影を宿す籠鳥
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして(在原業平)
バルコニーの小さなテーブルに煙草盆を置き、脇の椅子に腰を掛けた。
「ハッピーバースデー、トゥーユー……」
小さく掠れた声が、微かに聞こえる階下の喧騒に、紛れて消えていく。
「ハッピーバースデー、ディア、珠依……ハッピーバースデー、トゥー、ユー……」
生まれた日にはこれを歌うのだと、毎年のように、この歌を強請っていた彼女はもう、隣にいないというのに。
あの村を去ってから、六年が経つ。一人でこの歌を歌うのは今日で六度目となった。
霧生響――その名を捨て、新しい戸籍を買い、ペンネームを変えて都会の人混みに紛れた己は、薄い三日月をぼんやりと眺める。
――十八年前の今日、珠依を交番の前に置いたのは……あなた、ではありませんか?
六年前のあの朝――珠依の高校卒業式の日のことを、静かに思い出した。
彼女の養父となった警察官は、あの村を去る際、そう尋ねてきた。
──ずっと、腑に落ちなかった。珠依の実母が、例え、心中の前に心変わりしたとしても、出産直後の女性が、交番まで運転した後、山中に向かうなんて。死を渇望した人間に、そんな気力があったのだろうか、と。
どこかふわついていた奴だと思っていたが、わりかし鋭い頭を、持ち合わせていたらしい。
――あなたはまるで、珠依と共に……珠依のために、現れたようだった。あなたは最初から、ひどく珠依に、心を割いていた。ただの子ども好きとは、説明がつかないほどに。だから……
おずおずと訊ねる人間に、知らずのうちに片側の口角が上がっていた。
──あまり、面白くない冗談ですね。仮にそうだったとして、それを知ってどうするおつもりで? 『お前は、母親に殺されるところだった』とでも、あの娘に言うつもりですか?
気で脅しをかけてやろうかと思ったが、思いとどまった。
例え、内心でどう思われていたとしても、珠依の前から去るために、『普通の人間としての死』は必要だからだ。
──冗談ですよ……珠依によろしくと、お伝えください。今まで、お世話になりました。
――本当に、行ってしまわれるのですか? せめて、珠依に一言……
――彼女には、あの古民家に残した物で十分ですから。
呼び止めようと食い下がってきたが、軽く一礼し、その場を立ち去った。
『普通の人間としての死』を得るために、『霧生響』の名も捨てなければならない。
真の名と音が似たこの名を、実のところ気に入っていた。捨て難かったが、あの娘の未来を考えれば、『霧生響』は死ぬべきだった。
のろのろと一人、煙管に火を灯す。火が夜風に触れ、ふわりと揺らめいた。
――嘆くお天道様を、お慰めしたい。そう考えた優しきお天道様の御子は、地上へ降り、火となりました。
遥か昔の懐かしい声――玉依良の声が、久方ぶりに脳裏へ蘇った。
煙管の煙が、細く立ち昇る。その煙の先に、遥か昔の時間が、ゆっくりと広がり始めた。
*
今は誰も知らぬ、昔の話。
人間の都が移り変わっていた時代。
現代人が創造する鬼が、概念として確立する前のこと。
鬼神として恐れられていた己は、『霧雨』と呼ばれていた。
妖気が強いものの、常世のモノとしては珍しく、血の気が多くない。そんな己は、浮いた存在であったのだろう。
しかし、玉依良――祁山の巫女であったその娘は、己とは比べ物にならないほど奇妙で、憐れな娘だった。
雨がしとどと降る中、かん高い声が聞こえる方へ、足を向ける。
ぼんやりと座っていたが、人の声が煩わしく、興が冷めたのだ。複数の高い声が耳障りで、普段、人を害することなど滅多にないが、林から出ていくよう、脅すつもりだった。
「――じゃあ、火の話! 優しい火の話をして!」
「いいよ。じゃあ、お話しの始まり、始まり――昔むかし、そして今も、お天道様は地上を照らしております」
子どもと、女の声。少し脅かせば、すぐ帰ると思った。
「ある日のこと。お天道様は、雲の隙間から地上を見ると、たいそう驚かれました。地上に暮らす者が、寒さに凍えていたのです。お天道様は温めようと、明るくお体を煌めかせましたが、その熱が地上に届くことは、ありませんでした」
