如月
しひて行く 人をとどめむ 桜花 いづれを道と 惑ふまで散れ(読み人知らず)
最も寒さが深まる、この季節。冬特有の、色を失った無機質な自然風景が、バスの窓に映しだされている。
いつもならば、思考の濁りが洗われていくその景色とは裏腹に、私の胸の奥では小さく火が爆ぜるように膨らむ熱を感じながら、それを抑え込もうと格闘していた。
理由は単純。今日は、毎月一日に発行される文藝雑誌の、発売日だからだ。
小学六年生の時から、一度たりとも欠かすことなく続いてきた、購入習慣。平日であれば、学校から帰ると真っ先に買いに行くのが、当たり前になっていた。
けれど今日は、午前で学校は終わり。つまり、いつもよりも早い昼過ぎの時間に、それを手に取ることが出来るので、余計にうずうずとした心地にさせられているのだ。制服スカートの裾を何度も掴み直しているので、いい加減、皺になりそうである。
にやついた顔を引き締めようと、上を仰いだ瞬間、山の稜線の上に、空色に透けた月が白く浮かんでいるのが見えた。
胸の奥が収縮するような感覚が走り、すぐに目をそらした。わずかに浅くなった呼吸を、なんとか深い息に戻そうと、ゆっくりと息を吐きだす。
月を目にした。ただそれだけのことなのに、指先まで冷えていくような気がするのだ。
なぜか、月という美しいはずのものが、子どもの頃から得意ではない。月を見ていると、それがこちらに大きく近づき、自分が飲み込まれてしまうような気がするのだ。引っ張られる、という方が正確かもしれない。どこか、ひどく遠いどこかへ、連れて行かれてしまいそうになるのだ。
小さかった頃に比べれば、マシになってきたとは思う。けれど、特に月が大きく見える夜は、その感覚がよみがえってしまう。自分の中にいる何かが、体ごと月へ持っていこうとしている――そんな気がして、慌てて視線を足先に落とすのが、癖になっていた。
原因に、心当たりはない。お化け、蛇、蜘蛛など。子どもが怖いものとしてよく挙げる物として、私は月が組み込まれていた、としか言いようがない。
運転手がバス停を読み上げる声に、はっと現実に引き戻される。定期券を取り出し、いつ飛び出してもいいように構えた。
私が住むのは、良くいえば長閑な田舎。悪くいえば何もない場所だった。家から一番近い商店は、バス停近くにある、お婆さんが営むコンビニのようなお店である。
けれど、私は特に不満は感じていなかった。目当ての雑誌がきっちりと置かれているし、何より、どんな都会な町にも敵わない、特別なものがここにはある。
バスを降りると、目の前にある古ぼけた看板の下をくぐり、店に入る。他のものに見向きもせず、雑誌棚にある『鏡花水月』を手に取ると、カウンターでうたた寝をしている老婆の前に差し出す。
「こんにちは。お会計お願いしてもいい?」
老婆のまぶたが震えると、灰色がかった目が覗いた。そして、私の姿を捉えたのか、目じりにしわを寄せ、にこりと微笑んだ。
「あら、珠依ちゃん。いらっしゃい」
カウンターに出された物を見てとると、ふふっと笑いながら、古めかしいレジを叩き始める。
「そうだね、今日は一日だったねえ」
「はい! 一ヶ月がもう、本当に長くて!」
「そうかい……でも、寂しいね。春からはもう、珠依ちゃんがこうして買いに来てくれなくなっちゃうんだね……」
私もまた、その言葉に寂しさを覚えた。
四月からは進学のため、村から出ていくことになる。学びたいという欲求はありつつも、ここから離れることには抵抗があり、私にとっても少し複雑であった。
「夏休みとかには帰ってくるから、ね? お土産もたくさん持ってくるから。元気でいてくれないと困っちゃうよ」
「そう? そう言われちゃうと、頑張るしかないね……はい、お釣り二十円」
「ありがとう。じゃあね」
手を振りながら店を出ると、私は腕に抱えた雑誌を、まるで宝物かのように空に掲げる。一ヶ月も待ち望んだ物が、今この手の中にある幸福感に、小躍りしたくなる。
「おお、珠依。お帰り!」
警察官の制服を着た養父が、自転車の速度を緩め、側で停止した。
「おお、買ったんだな」
