に囚われることになる。
先の麓まで戻ってきた。
朝日は顔を出し始め、人の動く気配が、あちこちでし始めている。
(ひとまず、寺か社に預けたほうがよいか……いや、この近くの寺は廃れていた。人があまり、寄りつかないのかもしれぬ)
ふと、小屋が目についた。入り口を、赤い光で照らしている。新しくはないが、ある程度、小綺麗ではある。人の出入りが、ある程度はされているのだろう。
「“交番所”……見張り所、みたいなものか?」
赤子は起きることなく、静かに寝息を立て続ける。
こちらへ向かって、人の気配が一つ、近づいてくる。
「……ここにしておくか」
最善ではない。それでも、常世のモノの腕に抱かれ続けるよりは、余程ましだろう。
己が傍にいる限り、この子はまた、柵に囚われる。
手放すことだけが、唯一してやれる情けだった。
そっと、入り口の側に赤子を横たわらせると、さすがに床が硬かったのか、再び小さく唸った。
今は泣いてくれた方が、都合が良い。そのまま、赤子を置いて離れた。
か細い泣き声が、少し遅れて、夜明けの底に滲んだ。
小高い竹林へ身を躍らせ、あの小屋を見下ろす。
泣き声は、止まない。
朝日はまだ、山の端で躊躇っている。
やがて――あの小屋へ近づく人影が見えた。
「え……? なん、で」
壮年に差し掛かろうか、というくらいか。男は戸惑った声を上げたが、すぐに赤子へ駆け寄り、抱き上げた。手つきは危なっかしく、今にも取り落としそうだ。
(それでも――道連れにしようとした女よりは、余程ましか)
不慣れな手つきで、けれど必死に、男はあやし始める。
「誰、か」
辺りをきょろきょろと見回しては、赤子に視線を落とす。
「アオイ、アオイ! ちょっと!」
男はそう叫びながら、小屋の近くの家へと、慌てた様子で入っていった。
「なあに?……え、ちょっと、なに? なんで赤ちゃん抱っこしているの?」
「分からない。交番の前に、居たんだ!」
「ま、待って! 危ないから、私に貸して!」
「ど、どうすれば」
「何を言っているの? あなた警官でしょ! 本部に連絡とかじゃないの?」
「あ、ああ。そうだな!」
「もう、しっかりして。そんなに動揺してどうするのよ」
男の機転はあまり良くはなさそうだが、人となりは、悪くはなさそうだ。夫婦なのかは分からぬが、女がしっかりしている。
ひとまずは、悪くない人間に、預けることが出来たらしい。
騒ぎ声が響く家を背に、居場所へ戻ることにした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
霧雨の時間が、再び動き出しました。
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次回は【6/29 12:00頃】に更新予定です。
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