しかし、この聞こえてくる奇妙な話に、近づくにつれて引き込まれていった。
「お天道様は、たいそうお嘆きになりました。『私は天にいる。故に、地上の者を温めることが出来ぬ。冷えて苦しんでいるというのに、私はここから動けぬ』と」
樹の下で、雨から身を守るように体を寄せ合う、人間たちが目に入った。
「悲しむお姿を見られた、優しきお天道様の御子は、地上へ降り、火となりました。火は、お天道様のように優しく、寒い者を温め、暗い夜を照らし、温かい食べ物を生み出しました」
顔を泥だらけにし、襤褸布を纏った子どもたちの群れ。
その中央に、薄紫の単に白袴を着た娘が、座っていた。庶民にしては豪奢、高位の者にしてはあまりに軽装な恰好。
「火はお天道様のために、人々を救いました。しかし火は、次第に寂しく思うようになりました。大好きなお天道様と、離ればなれであることが、哀しくて仕方なくなってしまったのです」
白肌に艶のある黒髪の娘。どう見ても、高位の家の者であり、下々の者の中で微笑む、その姿が異質であることは、疎い己でも分かった。
「人は、そんな哀しむ火の姿を見て、決まりを作りました。火がいるときは、寂しい思いをさせぬよう、側に居ようと。それからというものの、人の側にいる火は、お天道様に会えぬ寂しさを、紛らわせることが出来ました。こうして人と火は、深い絆を築くことが出来ましたとさ。おしまい」
娘は、子どもたちに微笑んだ。そして一人の子どもの顔を、覗き込む。
「きっと火は、側にイノマロがいなくて寂しがっている。だから、かか様に火の番をお願いされたら、必ず側にいてあげようね」
「うん……分かった」
返事をした子どもを見て、娘は満足げに頷いた。
「雨が上がってきたね。今日はおしまい。皆、お天道様がお休みになる前に、お帰り」
「はーい。ねえ、巫女様。明日は? 明日もいる?」
「そうね、明日はちょっと難しいかも……明々後日ならいるわよ」
「そっかあ……じゃあ、明々後日来てね」
「うん、分かったわ。もうお帰り」
口々に挨拶をし、娘は、村の方へ向かっていく子どもの後ろ姿が見えなくなるまで、見つめ続けていた。
「お話、楽しんでくれました?」
娘が突然、そう口にした。明らかに、それは己に向けた言葉だった。
少し驚きはしたが、妙に納得している己がいた。娘からは、他の人間とは違う、輝くような霊力が放たれている。常世のモノがよく見える娘なのだろう。
一歩踏み出すと、かさっと落ち葉の擦れる音が響いた。娘はこちらを振り向くと、少し驚いたかのように、まばたきを繰り返した。
「あら、こんなに綺麗なあやかしさんだとは、思わなかったわ」
静かに微笑みながら小首を傾げ、娘は楽しげに問いかける。
「黒い角の、綺麗なあやかしさん。あなたは一体、どこからいらしたの?」
娘は、怯えた様子を微塵も見せなかった。
いくら霊力が強いとはいえ、己は並の妖とは訳が違う。少しの恐れを抱いてもおかしくないはずなのに。
「俺を、祓わないのか?」
「まさか。だってあなた、とっても強いでしょう? 私みたいなお飾りの巫女には、何にもできないわ」
娘は、ゆるりと首を振って答えた。
「なら、逃げた方がいいんじゃないのか? 喰われる前に」
「あら、私は喰われてしまうの? でも、静かに私の話を、聞いてくれたじゃない。どう面白かった?」
若い鬼神とは違い、恐れられることを好まない。しかし、ここまで動じない様子には、調子が狂わされる。良い気はしなかった。
「陳腐で突飛な話だった」
酷評に怒り出すかと思ったが、娘は嬉しそうに笑った。
「そう……ふふふ、良かった。また聞きに来てくれると嬉しいな」
娘は手を振ると、村とは反対方向へ歩いていった。
*
三日の後、また林から甲高い声が聞こえた。
大枝に腰掛け見下ろすと、またあの娘が、子どもと群れている。
「じゃあ、私が数えるから、皆隠れてね。いくわよ?」
娘が数を数え出した瞬間、子どもが脱兎のごとく、散らばっていく。林に娘の澄んだ声が響きわたる。
「やっつ……ここのつ……とお……もうよいか?」
