雲を乞う
築地塀をいくつかするりと抜け、白い玉砂利の敷かれた小さな庭に出た。
あれから一月ほど、玉依良の音沙汰がない。
病にでもかかっているのだろうかと、興味が湧いたので、玉依良の気配を辿ると、御所に近い、丘の上に建つ広大な屋敷があった。見張りのような人間が、外でうろうろとしていたが、己には関係ない。張り巡らされた塀を通り、中へと進んだ。
最奥の対屋にたどり着くと、見知った後ろ姿が見える。
林にいる時とは違う、白小袖に緋の袴。黒髪を背に流し、膝の上で手を組んだまま、ぼんやりと空を見上げている。
(ひとまず、生きてはいるか)
ただ、来たからといって、何かすることなど、あるわけもなく。このまま立ち去ろうかと考えていると、己の足の下で、玉砂利が音を鳴らした。
びくりと肩が震え、勢いよく振り向いた玉依良と、目が合う。妙な空気が、己らの間に静かに流れる。
しばしの間、目を大きく見開いて固まっていたが、玉依良は息を一つつくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「驚いた……どうやって入ってきたの?」
「……別に」
「一応、神域なのだけど。妖は弾かれるはずなのだけど」
「結界でも、張っているのか? 己には効かなかった、ただそれだけのことだ」
「それって、だいぶおかしな事なのよ。やっぱりあなたって妖よりも、荒御魂の神に近いのかしら」
表情を緩め笑うが、以前よりもどこか、疲れた色がある。
「随分と、窮屈そうだな」
「そう見えるかしら? そういえば……驚いていないのね」
「何を?」
「ふふっ……知っていたのね……私が祁山の者であることを」
咎めるでもなく、驚くでもなく。ただそう呟くと、玉依良はまた、空へ視線を戻した。
帰る時宜を失った己は、縁側の端に腰を下ろす他なくなった。
「ここ、空がとても綺麗に見えるでしょう?」
玉依良が、ぽつりと呟いた。
「塀に切取られてしまっているから、空がとても映えるのよ」
その言葉は、わずかに冷え始めた空気の中へ吸い込まれていき、沈黙が降り積もる。
風が柔らかに頬を撫で、青い空には鷹が、頭上遥か遠くを飛び、過ぎていく。
隣に小さく座る玉依良も、己も、この風に溶けて消えていってしまうような。妙な気に襲われたが、それに身を任せても、悪くはない気がした。
(何を訳が分からないことを、考えているのだ……?)
砂利を踏む音が、静寂を破る。
玉依良はさっと顔から色をなくし、音の方を向いた。
「玉依の巫女殿。武司でございます」
声の主が、庭木戸を開けたのだろう。気の抜けたような木の音が、耳に入る。
玉依良がはっとしたように、こちらを見た。急に、きょろきょろと辺りに、視線を彷徨わせる。
何かと思ったが、どうやら己がいることを、声の主に知られれば厄介になると、焦り始めたらしい。どこかに押し込もうと考え始めているようだが、一瞬視線が向いた、縁の下に入ることだけはありえぬ。
肩をとん、と軽く叩くと、視線が定まる。
顎をわずかに横へ流し、「落ち着け」と目配せをすると、玉依良はゆっくりと頷いた。
玉砂利の音が、傍まで迫るのと同時に、眼力が強い青年が角から出てきた。武人のような成りをしているそやつは、玉依良を認めると、真っ直ぐこちらへ足を向ける。
「巫女殿」
そやつの声に、玉依良はゆっくりと振り向く。
「おや……お一人だったのですか?」
「……何か?」
「いえ。話し声が、聞こえたような気がしたので。誰かといらっしゃるのかと」
「そうですか……」
玉依良の、唾を飲み込む音が聞こえたが、こちらに視線を寄越すことなく、平静を保っている。
すぐ隣にいるはずの己が、武司と名乗った奴の目に映っていないことを、理解したようだ。
「今日は、どうしたのです?」
「宗主より、言伝をお預かりいたした。明朝、皇子の元へ参上するとのこと。心づもりをしていただければ」
