余寒
昼食の片付けを済ませると、養母に一言かけて、竹林へ向かう。
自由登校の期間中であるが、私はすでに、県外の国立大への推薦が決まっている。だから実質、少し早い春休みのようなものだった。
長期休みと同じように、朝は早起きして、やるべきことを午前で終わらせ、午後から霧生のところへ上がり込む。そんな生活をしている。
しかし、明日は卒業式の前日。登校日になるので、ゆったりしていた小さな春休みは、少しお預けになる。
「焼き芋でもしているのかな」
昼食の頃から、煙が辺りに立ち込めていた。方角的に、霧生の家の方から、煙が降りてきている。彼が、何かを燃やしているに違いない。
家が見えてきたが、表に気配がない。わずかに開いた引き戸の隙間を覗くと、黒革靴だけが土間に置かれている。裏手から煙が出ているので、霧生は庭にいるのだろう。
何だか、あの下駄が土間にないだけで、小さなささくれができたような、そんな気がしてしまった。
玄関扉には手を掛けず、そのまま横を通り、庭へ侵入する。 やはり思った通り、紙束を焚き火の中に放り込む、霧生の後ろ姿が目に入った。
「何を燃やしているの?」
「草稿」
霧生は、手を休めることなく答えた。
後ろからなるべく音を立てずに、近づいて声を掛けたというのに、驚いた様子もない。昔はそれが悔しくて、何とかして驚かそうと必死だったが、悉く惨敗。それを諦めてからは時が経つ。
「何の草稿? まさか……『月の路』の?」
「そうだ」
なんてことないように、霧生は答えた。
一瞬の間をおいて、心臓が狂ったような音を立てて、暴れだした。今すぐ火の中に手を入れたい衝動に駆られたものの、さすがに火傷はまずい。理性で何とか抑え込み、掴む先を、霧生の衣の袖に変更した。
「も、もったいない! それ欲しいのだけど。お願い! 残っているのだけでもいいから、頂戴!」
「馬鹿か。ゴミを欲しがるな」
「馬鹿はあなたですよ! 馬鹿、馬鹿! 霧生先生の馬鹿! きりちゃんの馬鹿!」
「うるさい」
霧生の長い指に額を弾かれ、脳が揺れたかと思うほどの衝撃と鈍痛がやってくる。
「……ただでさえ、最終回が迫ってそわそわしているのに……発行されたやつの草稿くらい、くれたっていいじゃん。ケチ。わからず屋」
「ゴミはゴミだ。お前がなんと喚こうが、草稿は今ので全部燃やした」
「なんでよ……なんで? 今まで処分したりなんてしてなかったじゃない。なんで急に燃やしちゃうの? 私に一言もなく」
「もう必要ないからな。『月の路』は閉ざした。あれは、構想を練る助けのために、取っておいたにすぎない」
霧生は火かき棒で、未だ火が移ってない部分を転がし、紙束が灰になるのを早める。
草稿と完成品を比べて、どのような変遷を辿ったのか。それを見たいと思うのが、読者だというのに。
(それにしても、『閉ざした』かあ……)
人生経験の差もあるのだろうが、この人にはやはり、どう足掻いても敵わない。それが悔しいけれど、惹かれるものでもあるのだ。
「もう……今度は何かあったら、まず、私に! 要るか、要らないかを訊いて。ゴミは肥料にもなるの」
「はあ……」
「草稿燃やしていると知ったら、すぐ駆けつけたのに。珍しく、焼き芋でもしているのかなって、呑気なこと考えちゃったよ……」
「阿呆か」
霧生は一言吐き捨てると、縁側に置かれた煙管を手に取り、座った。
(草稿の火を無駄にしないためにも、焼き芋出来ないかな。薩摩芋、確か数本あったから持ってこようかな……いや、待って。確か……)
脳裏に、一昨日持ち込んだお菓子の一つが、過った。
「あ、そうだ。霧生せんせ」
霧生は、煙管を咥えながら、こちらに視線を移した。
「焼きマシュマロする?」
霧生は、「はあ?」とでも言いたげな口の形で、煙を吐いた。