「もうよいぞ」と子どもの声が遠くから風に乗って聞こえる。娘は顔を上げ、立ち上がった。
「よし、じゃあ一人目ね……みいつけた」
娘が、こちらをまっすぐ見上げ言った。特に、気配を隠していたわけではないが、本当に感覚が鋭いようだった。
「あやかしさん、あなたはもう見つかったのよ。そんなところにいないで、降りてこないとだめでしょう?」
娘は、袖を大きく振る。
降りなければ、永遠に構われ続けることだろう。大人しくそうするしかなかった。
「わぁ、すごい! こんな高さから、飛び降りることができるのね」
つまらないことに、よくこれほど目を輝かすことが、出来るものだ。
「また来てくれたのね、あやかしさん。今、隠り遊びをしているの。子どもたちは隠れて、私はその隠れている子を探すのよ」
娘は面白そうに笑うと、茂みの中へ分け入った。が、数歩進んだところで、またこちらを振り返る。
「あなたも来るのよ? だって、あなたは私に最初に見つかったのだから」
「そのくだらない遊びに、加わった覚えはない」
「そうなの? でも、見つかったのだから、逃げちゃだめよ。ほら早く。子どもたちを見つけないと」
躊躇いもなく裾を掴むと、己を茂みの中へ引き込む。
木から降りるのは間違いだったと後悔した。
「あら……そこにいるのは誰かしら?」
茂みから出ている小さな頭がびくりと動いたが、娘は迷わずそこへ走り出した。
「トヨ! みいつけた」
はしゃぐ声とともに、娘が女の童を抱き上げた。
「みつかっちゃった、あたしがいちばん?」
「いいえ。このお兄さんが一番よ」
「だあれ? このひと」
「ええっと……」
首を傾げる女童に、娘は困ったようにこちらを見た。
「黒麻呂さん? かな」
「誰だ、それは。霧雨だ」
「だそうよ」
名など答える気は、毛頭なかったのに、答えさせられた。女の童は、こちらの妙な反応に目ざとく気付いたのか、訝しげに睨む。
「……巫女様。ほんとに知っているひと? さっき始めたときは、このひといなかったよ」
「実は居たのよ。トヨたちが隠れる前から、近くに隠れていたの。それじゃ、どんどん探すわよ。トヨも霧雨も手伝って」
それから――――娘と子どもたちに巻き込まれ、己はなぜか、林の中を駆け回った。
「みいつけた!」
「またぁ!」
「あれ……誰? この兄ちゃん」
甲高い歓声が、林に響く。
やがて、全ての子どもが見つかり、陽が西に傾き始めた。
「じゃあ、今日はこれでおしまい。皆、暗くなる前にお帰り」
娘が手を振ると、子どもは口々に叫びながら、村の方へ駆けていく。
「霧雨もまた来てね!」
「二度と来るか」と吐き出した言葉は、なぜか、子どものはしゃぎ声で、届くことはなかった。
子どもたちの声も遠ざかり、林に静寂が戻る。
「ありがとう。一緒に遊んでくれて。あと、角も隠してくれて、ありがとう」
娘はゆるく微笑みながら、続けた。
「あの子たち、あまり気にしないと思うけど、万が一があるし……本当にありがとう」
「そうか。なら覚えておけ。小童どもの世話なんて、二度とやらない」
「ええ……すごく良かったのに。ほら、皆あなたに、懐いていたじゃない?」
尚も言い募ろうとするので、舌打ちを一つすると、娘はむくれたような顔をした。
「いつも、あの陳腐な話をしているわけではないのか?」
娘はゆっくりと首を傾げたが、合点がいったのか、顔を輝かせた。
「ああ! 今日はもう、あなたが来る前に、話しちゃったの。聞きたかったのね、ごめんなさい」
「……お前は、都合の良いものだけ、目に映すのか?」
「今日はね、風の話をしたの。風は神様のお使い。地上に降りられないから、遣わしてくださる。優しく頬を撫でる時は、元気にしているかな? 寂しがってないかな? 心配しているのよ、というお話なの」
「以前に増して、陳腐じゃないか」
貶されているというのに、娘は相変わらず、嬉しそうに微笑むだけだった。
「それはそうと、あなたは霧雨というのね。昔、小さな妖さんが『霧雨という、とんでもなく強い鬼神がいる』と教えてくれたけれど。それがあなたなのかしら?」
「さあな……呑気だな。常世のモノと分かりながら、やけに馴れ馴れしいと思えば。喋り相手にしようと捕まえていたのか」