「そう……ありがとう」
玉依良が淡々と返す。しかし、武司は立ち去ろうとしない。
「何か……?」
「いえ……」
武司は、しばし百面相を繰り返していたが、しばらくの後に口を開いた。
「巫女殿は、あの皇子が真に、日嗣の御子にふさわしいと思すか?」
玉依良は、首を傾げた。
「それは、どういう……」
「あの御方は、強くあらせられぬ。天の思し召しの通り、即位なされたとて、あちらの皇子に取って代わられてしまうと、私は思うのです」
聞こえぬほどに小さく息を、玉依良はついた。しかし、武司を真っ直ぐ見据え、声を低めて言った。
「占がそうだというのだから、いずれ占の通りになる。あちらの勢力が強いからといって、それが最善ではない。皇子の世が良いと出た以上、それに従うまで。我らの迷いなど、占の前には意味がない」
唾を飲むように、武司の喉仏が動いた。
「……我が不明にて、過言を申しました。お許しください」
そして、奴は膝をついて頭を下げた。
一瞬、玉依良の目の色が沈んだような気がした。
「……近頃は、随分と騒がしい様子。外との繋ぎもさぞ、気疲れすることでしょう。くれぐれも無理はせぬよう」
「お心遣い、痛み入ります。玉依の巫女殿も、ご無理なさらず」
武司は、数歩下がって一礼する。踵を返し、元来た道を辿っていった。
後ろ姿が見えなくなり、庭木戸の音が聞こえた。
その途端に、玉依良はこちらを振り向く。
「どうなるかと思ったわ……あんなに気配を綺麗に消せるなんて」
安堵したのか、ため息を吐きながら言った。
「……お前と違って、鈍かったからな。あの程度で誤魔化せる。並の人よりかは霊力もあったようだが」
「そうね……弓彦兄さまは、外との橋渡しの役だから」
「兄さま……? あれはお前の兄なのか?」
随分と祀り上げられている様子から、ただの武人ではなく、一族の人間だろうとは思った。が、それほど近い者とは思わなかった。気配も顔も、霊力も、似ていない。
「そうよ。兄さま、といっても歳は同じだけれど。私より、三月早く産まれたから」
続く言葉に、疑問が膨らむ。今しがた聞いた言葉を頭の中で反芻するが、不自然さが浮き彫りになる。
「……人間は十月十日、母親の腹に宿るのではなかったのか?」
玉依良は意図を測りかねているのか、まばたきを暫し繰り返していたが、ややあって、納得したように頷いた。
「ああ……祁山の本家の出の者は、皆、違う母から産まれてくるの。だから、兄弟皆、母親が違う。母という存在はいないの」
「……この家の、独自の仕組みなのか?」
玉依良は小さく微笑むと、頷いた。
「外からの介入を防ぐ為なのよ。姻族は、祁山にとっては不利益しかない。大きな力を持っているから」
「……母親が違うことが、どうやってその介入を防ぐんだ?」
玉依良は言葉を探すように、縁側の床板模様に視線を落とした。
「五年に一度、占に選ばれた何処の貴い三人の女人が、祁山宗主との子を産むの」
言葉を続けながら、玉依良は木目に指を滑らせる。
「腹の中では母と子。けれど、外に腹から出れば他人になる。女人はすぐに実家へ帰り、二度と親子として会うことはない。誰が己の子なのかも、知ることはない。そう決められているのよ」
杢の渦を、細い指が踊る。
「正直、恋しさや寂しさはないけれど……母というものを、知りたかったとは思う。あの子たち――市井の子を見ていたら、そう思ったの……」
渦の上の指は次第にゆっくりとなり、止まった。
百舌鳥の甲高い声が響く。
「……林の子たちは、元気かしら」
百舌鳥の声が途切れる。
しんと静まり返ったその空に、百舌鳥が蹴った梢が、バサバサと不躾な音が鳴る。
玉依良は、その音に突き動かされるように、勢いよく縁側に立ち上がった。
緋色の袴が、昼の光の中でわずかに揺れる。
