月へ
今宵はいつにも増して、屋敷の空気が張り詰めている。武装した人間が、敷地の外にまで溢れていた。
いつものように塀をすり抜け、奥へと進む。人の気が立っているせいか、玉依良の気配が常より薄く感じる。
「兄上は、目を逸らしておられる! 倉持の皇子との戦に勝てると、お思いか? 官人は皆、恐れをなしてあちら側についてしまった。我ら祁山に、勝機はありませぬ!」
人が寝静まる刻だというのに、怒号が飛び交う部屋があった。
中を盗み見ると、あの兄宗主を起点に囲うように、野郎たちが座っている。比較的、年を取った者が多く占めているが、その中でも最も若そうな、兄宗主よりも若そうな少年が、顔をゆがめて叫んでいるようだ。
「東殿。四門衆筆頭のあなたなら、分かるでしょう。祁山の武人衆では官軍に立ち向かうことなどできない。先の小競り合いで要の武司の首を獲られた今、どうやって士気を保つのです?」
東殿と呼ばれた小皺のある男は、大きくため息をついた。
「少副司殿、やはり、あなたは何も分かっていない。我らも宗主殿も、もはや、そのような話をしておりませぬ。これは、あの"依代成らず"の皇子との戦ではありませぬ。巫女のお側を、穢させないため、邪を退けるものです」
「分かっていないのは、あなた方ではありませぬか!」
少年――少副司は、激昂しながら立ち上がった。
「あの忌々しい邪を祓う力が、今の祁山にないと言っているのです! 弓彦兄上の散華を、無為に返すおつもりですか!」
「少副司!」
兄宗主の側に控える男が、短く叫んだ。
「掛けなさい。頭に血が昇ると、目が曇る」
「弥彦兄上まで、何を悠長なことを言っておられる……!」
男は、訝しむように首をひねった。
「私は、お前の方が甚だ不思議に思うぞ。なぜそこまで、泡を食ったように取り乱している?」
(そうか……こいつらも、玉依良の兄弟か)
あまり玉依良には似ていないが、落ち着き払っている方――弥彦と呼ばれた男は、少し兄宗主に顔立ちが似ていなくもないような気がする。となると、こやつが副司なのだろう。
喚いている少副司は、見た顔の中ではあまり似ている者がいない。強いて言うなら、武司と気配が似ている。
「なぜ、取り乱せずにいられるのか、私には分かりませぬ。この祁山が、愚か者どもによって権威を失おうとしているのですよ」
「何だと……?」
「何を言うか!」
下座に座っていた男たちは、立ち上がると少副司に詰め寄る。
「祁山は神に仕える身でありますぞ! それを、権威を失おうとしている、などと口にするとは!」
「天への冒涜に他なりませぬ!」
「少副司殿。本家のご身分でありながら、外界に染まりすぎたようですな」
「それで結構。私は、先行きを見据え、申し上げているのです! 祁山を失わせることがないよう、反吐が出てもあの要求を飲む振りをすべきなのです!」
「方々」
荒げた声ではないがよく通る声に、皆、副司を見た。
「掛けよ。少副司、ここは公の場である。烏滸な振る舞いは止めよ」
少副司は歯ぎしりをしながらも、大人しく座った。副司は小さく息をこぼすと、不満げな顔のそやつに目を向けた。
「少副司。我らは神に仕える者。たとえ、明日死のうが、御言を遵守するのが務めだ。そのためにすべきことは一つ。巫女殿のご身辺をお守りすること。そこをはき違えてはならぬ」
「そうですぞ、少副司殿。"依代成らず"の皇子に屈するなど、たとえ、芝居でもあってもならぬこと」
「だいたい、飲む振りをする、とは一体どういうことですか」
皆、呆れたように諭そうとするが、少副司は眉を寄せ、怒りで爛々とした目で続けた。
「あの皇子は、我らが姻族になれば力を削げるとでも思っているゆえに、巫女を后にする条件を突きつけてきたのです。どうせ、"依代成らず"の治世は続かないのですから、お隠れになるまで、待てば良いのです」