「そうね。人間のお友達は、作れないと思っていたから……あの子たちは、私の最初のお友達なの」
娘は笑みを浮かべながらそっと目を伏せ、小さく呟いた。
「きっと、もう少し大きくなれば……私の正体を知れば、もう今のようには遊べないと思うけれど……」
時を告げる太鼓が聞こえた。人間が、黄昏時の始まりを知らせる音だ。
「私も、もう帰らないと。抜け出しているのが知られてしまうわ」
娘はそう言いつつ、なぜかその場に立ち尽くす。
「帰らないのか?」
「いや、その……あなたの名前教えてくれたから、私も、教えなきゃと思って」
娘は、近くの小枝を掴むと、地面に文字を書き始めた。
「いや、別に……」
言いかけたが、娘は話を聞く素振りを見せなかったので、言葉を飲み込む。
「私の名前は、これよ。覚えた?」
地面に出来上がった「玉」「依」「良」の三文字を指す。
(なぜ書いた? 別に、口で良かっただろう)
そんなことが当然、頭によぎったが、これ以上ごちゃごちゃ言うのも、面倒だった。
「覚えた、覚えた」
娘は満足げに頷くと、書いた三文字を足で消した。
「じゃあ、またね。霧雨」
*
「なあ、霧雨さんよお。大物中の大物のあんたが、こんなにも、つまんねえ過ごし方をしているなんてさ……どうかしているぜ」
焔嵐が、燃え盛るように赤い髪を、掻きむしりながら呟いた。
この鬼神とは、特別に仲が良いわけではない。
顔見知り程度の関係であるのだが、時折、こうして突然訪ねてきては、己の周りをかき乱し、帰っていく。名前の通りの、うるさい奴である。昨夜も、急に訪ねてきたと思えば、後を貼りつくようについて回り続けてくる。鬱陶しさに、そろそろ限界が近づいてきている。
「なあ、霧雨兄さん。俺に協力してくれねえ? 前よりかは、そこそこ強くなったんだぜ。なんなら、あんたが頭でもいいから。あんたなら、誰も文句ねえ」
「帰れ」
焔嵐は、わざとらしく大きなため息をつくと、岩の上で仰向けに寝そべった。
「なんでかね。なんで、血の気がねえ奴に、圧倒的な力があるのかねえ。あんたがいれば、すぐ他の奴らなど蹴散らせるのに。こんな山の中で、ぼうっと過ごすだけかよ……正気の沙汰とは思えねえ」
粘着質な文句が、いつもより煩わしく感じる。あの娘――字だけ教えて、読み方は答えなかったあやつの陳腐な話を聞くほうが、まだマシである。しかし、"玉依良"はここ二日、林に来ていない。
「なあ、霧雨兄さんよお……本当に、ちょっとだけでも、力貸してくれねえ? 可愛い弟分に免じて――」
そう言いかけた焔嵐の金色の目が、ぴくりと動いた。
ただ事でない様子が妙で、何かを尋ねようとした次の瞬間、角の根あたりが、わずかに痺れるような感覚が走った。
焔嵐はゆっくりと上体を起こすと、鼻をひくつかせた。
「御所の方か? 最近、小物どもの溜まり場にはなっていたが……」
言い終わる前に、林の木々がざわめいた。
下級の妖たちが、蜘蛛の子を散らすように駆けてくる。
普段は、人目を避けて這いずるように移動するような奴らが、今はそんなことに気にかけていられぬとでも言わんばかりに、我先にと逃げ惑う。何かに追われるように。
「おいおい、なんだ? こりゃ」
焔嵐が面白そうに笑った。
妖らは、己らの存在に気づくと、更に慌てふためき出す。逃げる方向を見失い、右往左往する者。悲鳴のような声を上げて、別の方角へ逃げる者。中には、恐怖のあまりその場で動けなくなる者が、足元で転がり始める。
焔嵐はまるで、玩具でも見つけたかのように口元を歪めると、岩から飛び降り、その方へと走り出した。金色の角を隠すこともなく。
(暴れられると面倒だな……)
意気揚々と力を見せつけようとする、奴の性を思い出すと、後を追いかける他ない。
焔嵐の背中を辿りながら進むが、徐々に空気が変わっていくのは明らか。わずかな痺れが体のあちこちに走り出している。
前を走る奴が、突如足を止め、木の上に跳び乗った。己もまた同じに幹枝に乗り、下を見下ろす。
ちょうどそこからは、御所の庭が見えた。松明が四方を取り囲んだ中央に、白い装束を纏った人影が、流れるように舞を踊っている。
(神楽か?)