「久しぶりに会えて嬉しかった。会いに来てくれてありがとう。霧雨」
玉依良は微笑んだ。しかし、それは明らかに繕ったものだった。
「……そういうわけではない」
「ふふっ……でも、ありがとう。また来てくれたら嬉しいわ……私、そろそろ湯浴みの時間だから」
玉依良は背を向けると、屋敷の木扉の奥へと逃げるように身を潜り込ませた。
急に、線を引いたようなその振る舞いが、妙に映った。喉奥に小骨が刺さっているような感覚が、なぜか残った。
*
禿げた田畑が広がる。色のない景色が、冬の始まりを告げていた。
あれから、林ではなく屋敷で顔を合わせるようになったが、その度、玉依良が子どもらのことを気にするので、少し覗きに来る羽目になった。寒くなったせいか、人の姿が疎らになり、あまり見当たらない。
「あれ……霧雨?」
背後からの声に振り向くと、藁束の上から覗く目と合った。
「久しぶりだな。遊びに来てくれたのか?」
鼻先に土をつけ、白い息を吐きながら、満面の笑みでこちらにやってくる。いつか、林で隠り遊びをしたうちの、数人だった。
「そういえば、霧雨って一体何者?」
「祁山の巫女さまと、なんでお友達なの?」
わらわらと纏わりつき、甲高い声で口々に話す子どもに、目眩を覚える。
「祁山の巫女さまは、元気?」
「皇子さまと、祁山のお家が戦するって、ほんと?」
「知らん」
煩わしく突き放したが、子どもはまだ食い下がる。
「だって、とと様たちが言っていたよ。祁山の御仁が、血まみれで御所から帰ってきたって」
「なんか、新しい大君に誰がよいか、皇子さまと祁山のお家が、喧嘩しているって。みんな言っているよ」
「あと、ちょっと前にね。皇子さまが一人、都落ちしたんだって」
「知ってる! 磐上の皇子様でしょ?」
「えっとねえ。倉持の皇子様の方がお力あるけど、祁山のお家は、磐上の皇子に大君になってほしかったんだって」
「霧雨は知らないの?」
息が一瞬の隙に止まった。
「それ、いつの話だ?」
「えっとねえ。いち、に、さん……だから、一昨々日の夜だって!」
最後に玉依良と会ったのは、一昨々日の昼。
また、いつものように用があるからと、暗に「帰れ」と言われて後にした。
(御所に行ったのか? まさか……)
「噂だと、死んじゃったのは宗主さまだって」
女の童が、腑抜けた笑みを浮かべた。
「だから、巫女さまは生きていると思うよ? 大丈夫」
ガキのくせに、何かを知ったような口ぶりに、苛立った。
背の低い囲いを抜け、小高い丘へ進む。ガキどもの視界から、消えてからでなければならない。
「巫女さまに元気でね、って伝えて!」
「遊べなくても、ずっと、巫女さまのお話が好きって!」
「結局、霧雨って何なの?」
口々に騒ぐ奴らから離れようと、足を速めて陰に隠れる。
溜め込んでいた息を吐き出す。やはり、あのうるさい声は嫌いだ。
*
祁山の屋敷の塀をすり抜けると、噂の通り、中は武装した人間に溢れていた。
(気配はある……)
奥から、玉依良の霊力が流れてくる。ただ、死の臭いも確かに臭っている。
気配の元まで一飛びすると、薬草の匂いに満たされた部屋にたどり着いた。
中央に敷かれた布団の上に寝る人間と、一つに結わえられた、玉依良の垂れ髪があった。
「玉依良――」
声をかけるのと同時、その背中が大きく揺れ、崩れる。咄嗟に手を伸ばし、床板に頭を打ちつけるところは、防いだ。
顔を覗き込むと、玉依良の伏せられた目がゆっくりと開き、黒目がこちらを捉えた。
どうやら、うたた寝でもしていたらしい。玉依良は慌てたように、己から距離をとると、胸をなで下ろした。
「来ていたのね……」
小さく微笑んだが、なぜかいきなり顔をこわばらせ、自らの袖周りの匂いを嗅ぎ始める。
「なんだ……?」
「だ、だって……! なんでもないわ」
なぜか顔を火照らせ、髪を撫でつける。