「マシュマロの袋、まだ開けずに残っていたよね? 確か。焼き芋の代わりに、マシュマロ焼いて食べようよ。美味しいよ?」
霧生が何かを言う前に、靴を脱ぎ棄て、縁側に上がる。どうせ「そんなくだらないこと、やるわけがないだろう」と常套句をのたまうけれど、結局はやる人なのだから。
台所にある木籠に収まるマシュマロの袋と、業務用の割りばしを入手する。住人より、私の方が場所を分かっているので、探し物は秒で終わる。部屋を横切って、霧生の元に戻ろうとしたが、ふと、執筆部屋が妙にさっぱりしているのが、遠目から見えた。
そこに収められていた草稿が燃やされたのだから、当然と言えば当然だけれど。百科事典や、他の書籍の背表紙が見当たらない。
違和感に、思わずその部屋へ足を踏み入れたくなったが――さすがに、主もおらず、断りもなく入るのは気が引けた。それに、ただの配置換えで変わっただけ、というのもあるだろう。
産毛を逆立てるような、実体のない不安は胸に巣くっていたが、遊び心を刺激するおやつに、意識を向けた。
初めての焼きマシュマロを、霧生はひどく気に入ったようだった。火の傍にしゃがみ、わずかに舞い上がる、燃えた草稿の灰を受けながら、静かに頬張る霧生が、なんだかおかしくて。その横顔を隣で堪能した。
*
バスを下車すると、もう夜の帳が降りている。半月に程近いそれが、わずかに低い位置に浮かんでいる。
家と逆方向に、それが浮かんでいることにほっとしながらも、足を速めた。
明日は卒業式。今日はその準備のための登校日だった。午前中から学校へ行き、帰りに友人と、古民家食堂で食事をした。話に夢中になってしまい、気づけばこんなにも暗くなってしまった。
(うう、寒い)
最近は、暖かい日と、寒い日の繰り返し。昨日、マシュマロを焼いているときは、寒くなかったというのに――尤も、ただ火の近くにいたから、なのかもしれない。
(今日は、霧生せんせのところに行くのは無理か。もう遅いし。明日は、最終回の発売日だから、卒業式から帰ってから、行こうかな)
ここ最近はずっと一緒にいたので、たった一日とはいえ、会わずに日を終えるのが、なんだか妙に寂しく感じた。しかし、忙しい明日を思えば、そうは言っていられない。
ふと、背筋を何かがかすめるような感覚がした。
振り向くも、後ろには何もない。街灯がふんわりと、地面を照らしているだけだ。
月が遠くからこちらを見ているので、慌てて前を向き、再び歩き始める。
しかし、今度は視界の端を、影のようなものが素早く通った。慌ててその先を見やるが、何もない。冷たいような、生ぬるいような風が、足元を撫でていく。
(ああ、またか……)
時折、こういうことがあるのだ。
霊感というのか、なんというのか。摩訶不思議なモノを、見たり感じたりすることが頻繁にある。特に日が沈むと、こういった現象に遭遇しやすい。
害があるわけではない。けれど、幾重もの視線が、背後から這い寄る感触があるのだ。まるで獲物をじっと見つめる蛇のように。
肌が粟立つのを感じ、思わず唾を飲み込み、歩き進める。
しかし、すぐ行き先が藍色に塗りつぶされている場所に差し掛かり、思わず立ち止まってしまった。街灯の設置がないのだ。
(懐中電灯、持ってこれば良かった)
夜目はきく方だが、それでも暗く、先が見えにくい。冬至から日は経っているので、ぎりぎり大丈夫かと思ったけれど。やはり山に近いこの村は、日が沈むのが早い。
(慣れてはいるけど、嫌だなあ、こういうの……)
思わず小さくため息をついたその瞬間。
取り囲んでいたいくつもの視線が、突然――消えた。まるで霧が晴れるように。
振り向くも、後ろには何もない。街灯と月の光だけ。けれど、先ほどまでいた何かが一瞬にして、消え失せたのは間違いない、と勘が言う。