一つに結い、後ろへ垂らされた艶のある黒髪が、舞う度にふわりと後を追う。
妙齢の娘が手足を揺らす度に、気が澄んだものに変わり、広がっていく。
白玉のような顔の、作りめいた表情で踊るその娘に、見覚えがあった。林にとんと姿を現していなかったあの変な娘――玉依良だった。
「ああ、なるほど。祁山の家が出てきたのか。近頃、大君の調子が悪いとかで、ピリピリしていたからな」
「祁山?」
思わず問い返すと、焔嵐は驚いたように片眉を上げた。
「あんた、知らねえのか? 祁山といえば、霊力の高い人間の一族だぜ。朝廷の神事を司る家らしいが。場合によっては、俺たちの敵にもなり得る奴らだ」
「……初めて聞いた」
「正気かよ……よっぽどないと思うが、霧雨さん。あんたもぼうっとしていたら、祓われるかもしれねえぞ」
舞い続ける玉依良は、林の中で子どもたちと戯れていた娘とは、到底同じとは思えぬほど、無表情だった。舞は美しいが、恐ろしく淡々と踊るその様は、異様に映った。
御所の柱や、軒下、木々の影に潜んでいた妖気が、まるで霧が晴れるように消えていく。
「おお……」
焔嵐が感心したように声を漏らした。
「あれで祓われたのか。どうりで、小物がわらわらと逃げてくるわけだ」
中級の妖が一体、柱の陰から這い出るように姿を現し、そのまま庭の外へと逃げていく。それに引きずられるように、下級の妖たちも次々と逃げ出す。
「すげえな。舞一つでこれだけ祓うとは。さすが、並の人間とは違う。それに顔がいい。俺好みの面だ」
焔嵐はにやりと笑うと、顎で玉依良を示した。
「側に置いておきたいなあ。霊力の高い人間だ。喰えば力が増すだろうし」
焔嵐は軽い調子で続ける。
「でも、まあ……あれだけの力があるとなると、祓おうとでも本気を出されたら、厄介だな。やっぱり無理かね、残念だなあ」
玉依良は、舞を続ける。眉も口元も動かすことなく。あの娘と瓜二つの面を被っているかのよう。
――生きづらそうだな。
漠然と、その思いだけが胸に残り続けた。
*
あれから、しつこい焔嵐を追い出すのに、数日を要した。この手の誘いは何度もあったが、今回はいつにも増して、味方になるよう強請ってきた。
鬼神の勢力争いが激しくなってきたとは、風のうわさで聞いていたが、焔嵐は別に、争いに勝つために己を誘うわけではない。面白くなると、とんだ勘違いで誘いかけているだけだ。
「これ以上、ここに居座るのなら、己は他の奴に肩入れする」と脅しをかけると、ようやく、アジトへ帰っていったのだ。
久方ぶりの林へ行くと、知らぬ人の気があるのに気がつく。
気配を潜めて覗くと、転げ回って遊んでいたあの子どもらが、林の入口に立っている。その傍らに立つ大人の顔を、不安げに気にしているようだった。
「あの御方か?」
大人が、低く尋ねた。視線の先、林の少し奥に、玉依良の姿がある。
子どもらは、玉依良を見て小さく頷いた――次の瞬間、大人は子どもの頭を掴むと、地面に押しつけた。
「――っ」
小さな悲鳴を封じ込めるかのように、掴む手に力筋が立っていた。
大人もまた、深々と額を地に擦りつける。他の大人も同じように、子どもの頭を押さえつけ、土下座をする。
粘り気のある、烏の鳴き声が響く。湿った空気をさらに重く沈ませるその音が、近づいて、遠のいていく。
子どもらの頭を押さえる手は、ようやく離れたが、代わりに大人の手は、その首根っこを掴んだ。
立ち上がらせ、強引に歩かせながら、何度も、何度も。大人らは頭を下げながら、後ずさりしていく。
