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月の柵(ませ)  作者: 伊月檸檬
寂寥の追想
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8/12

春告草

 

 煙管の羅宇は、いつの間にか飴色になっていた。

 手に取るたび、指の跡が染み込むように色が深くなっていく。満岳が持ってきた時の、黒く塗られた頃の面影は、もうほとんどない。


 山も、静かになった。

 以前は夜になれば、獣の気配や遠い集落の物音が、風に混じって届いた。それさえも、いつの頃からか薄くなっている。

 聞こえるものが変わったのか、己の耳が慣れたのか。どちらでも、大した違いはないことだ。


 己が、ただ外界から目を逸らし、耳を塞いでいた間に、多くがなくなった。確かにあると思っていたものが、いつの間にか消えて跡形もない。


 妖の時代が来たと喜んでいた焔嵐は死に、そんなものは最初からなかったかのように、静かな時が過ぎていく。



――あの地は今どうなっているのか。


 ふと、そんなことを思った。

 玉依良や祁山については、満岳の口ぶりから、既に忘れ去られているようだった。もう、何もその跡を遺すものはないのだろう。それでも唐突に、あの場所へ行きたいと思った。




 夜の帳が下りた頃を見計らい、永く居場所にしていたそこを出る。

 力を使えば早くたどり着くことができるが、それをする気にならなかった。過ぎ去りしあの日々を、少しずつ手繰り寄せるべきだと、思ったのだ。


 現世に近づくにつれ、その匂いが強くなっていく。

 現世を居場所にしていたが、常世に近い狭間ゆえに、風が運んでくるものは、ほんのわずかだったのだろう。

 近づく度に、気が奇妙なものに感じる。久方ぶりゆえ、と理由をつけられないほどに。



 現世に入った瞬間、息苦しさがのしかかった。


 気が、みっしりと詰まっている。

 音、匂い、光、生き物の気配――かつてであれば、風が運んできては流していったものが、ここでは流れずに、ただ充満している。

 いつの間にか現世は、これほど目詰まりを起こしていたらしい。 妖には、ひどく生きづらい世だ。


(これでは、満岳も生きられないな)


 しかし、二、三度、その気を吸い込むうち、その息苦しさは霧散した。やはり己には、あまり負荷がかからないらしい。己は、焔嵐や満岳らとは、似て非なるモノだから。

 あちらは不可思議への恐れから、己は霊威への恐れから。

 恐れ一つで、ここまで命運を分けられるとは、皮肉なものだ。


 

 小高い山の眼下に、麓が広がる。

 覚えのある家とは、姿形が違う。その前には、どこも奇妙な鉄の塊が置かれている。


 何より奇妙なのが、ぽつぽつと照らす光だ。それは己の知る、松明や囲炉裏の、揺れて命を持つような火ではない。瞬きもせず、風にも揺らがず、ただ熱を持たぬ光が、辺りを白々と照らしている。


 あれの下で暮らすのならば、さぞ、闇を畏れることもないのだろう。妖への恐れも、薄れて当然だ。




 麓の向こうの山が、覚えのある稜線をしている。

 あの山の側に、林があったはずだ。


 知らずのうちに足がはやる。急いでも意味はないが、それでも足は止まらぬ。

 しかし、その山へ足を踏み入れた途端、それはようやく止まった。

 違うのだ。あの山――あの時の山とは。


 土を踏む感触が、硬い。

 下生えの匂いが、昔より薄い。

 風が運んでくるものの中に、覚えのある気配が、もはや一つも混じっていない。

 形は同じ、別物だった。


(千年を過ぎていれば、至極当たり前か……)


 詰めていた息を吐き出し、次は林があった方へ向ける。



(林は、生えているものがやはり、変わっているのか? 静かな気配は、失われているのか……?)