「うん、買ったよ。これから読む」
「霧生先生のところでか? 執筆のお邪魔だけはするなよ」
「読者は、作品の誕生の妨害などしません! 安心してください」
「まあ、それもそうか。ちゃんと夕飯には帰ってこいよ」
養父は片手を振ると、再び自転車を走らせていった。
右の道を行けば、すぐ家に着く。が、私はそちらを、ちらりとも見ることなく、左の竹林の山に続く道を進み始めた。
寄り道をすることは日課であり、養父母もそれが日常である。寄り道といえど、たった数分の場所であるので、小言を言われることもない。
竹林の間を縫うように、続く細い石畳の道。足元には竹の葉が敷き詰められ、足音を吸い込むように柔らかい。
緑の天井が陽射しを遮り、冷たい空気が頬を撫でる。風が吹くたび、竹の葉がざわめき、どこか懐かしい音色を響かせた。
いつものように竹林を通り抜けると、その先にある平屋の引戸を引いた。
「霧生せんせ?」
土間には、黒塗りのシンプルな台に、藍色の鼻緒の下駄が一つ、ぽつんと揃えられている。物の少ない住人は、装い用の黒革靴と、この下駄だけしか履物がない。下駄があるということは、住人がいる証拠である。
寒さに身震いしながら、ローファーをその下駄の隣に揃えると、障子を開く。
「うわっ、暖かい……」
古めかしいストーブで暖められた、部屋の空気に包み込まれ、身体の強ばりが溶けていく。
マフラーをほどきながら、住人を視線で探す。
部屋の中央の木製テーブルには、今日の朝刊が広げられたまま。そしてその隣に、先ほど私が購入したものと同じ、『鏡花水月』の二月号が、無造作に置かれている。更にその奥に視線を向けると、艶のある黒髪の頭が、座椅子の背の上から覗いていた。
座椅子の背後に、足を忍ばせ近づく。
少し手を伸ばせば、触れてしまう距離にまで近寄る。そっと、顔を覗き込み――思わず漏れそうになる感嘆の声を、手で塞ぎ抑えた。毎日見ているというのに、彫刻のように整った中性的な寝顔は、やはり人間離れして美しい。
(四十なんて、とうに越えているくせに……)
どう見ても、二十代半ばにしか見えない。私が赤ん坊の頃から、この家で暮らし始めたというのは確かであり、物心ついた頃から、『きりちゃん』と後ろをついて回っていた記憶も、鮮明である。しかし、私が赤ん坊から十八になるまでの、決して短いとは言いがたい年月を経たというのに、この男の容姿は寸分も変わらない。いくら若作りの人間がいるとはいえ、小皺もシミも、白髪の一本もなく、全く老けない。人間離れした存在なのである。
(珍しい、寝ているなんて)
いつも、静かに佇んでいる男だが、目を閉じた無防備な顔を晒していることは、これほどの付き合いの中で、二、三度だけ。
悪戯心を刺激され、そっと、男の美しい鼻を摘まもうと、指先を近づけた――が、もう少しで触れそうなところで、その手首を掴まれた。
「い、痛い、痛い! 絞めすぎだって!」
叫んで振りほどこうとするも、ぎりぎりと力を込められる。それと同時に、男のまぶたがゆっくりと開かれ、榛色の目が現れた。
「ご、ごめんなさい。出来心でした! 何も、変なことしてない!」
「知っている」
男――霧生響というペンネームを使うその作家は、それだけ呟くと、やっと手首を放した。
「え、起きていたの?」
「当たり前だ」
霧生はため息をつくと、執筆台に頬杖をついた。
「最近、なんで帰りがこんなに早い?」
「午前授業で、終わりだから。もうすぐ自由登校になるし、学校にはもうあんまりいないの。先生の時は違ったの?」
「ああ……忘れた」
霧生は目をそらしながら、あからさまに誤魔化したような反応をした。
素知らぬふりを貫こうとする、白々しい横顔をしばらく見つめてみるが、あちらは折れてくれない。仕方がないので、話を変えようと、鞄から購入した雑誌を取り出した。
「じゃーん! いつもの通り、買いましたよ、霧生先生。これから読むから、感想はしばしお待ちを」
「何度も言っていると思うが……お前の感想は待ってない」
「またまた。読者の反応が間近で見えて、良いでしょう?」
「お前は馬鹿みたいに、『良い』としか言わないだろう」