どくどくと音を立てる鼓動とともに、月が迫ってくるあの感覚に襲われそうになり、急いで前に向き直って、目をつむり、深呼吸をする。
四度目の深呼吸で、ようやく少し落ち着いた。覚悟を持って目を開くと、奥からちらりと金色の光が小さく光ったのが見え、五度目の深呼吸を、途中で止めてしまった。
懐中電灯ではない。人魂でもない。距離が縮まるにつれ、一つに見えていた光が二つに割れていく。あれは――
――眼だ。
二つに光が割かれたのではなく、一つに見えていたモノが、距離が近くなったことで、二つと認識出来るようになったのだ。
暗闇から、人を象った影も、見えるようになる。あの金色の眼の主の、人影だ。
(光源がなしで光る目。それを持つのは、犬や猫。でも、大きさと影の形からして、あれは人間のカタチをしている)
その人影は、距離が近づく毎に――見知った人物のものと、はっきり分かるようになっていった。
「霧生せんせ?」
その人影は何も答えなかったが、肯定するかのように小さく息が鳴り、爛々と光る金色の眼が瞬きをした。
影に近づくと、やはり正体は霧生だった。
「どうしたの? こんなところに」
霧生はなぜか、苛立ったかのように眉尻を上げ、呆れたような乾いたため息を吐き、長い指を私の額にぐりぐりと押し込んだ。
「ういっ、痛いよ、せんせ……」
「黄昏時には、無闇やたらに話しかけるな。人ならざるモノだったら、どうするつもりだ?」
「ええ……じゃあ、霧生せんせに話しかけた私は、どうにかなるの?」
少し、意地悪だと分かりつつ訊ねてみる。霧生は指を押し込んだまま、ぴたりと動きを止めてしまった。わずかに瞬きし、何かを言いかけて──しかし、それを飲み込むように視線を逸らし、代わりに強く額を弾いた。
「いたっ……」
「なんで今日はこんなに遅い?」
「痛いってば……友達とご飯食べて、話をしていたから。昨日、言わなかったっけ? 今日は学校行くって」
「ああ……」
「そうだっけ?」というような顔をしているので、聞いていなかったのは確実のようだ。
まばたきの度、金色の輝きがゆらめく。やがて、その光はふっと消え、榛色の静かな瞳に戻った。
「心配して、探しに来てくれたの? 珍しい。ありがとう。ごめんね」
そう言うと、霧生は一つため息をつくだけだった。
「さっさと帰るぞ。お前の親が、いつぞやのように、血相変えて走り回るぞ」
「え……うん」
くるりと踵を返し、歩き始める霧生を、慌てて追いかける。
(なんか、いつもの調子じゃないのかな……?)
そう思いはしたが、会いに行くばかりだったのに、こちらからやってきた珍しい霧生に、少しばかり浮かれてしまい、スキップを踏みたくなる衝動を抑えて、隣に並んだ。
「それはそうと、明日は最終回だね。楽しみだよ」
「よく飽きなかったな」
「なんでいつも、作者がそんなにドライなの……? とにかく、卒業式だけど、終わったらすぐ買って読むから! 感想はその後でね」
「感想はいらない」
「嬉しいな……高校の卒業式と、誕生日と……本当の誕生日かは知らないけど、誕生日が『月の路』の最終回と重なるなんて。感慨深いよ。最高の誕生日プレゼントだよ」
「そんなことで喜ぶなんて、おめでたいやつだな」
相変わらず、神経を逆撫でするようなことを、つらつら述べるけれども。それが心地よくも感じる、変な人間になってしまった。
手が、隣を歩く、白くすらっとした冷たいそれに、時折ぶつかる。
触れているのか、触れていないのか、分からない程度の接触だった。けれど確かに、その度に指先から、何かが伝わってくる気がして、知らずのうちに息を詰めてしまう。
昔のように、手を強引に繋いで歩きたい気持ちがあったが、さすがにこの歳で、そんな振る舞いは出来ない。それに、関係性を壊してまで、踏み入れる勇気もなかった。