 様変わりしていることなど、端から分かっている。が、心ならずも、何か残っているのではないかと、落ち着かぬ。


 歩くうち、開いた場所へ出た。

 ここは――林があった場所の、はずだった。


 見事なまでに、平らに均されている。

 切り株、木の根、小枝の一つも見当たらない。丈の低い草が乾いた風に揺れるばかり。

 空を覆うように茂るあの景色が、途端に、この更地へと塗り替えられ、掠れていった。


 確かにあったはずの日々は、無にさらされたのだと、否応なしに突きつけてきた。





 足を少し先まで延ばしてみたものの、やはりどこも、目にするのは覚えがないものばかりだった。

 山際が、明るくなり始めている。


「……帰るか」


 小さく呟いたはずの声が、やけに山の中に響いた。

 何も残っていないと、分かっていたはずなのに。なぜ足を向けてしまったのか。

 どこかで、浸れるものがあると期待をしていたのだろうか。己の考えの甘さに、辟易した。



 踵を返そうとしたその時、視界の端に、妙に白いものが映った。山の木々の中に、ぽつんと異様に白い色が見える。

 気にならないわけではないが、見過ごそうと思えば、見過ごせるもの。けれど、知らぬ間にその白へ、己は向かって進んでいた。


 近づくほどに、白は形を結んでいく。

 木々の隙間に、不自然なほど滑らかな曲面。山の何物にも似ていない、つるりとした白が、そこだけ世界から切り取られたように浮いている。


 その白は、鉄の塊だった。あの、家の前に置かれている鉄の塊と同じらしい。

 時折、灰色の硬い道を滑るように走っているのを、見た。 


 近くに寄ると、人が入っていた。側面に硝子が嵌め込まれており、中で座っているのが見える。 


 (なるほど。これは車、のようなものか)


 牛や馬を要さずに、移動する物なのだろう。

 つくづく、人間は突飛なものを作るのが好きなようだ。満岳が訪ねて来ていた頃の物に驚かされてはいたが、それを遥かに超えた奇抜さである。



 硝子の向こうから、声がする。

 赤子の泣き声だ。細く、けれど必死に、空気を裂くように上がり続けている。


 その隣で、女は動かない。

 これだけ泣かれて、瞼ひとつ動かさぬ。あやしもせねば、煩がりもしない。


(寝ているのか? ここで?)


 泣き声の主へ、目をやる。

 女の後ろで、布にきつく包まれた赤子が、もがいていた。もそもそと手足を動かすだけで、何の意味もなさない。


 しかし、そのはずみに小さな顔がこちらを向き――深く澄んだ、黒い瞳と、目が合った。



 その刹那、己の時が、止まった。



(……そんなこと、あるわけない)

 

 見間違いだ。そう片付けるべきだと分かっている。

 しかし、あの目と魂が、脳裏から離れない。


 深く息を吐き出し、もう一度、赤子の顔を覗き込む。

 濁りのない、底まで見透せそうな黒。乳飲み子のものとは思えぬほど、静かで、深い。




「……玉依良?」


 喉の奥で、声が掠れた。

 その魂は――見誤りようがなく、玉依良のものだった。




 何も残ってなどいないと諦めたばかりだった。跡形もないことを確かめたはずだった。

 だが今、それは己を見上げている。


 途端に、と呼ぶには、あまりに緩やかに。

 灰に沈んでいた世界が、その赤子を中心にして、滲むように色を取り戻し始めた。


 永く現世へ降りなかったというのに、今日、降りようという気が起きたのも。車のもとへ足を運んだのも。この赤子が己を呼んでいたからだ。



 赤子は大きく声を上げながら、運命から逃れようと、ひ弱にもがき続ける。


 女は、やはり動かぬ。その隣で、炭が焚べられている。立ち昇る煙が、硝子の内に、薄く溜まり始めていた。


――そういうことか。


 この小さな命は、道連れにされようとしている。

 消えかけているそれに、いつの間にか、怒りを覚えるようになったらしい。誰かのせいで。



――ああ、そうか。お前はまた、柵に囚われているのか。


 自分で選んだわけじゃない、抗う術もないというのに、囚われてしまったのか。


(お前はいつだって、生きづらそうだな)


 生きようと、ただ泣き続けるその赤子に向かって、己は、手を伸ばした。


 ずぶりと手が硝子に入り込む。

 導かれるようにして道が開き、ついに赤子へ触れた。

 ふにゃりとした温もりが指を伝う。


 そのまま、その命を掴み、中から引きずり出した。



 そっと己の腕に抱くと、赤子はしゃくりを上げながらも、泣き声を抑え始めた。

 小さく、指一本を動かしただけで、消えてなくなりそう。だが、開いたその目には、生への執念に近いものがあった。


「久しぶりだな……随分と、チンケな姿になったものだ」


 滑らかな頬を軽くつつくと、むず痒そうに小さく唸った。しかし、先までの大泣き具合が嘘のように、大人しくなっていた。


「よく静かになれたものだ。仮にも己は、『巫女喰らいの鬼神』と、恐れられていたらしいぞ」


 そんなことは知らぬというように、急に赤子は、まぶたを重たげに閉じ始める。

 眠気に抗おうと、薄目を開けては閉じ。また開けては閉じて。

 ついに、まぶたが降りて寝息が聞こえ始めたところで――車から鈍い音がした。


 幸い、赤子は目を覚まさなかった。


 車に目を向けると、先とは違い、女の頭が硝子に寄りかかっている。どうやら、眠りこけていて、体の向きが変わっただけのようだった。



――腹の中では母と子。けれど、外に腹から出れば他人になる。


――恋しさや寂しさはないけれど……母というものを、知りたかったとは思うの。



 一歩、車のほうへ踏み出しかけた。

 この女を生かせば、玉依良は母を知るのだろうか。腹の中で繋がっていた、たった一人を。


 しかし、足が止まった――否、止めたのだ、己が。


(道連れに死のうとしたこの女と、共に生きられるものだろうか?)