妙な行動の意味はさっぱり分からない。だが、玉依良の目の下には、影が出来ていた。
「面倒ごとにでもなったようだな」
玉依良の顔から、ゆっくり血の気が薄れていく。
「ええ……話をするなら、場所を変えましょう。弓彦兄さまが、起きないように」
玉依良はゆっくり立ち上がると、水を張った木桶を抱えた。
寝ているのは、宗主とやらの骸かと思っていたが、よく見ると、武司と呼ばれていたあの男だった。青い顔をしているが、息をしているので、死んではいないらしい。
説明を急かすつもりはなかったが、結局そうなってしまったらしく、なんとも言えぬ心地が広がった。
玉依良の後ろに続こうとしたその時、別の霊力がこちらへ、近づいてくるのが分かった。気配を消すと同時に、木戸が勢いよく開かれる。
「玉依!」
深紺の狩衣を着た青年が、険しい顔して入ってきた。
「どうかされました?」
一拍置いて、玉依良は静かに答えた。
こいつは、己の気配に勘づき、慌ててやってきたのだろう。しかし、気配を潜めてしまえば、己の姿を捉えることは出来なかったのか。視線を彷徨わせると、玉依良に目を向けた。
「誰かいなかったか?」
「いいえ……」
「そうか……すまぬ。気の所為だったようだ」
青年は、ちらりと武司に目を向けた。
「武司の熱は下がったか?」
「ええ。今は落ち着いております。煎じた薬草が、よく効きました」
「そうか……さすが、そなたの腕は確かだ」
奴は、再び玉依良に視線を戻した。
「巫女よ。私はこれから、四門衆を伴に宮へ参る。礎の皇子の元へ、後を継ぎ、宗主の任についたことを言上しに参るのだ。磐上の皇子が去られた今、幼くとも占に選ばれた礎の皇子を守らねばならない。その間、留守を頼む」
新しい宗主は平静を装っているつもりだろうが、組んだ腕を指先で繰り返し叩いている。置かれた状況にかなり苛ついているのだろう。
「それは……あの方を、刺激することにはなりませぬか?」
「先の宗主を殺した程度で、祁山の意思が変わると思うほど、痴れ者ではないだろう……とは言い難いな。しかし、我らは筋を通しておることを、知らしめねばならぬ。顛末を隠そうと、やけになっている間に」
「そうですか……分家の当主の方々がご一緒であれば、以前のようなことには及ばないでしょう。くれぐれもお気をつけて」
宗主は頷き、ついでに、再び視線を部屋に彷徨わせると、足早に部屋を出ていった。
「ひとまず……私の棟へ」
玉依良は俯いたままそう口にすると、今しがた奴が出ていった通り口を抜けた。
「あれも、お前の兄か?」
いつもの一郭に入ったので訊ねると、玉依良は小さく笑みを浮かべた。
「そう。よく分かったわね」
「気配が似ていた。あの、寝ている奴よりも」
「そうね……」
少し考えるように、目を伏せた。
「祁山本家の人間は皆、命占で出た、その役割だけを渡されて育てられるの。宗主となるべく嗣子、それを補佐する副司。一族の差配役を担うための少副司。外との橋渡しと守りを担う武司。そして私は、最も天に近い者として神言を聞くことに全てを捧げる巫女」
庭へと回ると、隅に生える小さな野草に、玉依良は木桶の水をこぼし、続けた。
「嗣子と巫女は特に、要として役目を教え込まれるから。余分なものを持たないところが、真彦兄さまと私は、似ているのかもしれない」
玉依良は、空になった桶を隣に置きながら、縁側へ座った。いつの間にか、林の木から定位置に変わったそこに、己も腰掛ける。
元より静かな場所であったが、今日はやけに静まり返っている。代わりに少し遠くから、奏楽の音が聞こえてくる。
「先の宗主の、送り儀をしているの」
玉依良は己の内を悟ったように、そう呟いた。
「倉持の皇子と、押し問答を繰り返していて……逆上して、斬られたのですって」
「……盗賊ならともかく。なぜ、皇子に斬られるようなことが起こる?」
「分かろうとしない御方だから、かしら……?」