「どのように? 巫女殿を内に入れることなど、あり得ぬのですぞ」
少副司は、先ほど立ち上がって攻め立ててきた一人を見た。
「西殿。その方の娘は、確か巫女殿の一つ上でしたね」
途端に、その男の顔が強張った。
「まさか、私の娘を后に仕立てるおつもりか」
「他にも分家の娘はおりますが、年格好が最も似ているのは西家の方。そもそも、分家の娘は、巫女殿の身代わりとなるべく者では?」
「何をおっしゃるか……」
声を震わせながらも、男は少副司を睨みつけた。
「アレは、あの"依代成らず"は、巫女殿の顔を知っているのですぞ。たとえ、我が娘を后に差し出しても、巫女殿でないと気づかれますぞ」
「はたしてそうか? 顔を知っているとはいえ、あの皇子は巫女殿を側で見たことはない。いつも、儀式を遠くから眺めていただけです。気の所為で通すことができる」
「しかし、それを許せば縁を結ばぬ掟が破られるのでは? 祁山から娘を差し出すなど、絶対にあってはなりませぬ。貴殿はそれでも、祁山の自覚があるのか?」
副司が、再び割って入ろうという素振りをしたが、少副司は立ち上がろうと腰を浮かした方が早かった。
「ありますとも! 祁山が生き残る道を、私は――」
ピシャンと、笏を几案に打つ音が、大きく響いた。
「少副司、頭を冷やせ」
静観していた兄宗主が、ようやく口を開いた。
「そなたは誰か? 祁山であるならば、目前のモノに囚われるな。我らは天に仕えし者。わずかでも、天の意思を軽んじる行いは、許されぬ」
少副司は、尚も言い募ろうと口を開いたが、兄宗主はもう一度、笏を叩いた。
「武司を亡くしたのは惜しいことだ。しかし、元よりそういう役目なのだ。我らは、天の声を聞く巫女を守る為に生まれたのだ。巫女がいれば、祁山は揺るがぬ。巫女の側を清めるためならば、たとえ多くの命が散っても構わぬ。巫女の前では、武司の命も軽いのだ」
ぴたりと、笏の先が少副司の鼻先を掠めた。
「それが出来ぬなら、そなたは祁山を名乗る器でない。出来ぬのであれば、出ていくがよい」
「そんな……」
少副司はするすると体を小さくし、項垂れた。
「我らは正しいというのに、この苦境に立たされ、何も出来ぬというのですか? なにゆえ、あのような暴挙が許されているのですか?」
しんと静まり返った。皆、何かを堪えるように目を閉じる。
宗主はただ一人、言葉を続けた。
「これは苦境ではない。天の裁量だ。たとえ、我ら祁山が滅ぼされたのならば、天は新しき大君を見限ったということだ」
東殿と呼ばれたあの男は、息を吐き出すと、自らの膝を大きく叩き、背を正す。
「宗主様のおっしゃる通り。我らに間違いなどないのだ。祁山の者として、堂々と構えるべきですな」
「……そうですね。私も、祁山の者として、揺るがない振る舞いをすべきでした」
「そうですぞ? 少副司殿。貴殿は、巫女殿の落ち着きようを見習うべきかもしれませぬな。同じ、十七なのですから」
「時に、件の玉依の巫女様は、何処に?」
副司は、ああ、と頷き、答えた。
「お伝えが、まだでしたね。今宵は火占を行うため、人払いをとのことでしたので」
「左様で……」
幾分か声音が落ち着き、会話が聴き取りづらくなった。
目的の、玉依良の気配のする方へ、足を向けた。
どうして、人はこうも馬鹿なのか。
形も見えぬ、不確かなモノに命を賭けようとするなど。そのお蔭で潰えた先に、何も残りはしないというのに。
(早く、手放してしまえばよいものを)
己の腕の中で、曖昧に笑う玉依良の顔がちらついた。
役割として生き、使われる道を選び続けることを、選ぶというのか。
(それにしても、今日は具合が悪いのか?)