 見殺しにする言い分を探している。その時点で、答えなど疾うに出ているというのに。


 「己は……この女を、救わぬ」


 赤子は、腕の中で静かに眠っている。


「何の柵に縛られていたのかは知らぬが、この女は自ら望み、お前の柵となったのだから」


 寝息を小さく立てている。

 ただ、その沈黙が己に賛同をしているかのようだ――否、そう思いたいがために、そう見えるだけだろう。


 「いつか、(まこと)を知っても……許す必要はない」


 最後に、もう一度車の中に目を向けると、充満した煙で見えづらくなっていた。

 赤子を抱いて踵を返し、もと来た道をたどり始めた。




 足を進めていくうちに、頭が冷えていった。


(この赤子は、己の手元にいて良いものか?)


 人間の赤子の世話など、出来るわけでもない。

 この赤子にとって、常世のモノと深く関わり続けても、良いことはない。


(血迷っていたな。己は)


 人間の手の中で育つべき。誰か人間に預けるしかない。けれど、人の知り合いなどいるわけもない。


(……預けるべく人間を、選ばなければ)


 選ばなければ、またこいつは、柵に囚われることになる。



 先の麓まで戻ってきた。

 朝日は顔を出し始め、人の動く気配が、あちこちでし始めている。


(ひとまず、寺か社に預けたほうがよいか……いや、この近くの寺は廃れていた。人があまり、寄りつかないのかもしれぬ)


 ふと、小屋が目についた。入り口を、赤い光で照らしている。新しくはないが、ある程度、小綺麗ではある。人の出入りが、ある程度はされているのだろう。


「“交番所”……見張り所、みたいなものか?」


 赤子は起きることなく、静かに寝息を立て続ける。

 こちらへ向かって、人の気配が一つ、近づいてくる。


「……ここにしておくか」


 最善ではない。それでも、常世のモノの腕に抱かれ続けるよりは、余程ましだろう。

 己が傍にいる限り、この子はまた、柵に囚われる。

 手放すことだけが、唯一してやれる情けだった。


 そっと、入り口の側に赤子を横たわらせると、さすがに床が硬かったのか、再び小さく唸った。

 今は泣いてくれた方が、都合が良い。そのまま、赤子を置いて離れた。


 か細い泣き声が、少し遅れて、夜明けの底に滲んだ。

 小高い竹林へ身を躍らせ、あの小屋を見下ろす。

 泣き声は、止まない。

 朝日はまだ、山の端で躊躇っている。


 やがて――あの小屋へ近づく人影が見えた。



「え……? なん、で」


 壮年に差し掛かろうか、というくらいか。男は戸惑った声を上げたが、すぐに赤子へ駆け寄り、抱き上げた。手つきは危なっかしく、今にも取り落としそうだ。


(それでも――道連れにしようとした女よりは、余程ましか)


 不慣れな手つきで、けれど必死に、男はあやし始める。


「誰、か」


 辺りをきょろきょろと見回しては、赤子に視線を落とす。


「アオイ、アオイ! ちょっと!」


 男はそう叫びながら、小屋の近くの家へと、慌てた様子で入っていった。


 「なあに?……え、ちょっと、なに? なんで赤ちゃん抱っこしているの?」

「分からない。交番の前に、居たんだ!」

「ま、待って! 危ないから、私に貸して!」

「ど、どうすれば」

「何を言っているの? あなた警官でしょ! 本部に連絡とかじゃないの?」

「あ、ああ。そうだな!」

「もう、しっかりして。そんなに動揺してどうするのよ」



 男の機転はあまり良くはなさそうだが、人となりは、悪くはなさそうだ。夫婦なのかは分からぬが、女がしっかりしている。


 ひとまずは、悪くない人間に、預けることが出来たらしい。

 騒ぎ声が響く家を背に、居場所へ戻ることにした。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

霧雨の時間が、再び動き出しました。

少しでもご興味持っていただけましたら、ブックマーク等してくださると大変励みになります。

次回は【6/29 12:00頃】に更新予定です。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

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