玉依良は、嘲るわけでもなく、困ったように首を傾げた。
「"依代成らず"の御方を、大君に推すことは出来ないというのに。しきりに祁山の後ろ盾を求めてくるのよ。祁山は、政に介入はしないけれど、神事をすべて取り仕切る。大君にとって、神事はなくてはならないから」
空を眺めながら、玉依良は静かにため息をついた。
「倉持の皇子と比べて、母君の血筋が劣るけれど。磐上の皇子は、大君になるには申し分なかった。先の大君も、ご納得してくださっていたのだけれど……」
「ああ……都落ちしたとか、あの小童たちが話していた」
「え、あの子たちに会いに行ったの?」
途端にこちらを振り返り、随分と嬉しそうな顔になった。
「たまたま、だが……」
「そう。元気だった?」
「うるさかった……話の腰を折るな」
「ごめんなさい。えっと……そうね。あの方が、賜姓降下を宣言されて……再占の結果、適すと出た礎の皇子を、日嗣の御子に推すことを決めたのだけど……」
「押し問答の末、お前の父親が斬られた、ということか?」
玉依良は、静かに頷いた。
「武司がお伴していたのだけれど……傷を負って、先の宗主の骸を抱えて帰ってきたの。かすり傷だったのだけど、熱が出てしまって。送り儀の穢れに、近づけるわけにはいかないから、私の傍に……」
鳥の声が、静かに響く。その声の近さが、奏楽の音の遠さを、余計に引き立てた。
「お前が、送り儀に行かないのはなぜだ? お前の、兄宗主も」
「……私は、穢れに近づいてはいけないのよ。宗主も私も、そういうものからは、いつも遠ざけられている。そういった……穢れに近くなるものは、代わりに副司と少副司が担うの」
玉依良は、再び空をぼんやりと眺め始めた。
嘆いてはいるようだが、死を嘆いているようには、あまり見えぬ。
「お前は、何に憂いている?」
玉依良は、唇の端をわずかに持ち上げた。
「そうね……今、心が想像以上に動いていないこと、かしら……」
俯きながら、今にも消えそうな薄く、暗い笑みを浮かべた。
「先の宗主は、私の父上なのに……悲しくないといえば嘘だけど。悲しいと言っても嘘なの。やっぱり、私は……」
その先を、口にすることをやめたらしい。言わんとしていたことは、なんとなく分かる気がする。あまり聞きたいとは思えぬ言葉を、その先を、促す気にはならなかった。
再びの沈黙は、場を重く押しつぶした。
昼の月が、空の青に透けるように浮かんでいる。遠くの奏楽の音は、未だ鳴り続けていた。
小さな砂利音が、近くで鳴った。
「玉依さま! 若松でございます!」
気の抜けたような、庭木戸を開ける音が聞こえた。
「玉依さま、おはしますか?」
先の真彦というやつと、よく似た気配が近づいてきた。
「こちらにおりますよ」
玉依良が静かに答えると、軽い足音がこちらへと、まっすぐ向かってくる。
「……誰だ?」
「嗣子の候補……送り儀から遠ざけられていて。今は、私の近くで過ごしているの」
角から小さな頭が覗いた。
「玉依さま!」
顔も、あの兄宗主をそのまま縮めたようなガキが、満面の笑みでこちらに近づいてきた。が、己に目を留めるとさっと顔をこわばらせた。
「そちらの御仁は、どなたでしょうか」
玉依良がゆっくりとこちらを振り返り、驚いたように目を見開く。
「……大事な、お客人です」
まさか、己が当然のように、気配を消すものだと思っていたようだ。玉依良は小さく息をつくと、ガキの方に向き直った。
「……身分を隠されている方なので、決して、ここでお会いになったことを、口にしてはいけませぬ。祁山を継ぐ者として、必ず秘密を守りなさい。良いですか? 若松」
「承知いたしました、玉依さま」
ガキは恭しく頭を下げたが、すぐ先の満面の笑みを浮かべ、玉依良にまとわりついた。
「弓彦叔父さまは、治りましたか?」
「武司は少しずつ、良くなっておりますよ」