玉依良の気配が、いつもに比べ、やけに薄い。気配のもとが辿りづらい。
満月の光が、夜を煌々と照らす。今宵は、やけに月が大きく浮かんでいる。
――大君の祖は日から降り、祁山の祖は、月から降りてきたのです。この地でお役目を終えられた先の宗主や、古の祁山の者たちは皆、月へ帰っていったのです
いつか、あの子どもに語っていた玉依良の口調が、蘇った。
――お役目を終えた者が、迷うことなく月へ帰られるよう、お迎えに来てくださることもあれば、道を確かめるために、こちらへ足を運んでくださることもあるのです
嫌な想像が浮き上がった。
足を早め、近づいているというのに。奥から流れる玉依良の気配は、少しずつ弱まっていく。
奥間に、火が一つ灯っている。瞬きの間さえ惜しくなり、壁をすり抜け入った。
「玉依良」
名を呼ぶと同時に、床へ倒れ込んだ姿が、目に飛び込んできた。
「っ……! 馬鹿がっ……!」
抱き起こした身体は、軽かった。手足は冷え切り、血の気が失せている。首筋に指を当てると、脈はある――弱く、途切れそうに。
近くに、小さな紙切れが転がっている。それを鷲掴み、鼻に近づけると、兜菊のような匂いが、鼻をついた。
蒼白い頬を撫で、もう一度名を呼ぶ。
「玉依良、起きろ」
まぶたが、わずかに震えた。
ゆっくりと、まるで重い石を押し上げるように、まぶたが開かれていく。
「……きりさめ?」
掠れた声が返ってきた。頬に残る、涙の伝い跡を拭うも、驚くほど冷えていた。
「本当に、霧雨?」
「言っている場合か?」
なぜか、その答えに玉依良は、頬を静かに緩めた。
一つ息をつき、小さく口をそっと開きかけたその時、外から小さな足音が聞こえた。
玉依良の顔が、一瞬で強張る。
「玉依さま。おはしますか?」
無邪気なあのガキの声。玉依良の手が己の袖を、ぎゅっと掴んだ。
「今宵の月は、とても大きゅうございます! 一緒に見ませぬか?」
その声に、わずかに緊張を緩めたが、玉依良はそれでも、戸の向こうをじっと見つめながら口を開いた。
「若松。今宵、私はここを、出られませぬ」
玉依良の声は、穏やかだった。だが、掴む指はわずかに震えている。
「今宵の月は、遠つ御祖が大勢、足を運んでくださる。私は、そのお迎えをしなくては、なりませぬ」
息を吸う。浅く、苦しげに。玉依良の額を、冷や汗がそっと伝った。
「迎え人ではない者が、遠つ御祖を見てしまうと、永遠にこちらへ、降りていただけぬ」
もう一度、息を吸うと、細い指が、己の袖にすがりつくように食い込む。
「故に、私は今宵、一人でなくてはなりませぬ」
声がわずかに震えかけたが、玉依良はそれを飲み込む。
「教えてくれて、ありがとう。またいつかの誘いを、待っておりますよ」
「承知いたしました……なら、明日、必ず遊んでくださいますよう」
小さな足音が、遠ざかっていく。廊下を駆ける音はやがて、聞こえなくなった。
途端に、裾を掴んでいた手が、力を失った。
玉依良の身体が、ぐったりと己の腕の中に沈む。支えを失った草花のように、四肢から力が抜け落ちた。
「なぜだ、玉依良」
玉依良は、至極単純なその問いに、わずかに口元に笑みを浮かべた。
「捨てられぬ、から。私は、祁山に縛られ、祁山に縋っている。今の祁山は、私に縛られ、私に縋っている……だから、一人で柵を絶つしか、思いつかなかったの……」
まばたきをする度に、その脇から涙が一雫、零れ落ちていく。
「でも、霧雨の顔が、浮かんでばかりで……」
声が、途切れる。呼吸が、先よりも浅く乱れている。
「幻でもなんでも、あなたがいて、嬉しかった……」
玉依良の顔が、わずかに歪んだ。苦痛を堪えるように、唇を噛む。呼吸が、さらに浅くなる。
冷え切った頬。
震える睫毛。
途切れ途切れでしか吸えない息。
「……苦しいか?」
玉依良は、まばたきを繰り返した。
「苦しいだろう」
ややあって、頷くと息を吸った。わずかにしか息が入らないようだった。
「早く終わらせてやろう……この期に及んで、まだ、苦しい道を選び続けることはない」
爪をかざして見せる。
意味を悟ったのか、静かに笑った。
「ありがとう……」
震えた白魚のような手が、己の顔に向かって伸びる。
それを手にとるも、玉依良はもう片方の腕を伸ばし、己の頭を引き寄せる。耳打ちをしようとしているらしい。
口元に耳を近づけると、玉依良はすっと息を吸い、小さくささやいた。
「私の真名は……あの日、地に記したその通りに、玉依良」
(……馬鹿が)
鬼神に真名を――読み方までは教えなかったものの、字を教えていたなど。真名の扱いには、神事に近い者として気を配っていただろうに。
「あなたが呼んでくれる"たまいら"は、本当の私に、戻してくれる名だったの」
そして今、真名の読みまで渡すという随分な禁忌を、この娘は犯した。