子どもの一人が、林の奥を振り返ろうとしたが、その頭を押さえ、無理やり視線を逸らせる。抵抗することもできず、子どもらは引きずられるようにして遠ざかっていった。
やがて、奴らの姿は見えなくなった。
林の中に、静寂が戻る。
玉依良は、消えた方角を見つめたまま、動かなかった。いつもの柔らかな微笑みはなく、ただ立ち尽くしている。
「……玉依良」
近づきながら呼ぶと、娘はゆっくりと、こちらを向いた。
「あら……ごきげんよう。霧雨」
いつもと同じ声。舞の時とは違い、いつもと同じ表情を宿した顔だった。しかし、あの内側からあふれ出る輝きはなく、ひどく寂しげで、どこか、諦めたような笑みを浮かべていた。
「あの子たちは、もう来ないの。親たちが、私の正体を知ってしまったみたい」
淡々と事実だけを告げると、木の根元に腰を下ろし、小さく息を吐きながら天を仰いだ。いつもと変わりなく見えるその振る舞いが、虚しい色をにじませていた。
「でも……」
玉依良の視線が、まばたきの間にこちらへと滑り込んだ。
「あなたは来てくれたのね」
そう口にすると、口元にいたずらっぽい弧を描く。その瞳の奥には、小さな星が爆ぜたような輝きが煌めいていた。それは、繕われたものではない笑みだった。
木々のさざめきと、雀の鳴き声が響く。
玉依良は再び、虚空をぼんやりと見つめる。親鳥や兄弟とはぐれた鴨の子のように、流れていく雲をただ眺める。
「ねえ、霧雨」
ポタリと落ちた一滴の水滴のように、玉依良は言葉をこぼす。
「今日はある鳥の話をしようと思っていたのだけど。聞いてくれない?」
「……勝手にしろ」
突き放した答えだというのに、なぜか満足げに微笑む。そして膝の上で、細い指を絡ませるように両の手を組んだ。
「あるところに、一羽の鶴がおりました――」
――その鶴は目を開く前から、金の籠の中で暮らしていました。籠は美しく作られていて、宝石で飾られ、誰もが羨むものでした。
鶴は、自分がどこから来たのか知りませんでした。
誰が自分を産んだのか、誰の羽の下で温められたのか。
ただ気づいた時には、もう金の籠の中にいたのです。
籠を守る者たちは、鶴を大切にしました。
美しい餌を与え、水を替え、羽を整えました。
けれど、誰も鶴を見ることはありませんでした。
彼らが見ていたのは、『金の籠の鶴』だけ。
鶴は、時が来れば歌を歌い、舞を舞いました。それが、鶴の役目だから。
神に仕え、人々を祓い、ただそのためだけに生きる。それ以外の何も、許されませんでした。
鶴は思いました。
籠の外には、どんな世界が広がっているのだろう、と。
ある日、誰もいない時を狙い、鶴はそっと籠を抜け出しました。
鶴は、初めての外の世界に歓喜の声を上げました。
外は自由で、鶴以外のたくさんの鳥たちがいました。
雀や、鳩や、烏。
皆、自由に空を飛び、囀り、遊んでおりました。
鶴は、鳥たちと夢中になって飛びました。
初めて、自分を『金の籠の鶴』ではなく、ただの一羽として見てくれる者たちとともに。
しかし、次第に鳥たちは気づいてしまいました。
この鳥は、『金の籠の鶴』なのだと。
鳥たちは恐れ、頭を垂れ、二度と鶴の前に現れなくなりました。
鶴はまたひとり、金の籠に戻りました。
籠の外を知ってしまったから、籠の中がより狭く感じられるようになりました。
鶴には羽があるだけ。
特別な力なんて、何もない。
ただ歌い、舞うことしかできない。
だから鶴は金の籠の中、ただ生きていくほかないのです――
「……おしまい」