「そっか。治ったら遊びに誘ってみようかな……ねえ、玉依さま。隠り遊びをまたやりませぬか? とても楽しくて、もう一度やりとうございます! もしよろしければ、そちらの兄君も!」
ガキがこちらを、きらきらとした目で見て言った。いつかの、ひどく覚えのある状況に嫌な予感がした。が――
「そうね……しかし、若松。今日は出来ませぬ」
他でもない玉依良に救われることになった。
「玉依さま。なにゆえでございますか?」
「今は、先の宗主の送り儀の最中です。穢れから遠ざけられた身であっても、お見送りは心中でせねばなりませぬ」
「でも……何もすることはないではありませんか。弥彦伯父さまと、悠彦叔父さまはあるけれど」
「あくまでも、副司と少副司は私たちの"代わり"に送り儀に出ているのです。代わりが送り儀に出ているのであれば、私たちも送り儀に出ているのと同義なのです」
ガキは、明らかに不服そうな顔をしたが、渋々と頷いた。
「それから、若松……弥彦伯父さまではなく、副司。悠彦叔父さまではなく、少副司とお呼びなさい。弓彦叔父さまも、武司に改めること。公の場ではそのように呼ばねばなりません。今のうちに慣れなさい」
「はい……しかし、私はどのように、旅立たれる先の宗主さまを、お見送りすればよろしいのですか?」
玉依良は二、三度ゆっくりと瞬きをした後、再び口を開いた。
「若松。祁山の祖は、どこから来たのか。傅役からは既に、教わりましたか?」
「いいえ……まだです」
「良いですか。大君の祖は日より降り、祁山の祖は、月から降りてきたのです。この地でお役目を終えられた先の宗主や、古の祁山の者たちは皆、月へ帰っていったのです」
「では……先の宗主さまは、あそこへ帰られるのですか?」
ガキは空を指さし、言った。
「ええ。今、あの月へお帰りになっているのです。送り儀には出ずとも、帰られる姿は見守らねばなりませぬ」
大人しく月をじっと見つめ、ガキは呟いた。
「玉依さま。なぜ、月は欠けたり、満ちたりするのですか? 遠つ御祖の、暮らす場所がなくなってしまう日も、あるのではありませぬか?」
玉依良は少し肩を震わせ笑った。そしてガキの顔を覗き込む。
「心配はいりませぬ。月が見えぬとも、遠つ御祖は確かにそこにいらっしゃるのです。こちらからは、欠けているように見えても、確かにそこにあるのですよ。月の満ち欠けは、遠つ御祖が、こちらへお越しになるための道を、大きく開いているか、否かで決まるのです」
「では……月が満ちている日は、遠つ御祖が地上へ降りられているのですか?」
「ええ。お役目を終えた者が、迷うことなく月へ帰られるよう、お迎えに来てくださることもあれば、道を確かめるために、こちらへ足を運んでくださることもあるのです」
ガキは頷きはしたものの、随分としょげた顔つきになった。ちらちらと、玉依良と己をしばらく交互に見ていたが、小さく息をつくと頭を下げた。
「……私は、嗣子になるべく者として、軽々しき真似をしてしまいました」
「いいえ……自らを省みることが出来るのであれば、あとは前へと進むのですよ」
「お言葉、痛みいります。お見送りに心を入れることとしますので、今日は屋敷に帰ります。また参ります」
ガキは頭を下げると、走って庭を抜け――その前に、こちらをくるりと振り返った。
「またの折に。お客人の兄君」
弾けるような笑みで礼をすると、今度こそ走って抜け、庭木戸の間抜けな音を残して、遠ざかっていった。
(どの身分のガキも、一緒だな)
玉依良が大きく息を吐き出し、こちらを訝しげに見た。
「霧雨、なぜ……?」
姿、気配を消さなかったことが、相当不服らしい。
「あの宗主よりか、鋭い奴だったから。隠しても意味がない」
建前が口をついて出る。