「『良い』とは言っているけど! 何が良いか、具体的にちゃんと言っているよ!」
霧生はうるさいと言わんばかりに、しっしと手を振った。
邪険に扱われるのが癪ではあったが、いつものことなので、執筆部屋から出ると、居間の机の前に移動する。
机に置かれた物と同じ、雑誌を鞄から取り出すと、精神を集中させるかのように、深呼吸を二度行う。そして、目的の頁――『月の路』を開くと、活字を目で追い、物語の中へとのめり込んでいった。
*
頁を閉じると、せき止めていた呼気が鼻をすんと抜け、安堵の余韻だけが胸に残った。
「一ヶ月のひやひやから、ようやく解放された……」
霧生響の『月の路』は、鬼神に拾われた、赤ん坊の話から始まる。持ち物に記されていた、文字から名付けられたその子が、強い権威を持った一族という柵の中で育ち、抜け出そうと奮闘する物語だ。
前回の第八十二回では、主人公の依良が、一族との決別を確実なものとし、とうとう屋敷から出ていこうとしたその時。当主に刃物を振り下ろされる場面で、終わってしまった。
しかし、第八十三回で依良と行動を共にしていた焔晴という名の鬼神が、すんでのところで防ぎ、依良の未来は潰えることはなかった。
名前に同じ字が入っているせいか、依良に対して、当初から強い親近感を抱いていた。
依良の生死が不安で、何度も目の前にいる作者に、問いただそうと思ったことか。だが、読者としての矜持があるので、その衝動を必死に抑え込み、この一ヶ月を耐え忍んだのだ。
「でも、来月が最終回か……気になる……」
今回は、前回とは異なり、一段落ついたところで終わったので、先まで抱えていたような、もやもやそわそわした心地はない。
しかし、結末を目の前に待たされるのは、それはそれで別の辛さがある。それも、当の作家が、家から徒歩三分に住んでいる状況で。
「ねえ、もう最終回は書き終わっているの?」
座椅子に座っている霧生に、問いかけるつもりで振り向いたが、いつの間にか彼は、執筆部屋の襖に寄りかかるようにして、こちらを見下ろしていた。
「いいや。構想は決まっているけどな」
霧生は、飴色をした羅宇の煙管を片手で弄びながら、気だるげに答えた。その仕草が目に入ると、思わず身震いしてしまった。
「え……今から、吸うの?」
霧生は片眉をあげ、訝しげな顔をした。
「おかしいか? いつものことだろう」
「それはそうだけど……寒いから」
「……だから?」
「もう少し後にしてよ。体が完全に温まってからにして。窓開けたら耐えられないから」
霧生の目がすっと細められた。
「勝手に上がり込んできた分際で、何を言っている。嫌なら開けなきゃいいだろう」
「やだ。すごい煙くなるもの」
「お前が我慢しろ」
そう言いながら煙草盆を掴むと、霧生は私の正面に、ずかずかと座った。
「私、未成年なのだけど? 受動喫煙はんたーい」
「そこらの煙草と一緒にするな」
「まあ、そうだけどさ……」
霧生の煙管には、彼が自分でブレンドした葉が、詰められているらしい。一般的な煙草とは中身も成分も、匂いも全く異なる。身体への害もなく、匂いも鼻につくことはほとんどない――本人曰く。
だが、室内で煙を吸われるのは、それでもなんとなく嫌なのだ。
霧生の形のよい口から、わずかにうねりながら煙が吹き出ていく。その仕草を眺めていると、密かに舌打ちしたくなる。
紺色のベストに黒いズボン、その上から黒い羽織を纏った、和洋折衷のスタイルに、煙管を持つ美形――それは文句のつけどころがないほど、絵になる姿だった。
空気が煙くなるのは、嫌いだ。けれど、煙管を吸う霧生の姿が、美しいことは紛れもない事実であり。そんな彼を嫌いになれないのだ。結局のところ。
「はあ……ムカつく」
「文句があるなら帰れ」
「別にそういう意味じゃないけど……帰ったらご飯ないよ。今日は、カルボナーラ作ろうかと思ったのに」
霧生の煙管を吸う手が、一瞬ぴくりと反応した。食は細いが洋食など、海の向こうが起源のものを好むらしく、よくそれらを食べたがるのだ。
その反応に、ようやく彼に勝てたような気がして、私は少し満足した。