ただ静かな、山の空気を感じながら歩く。足元の枯れ葉が、二人分の足音を静かに吸い込んでいき、遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。
家の灯りが見えてくる。それを目にすると、無意識に歩を緩めてしまった。このなんとも言えぬ、静かな時間が終わってしまうのが、名残惜しかった。
霧生は、歩が緩んだことを、知ってか知らぬか。彼もまた緩めてくれた。歩調が合う、たったそれだけのことが、胸の奥に静かに落ちた。
「霧生せんせ……夕飯食べていく? 久しぶりに」
「いや……やることがあるから」
「そっか」
また静かになる。
(終わってしまう。もうすぐ、このひとは、名残惜しさもなく、くるりと竹林の中に入ってしまうのだろうな)
悶々とした思いが胸を巡った。
「明日……」
ぽつりと呟く、霧生の声。そっと見上げると、彼は前を向いたまま、再び口を開いた。
「用事が終わったら、来るといい。ゴミをわけてやる」
“ゴミ”。
何なのか、一瞬分からなかった。が、自分にとっては、国宝級相当の代物を指しているのだと飲み込めると、口角が天に突き刺さる勢いで、上がってしまった。
「本当に? まだあったの? やった、嬉しい。ありがとう! 霧生せんせ、大好き!」
どさくさ紛れに、とんでもなく恥ずかしい言葉を口にした気はするが、今は無視する。なんていったって、霧生響の草稿を譲り受けるのだから。
「物好きな奴だな。煮るなり焼くなり好きにすればいい」
「何を言っているのだか。しっかりと、家宝にするよ!」
「勝手にしろ」
必死に指先で、上がり続ける口角を抑える。先ほどまでの沈んだ気持ちなど、どこかへ吹き飛び、沸き上がる幸福感で満たされていた。
家の門の前に差し掛かったところで、霧生は足を止めた。
「じゃあな」
「うん、また明日! 多分色々終わって、来るのは十五時くらいだと思うから。最終回ちゃんと読むね!」
霧生はいつものように鼻で笑う――ことはなく、静かにこちらを見下ろした。
「ん……どうかしたの?」
霧生はややあった後、私の頭に手を伸ばし、髪を崩すように撫でた。
「……十八歳、おめでとう」
霧生は――――微笑んでいた。
いつもの、つんけんした様子とはあまりに違う。今のこの状況は、この美しい霧生の微笑みが、他でもない自分に向けられているこれは、現実なのだろうか。
「あ、ありが、とう……そういうのは、明日言ってよ。まだ十七歳だよ」
「忘れる前に、言っておこうと思ってな」
霧生の手がゆっくりと下へ滑り、頬をそっと撫でて――離れていく。ふわりと撫でられた髪と頬に、じんわりとした温もりが残っている。霧生の手が離れた後も、その感触だけがそこにあった。
「おやすみ」
「う、うん……おやすみ、なさい……」
霧生はそっと背を向け、竹林の中へ入っていく。
その背中が、針の穴ほど小さくなるまで、見つめ続けてしまう。ふわついた感触だけが、そこにあった。
「珠依? そんなところに突っ立って、どうしたの?」
振り返ると、エプロン姿の養母が玄関から出てきた。
「いや、なんでもないよ……」
「霧生先生に、送ってもらったの?」
「え、なんで知っているの?」
「ちょっと前に、訪ねて来ていらっしゃったからね。今日は来ないのか? って」
思わず、首を傾げる。
(訪ねて来た?わざわざ、あの人が?)
いつもの霧生とは、違うことがあまりにも多い。
「ねえ、お母さん。霧生せんせ、は……」
養母は微笑みながら、その先を促してくる。しかし、口にしかけたそれを、言葉にするのをやめた。
「やっぱり、なんでもない。お腹空いちゃった」
「そう……? 今日は生姜焼きだよ」
不安から目を背けるため、これから食卓に並ぶ、献立に考えを移すことにした。