正直、完全に気配を消そうと思えば、いくらでも出来るが、何度も途中割って入られるのは、良い心地がしなかった。当然のようにそれに甘える玉依良にも、わずかに腹が立った。
あまり納得してはいないようだが、玉依良がそれ以上責めてくることはなかった。
雀の、乾いた小枝を折るような、短く小気味よい鳴き声が聞こえた。
「……そろそろ、様子を見に行かないと」
いつものように、「帰れ」の合図らしい。
「武司の、様子をっ――」
玉依良はゆっくりと腰を上げたが、ぐらりと、また大きく身体が倒れた。
地に伏せる前に引き寄せたが、ずいぶんと体が冷えているようだった。
「お前……病じゃないだろうな?」
「違うわ。最近、あまり眠れなくて……」
玉依良はぼうっと、足元を眺めている。
「行かなきゃ……」
「別に……小間使いの一人や二人さえも、近くにいないことはないだろう。行っても、奴の隣で寝そべるくらいしか出来ないぞ」
「そう、ね……」
淡く掠れた呟きが、静かに消え入る。玉依良の頭が己の肩口に、とんと預けられた。
「ねえ、霧雨……私、臭くない?」
「……は?」
とうとう、頭がおかしくなったのかと思ったが、元より変わった人間だったことを思い出した。
「別に……草と香の匂いはする」
「そう……なら、しばらく、このままで居させてほしい……」
「……勝手にすればいいだろう」
玉依良は小さく微笑むと、ゆっくりと身体の力を抜く。載せられた頭は、ゆっくりと重みを増していった。
いつの間にか、奏楽の音は途絶えている。ただ静かに、風が鳥の音を、遠くへ運んでいく。
「この風が、運んでくれたなら……」
玉依良がぽつりと、腕の中で呟いた。
「私を、どこか……誰も私を知らないところへ、連れて行ってくれたなら……」
膝の上に置かれていた白い手が、引き寄せられるように、ゆっくりと、昼の月へ向かって伸びていく。
指先が、青い空の中の白い月を、そっと掴もうとするように。
――見たくない。
ただ、それだけだった。その手を掴み、下ろさせた。
玉依良は食い入るように、己によって妨げられたその手を、呆然と見つめる。
ここに居ながら、そこに居ない。哀れな娘。
そっと、玉依良の耳元に口を寄せ、囁く。
「……連れて行ってやってもいいぞ」
覗くと、玉依良の瞳は大きく揺れていた。己の方へ顔を振り向け、何かを口にしようとしたが――柔らかく微笑むだけで、結局口にすることはなかった。
玉依良は、再び己の肩に頭を預け、青空の月を静かに眺め始めた。
――手放してしまえば良いものを。
そう思えど、己もそれを、口にすることが出来なかった。
*用語解説
【対屋】……「寝殿」の東・西・北に配置された独立した建物。
【宗主】……一族の中心となる長。
【嗣子】……宗主の後継者。
【皇子】……大君の血を引く男子。
【日嗣の御子】……皇位を継ぐべき皇子
【武司】……外との橋渡しと守りを担う、祁山本家の男子。宗主、巫女の護衛などを務める。
【副司】……宗主の補佐役を担う、祁山本家の男子。宗主や巫女に代わり、穢れを引き受ける。
【少副司】……副司の補佐役を担う、祁山本家の男子。宗主や巫女に代わり、穢れを引き受ける。
【命占】……生まれた年月日や時間・場所を基にし、その人物が生まれ持った宿命や運勢、才能を占う手法。
【四門衆】……祁山分家(東、西、南、北家)の当主たち。
【送り儀】……葬式
【依代成らず(よりしろならず)】……神を降ろす、すなわち大君になることに適さない人物。倉持の皇子のことを指す。
【賜姓降下】……皇族がその身分を離れ、名字(姓)を賜って一般の臣下になること
【荒御魂】……神の霊魂が持つ「荒々しく、時に天変地異などを引き起こす荒ぶる側面」のこと。正しく祀ることで、強い守護力に変わるとされている。
【遠つ御祖】……はるか遠い先祖や一族のおおもととなる神々のこと。
【傅役】……高貴な身分の子どもに付き添う教育係