なのに、そんなことを、露ほども構わぬと言わんばかりに、玉依良は柔らかく微笑んだ。
だがすぐ、苦し気に顔をしかめた。先よりも更に、身体を巡る毒は蝕んでいるようだった。
――一刻も早く、終わらなければ。
細い首筋に指を添える。
玉依良の顔が、火の光の元であるにも関わらず、白く浮かんだ。
柵も何もかも、受け入れるかのような目に、遣る瀬無さが湧き出た。
知らずのうちに、添えたその指で、上下する白い首をそっと撫でていた。
「戻ってこい」
言葉が、零れた。
「必ず」
玉依良は、首を傾げた。しかし、分かってなのか、分からぬままなのか、小さく頷いた。
今度こそ、すべてを己に委ねるかのように玉依良はまぶたを閉じた。
首筋に添えた指を起こし、火を照り返す爪を立て――
――そのまま、己は一息に振りおろした。
己の顔半分が、血に染まる。
白い首筋に、深い傷が刻まれている。だが、その顔は穏やかだった。微笑みを浮かべたまま、静かに。
今にも、目を開けそうで。
今にも、声をかけてきそうで。
だが、玉依良は動かない。顔にかかる血だけが、温かい。
まだ命の温もりが残るその骸を抱いたまま、動くことが出来なかった。
部屋には、火の小さく爆ぜる音だけが残されている。
もう二度と、あの穏やかに、朗々と紡ぐ透き通る声は、聞こえないのだ。
「――宗主様! お待ちくださいませ。火占は」
「ととさま! 玉依さまは、一人でいなければなりませぬ、と言っておりました!」
「うるさい! どけ!」
あの宗主の怒鳴るような声が聞こえる。それとともに、木床を踏む、無数の混ざり合った足音が近づいてきた。
己は玉依良を抱き寄せ、緩慢に後ろを振り返る。常ならば、すぐさま身を隠すはずだった。しかし、今はただ、ぼんやりと扉が開くのを眺めていた。
勢いよく開かれた扉から、宗主の険しい顔が現れ――すぐさま、意表を突かれたように見開かれたその目と、ぶつかった。
「――っ!」
「妖だ!」
後ろに控える副司が、大声で叫んだのを皮切りに、奥間に人がなだれ込む。
「鬼神めっ! よくも、玉依を!」
少副司が刀剣を抜き、叫んでいる。
ようやく、己が喰ったか、殺したのかと、怒りを露わにしているのだと気がついた。
灯火を吹き消したのは確かではあるが、自分事のように思えなかった。
刀が振り下ろされたので、玉依良を抱えたまま、身をかわす。
――このまま連れて行ってしまおうか。
その考えが沸いたが、玉依良の顔を目に映すと、それはやはり、出来なかった。
眠るような、穏やかな顔。問うても、もう答えは返らないが、祁山から出ていく気はないと語っていた。
「な、なんだ?」
急激に立ち込めた霧に、視界が奪われた人間は、うろうろと辺りを見回し始めた。
「霧……? 妖術だ! 心せよ!」
己の起こした霧に怯え騒ぐ奴らを横目に、玉依良を柱の側に横たわらせる。
顔にかかった髪の一房を、耳にかけなおしてやる。
赤に塗れているが、眠っているかのよう。
名を呼べば、またあの目で、声で応えてくれるような気が、まだ湧き起こる。
「玉依、どこだ。兄が、私が救ってやる……」
宗主の声が近くからしたので、目をやると、すぐ傍まで、ふらふらと歩いてきていた。
霧で何も見えていないはずだが、己の気配をたどって来たのだろう。
己の目の光に気がついたのか、はっとしたように立ち止まり、奴は腰の剣を、抜き取った。
玉依良の傍を、汚させる気はない。
眠るその横顔を最後に目に焼き付け、部屋をすり抜ける他なかった。
しばしの間を置いて、再び騒ぐ声が聞こえる。力を解いたお蔭で、よく見えるようになったのだろう。
「鬼神を追え」との怒声とともに、あの宗主や副司とやらの、喚き叫ぶ声が聞こえる。
今更湧いたのか、以前より抱えていた兄弟の情であるのか、失った悲しみであるのか。何であれ、つい先ほど整えた髪が、騒ぎで乱される羽目になっているであろうことに、顔を顰めざるを得なかった。
――捨ててしまえばよいのに。
もう死んだというのに、未だ縛られ続ける玉依良は、いつになれば解放されるのだろうか。
胸の内の燻りを抱えたまま、屋敷を後にした。
*用語解説
【火占】……火の力を利用して、神の意志や物事の吉凶を占う。
【真名】……隠している本名。他人に真名を知られることは「自分の命や魂の支配権を相手に握られること」を意味するため、通称を使い本名を隠す避諱をしていた。
目に留めていただき、ありがとうございます。"月へ"にて、「月の柵」前半終了となります。
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次回更新は、6/27 12:00を予定しております。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。