玉依良は、静かに己を見上げた。苦みの強い後味だというのに、なぜか満たされているかのような、穏やかな笑みを浮かべている。
「どうだった?」
「……つまらない。面白くない」
浮かんだ言葉を、そのまま口にする。我ながら、ぞんざいな扱いなのは分かっている。そうだというのに、玉依良は嬉しそうに、その言葉を噛み締めるかのように、静かに頷いた。
「そう……私ね。色々、お話をたくさん考えたの。もう子どもたちは聞かないから、あなたに聞いてほしいな」
「……もっと、マシな結末の話なら、面白みがあるんじゃないのか?」
「そう……じゃあ、そういう話を考えてみるわね」
*
――昔、ある鏡がありました。
その鏡は神聖なものとして、大切に守られていました。
美しく磨かれ、宝石で飾られ、誰もが畏れ敬いました。
鏡は、人の姿を映すことが役目でした。人々が鏡の前に立つと、鏡はその姿をありのままに映しました。
美しい人も、醜い人も、善い人も、悪い人も。
鏡はすべてを映し出しました。
人々は言いました。
「この鏡は素晴らしい。何でも映し出す」
「この鏡は神聖だ。嘘をつかない」
鏡は、自分が役に立っていることを知っていました。でも、鏡にはひとつだけ、できないことがありました。
鏡は、自分の姿を映すことができなかったのです。
鏡は思いました。
私は、どんな姿をしているのだろう。
私は、何でできているのだろう。
私は、誰なのだろう。
でも、鏡は自分を見ることができません。
他の鏡に映してもらおうとしても、その鏡もまた、自分を映すことはできないのです。
鏡は、人の姿を映し続けました。
それが鏡の役目だから。
それ以外のことは、できないから。
鏡は、ただそこにあり続けるしかないのです。自分が何者なのか、知ることもないまま――
語り終えた玉依良は、苦笑いを浮かべた。
「また、嫌な結末の話になっちゃった……」
小さくため息をつくと、膝に頬杖をつく。
眼下に見える市井を見下ろすその目は、どこか無気力めいた色が映っていた。
こうして数を重ねるうち、人目の及ばぬ幹枝に二人並んで座るのが、常となっていた。つまらないと言いながら、ここへ戻り続けている。その事実を、己はどう処理すれば良いものなのか、答えを持たないままでいた。
「ねえ。霧雨」
玉依良は、小さく息をつくと、続けた。
「もし……あなたがその鏡なら、どうする? どうやって、この結末を変える?」
わずかに震えた声音が、消え入るように風に溶けた。
木々のさざめきだけが、辺りを満たす。随分と思いつめた顔をしているが、己にとって答えは一つで、単純なもの。
「……人を映すのをやめる」
その他などない。
玉依良の手がぴくりと動いたが、己は続けた。
「例え、一つしかない役目であろうとも、期待外れと揶揄されようとも。使われ続ける運命を絶つことが出来るのなら、それを選ぶ」
黒く澄んだ瞳が、こちらを見上げた。新しきものを見るような目に、どこか、遣る瀬無さを感じた。
「その道を、選ぼうとは考えないのか?」
問いを紡ぐと、その瞳は大きく揺れた。
玉依良は、静かにまぶたを伏せ、黙っていたが、やがて小さく笑みをこぼした。
「霧雨は、本当に素敵だね。私も、そんな風になれたらな……」
「何のために何を捨てるのか……それ次第だろう」
「そう……」
昼の温い風が間を抜けていく。
緩やかな時が、ただ流れていく感覚に浸りながら、人の営みを静かに眺めていた。
それが、玉依良が林にやって来た、最後の機会だった。
大君が崩御したと伝わったのは、その十日後のことだった。




