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月の柵(ませ)  作者: 伊月檸檬
結び更ゆ
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11/12

小町藤

うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは たのみそめてき(小野小町)



 

 黄金色の光が立ち塞がるように、広がっている。

 濃淡のある、散らばったその模様は、紛れもなく月の模様だった。

 

 私を飲み込もうとするそれに、やはり思わず息を飲んでしまったが、頭はすぐに冷静に働いた。

 

「また、夢の中……だね」

 

 いつの間にか、この苦手な月に親近感さえ覚えるほど、見覚えのある奇妙な夢が始まったのだ。試しに振り返ると、いつものように背後には、竹林と群青色の空が広がっていた。

 故郷の、あの何度も足繁く通った竹林と、とてもよく似ているけれど、どこか違うような。夢にしてはあまりにもリアルで、現実にしては、あまりにも幻想的な世界に、立っている。

 

 煌々と輝く月に背を向け、竹林の方へ足を向けた。もう幾度も繰り返したか分からないほどの、同じルーティン。

 

 背後から、竹の葉を透かして、地面に細かく月光が降り注ぐ。

足元に、竹の葉が敷き詰められているが、故郷とは異なり、踏む感触がない上、音もない。

 ただ、冷たくも温かくもない、妙に澄み切った空気だけが、肌を撫でてくる。

 

 夢の中に、道は特にない。覚えているわけではない。けれど、真っ直ぐ歩いていれば必ず、あの人に会えることは、六年の経験則から確信出来ることだった。

 

「ふふっ……私って、あの村を出ても、ずっと同じことしている」

 

 学校から帰れば、真っ先に。休みの日も、雨の日も、雪の日も。竹林を抜けて会いに足を運んでいた。もう私もあの人も、あの村にはいないというのに。こんなことを続けているのが、なんだかおかしく感じた。

 

 しばらく歩くとあの家――ではなく、広く浅く水が張られた場所が見えてきた。

 

「ああ、やっぱりいた……」

 

 艶のある黒髪の頭の主が、座り込んでいるのが見えた。

 

 そっと、水に足をつけるが、あまり水に触れている感覚は伝わらない。

 この何ともいえぬ不思議な場所を、どう表現したら良いか長いこと迷っていたが、少し前に泉であると解釈することに決めた。

 

 霧生響と名乗っていた、孤独な鬼神――霧雨の傍に立ち、彼を見下ろす。

 

 霧雨はやはり、いつもと同じように煙管を燻らせながら、俯いている。現実で目にしていた姿と変わりはないが、一つだけ違うのは、頭上から、黒く美しい曲線の角が覗いていることだ。

 

「こんにちは、霧雨」

 

 声を掛けたが、霧雨はこちらを見るどころか、一切の反応を示さない。特にそれに驚かなくなってしまったので、そのまま彼の後ろに、背中合わせになるように腰を下ろした。

 

 どうやら夢の中の私は、透明人間か何からしく、霧雨には私の姿も、声も聞こえていないようなのだ。

 けれど、二度と会わないつもりで、目の前から立ち去っていったその相手が現れている。姿を目にできるだけ、マシだ。


「いい加減にしろ」

 

 霧雨が、低く唸るように呟いた。時折、こうして独り言のように呟くのだ。

 

「ごめんなさい。私は諦めが悪いのよ。知らなかったの?」

 


 こうしてあちらに聞こえていない答えを、口にするのも、いつものこと。夢のなかでもあの人に会えるので、どれだけ突き放されようと構わない。

 

「自ら、手放したのだろう?」

「いいえ。たったあの日だけ。卒業式の前日に早く帰らなかった、それだけで、手放した認定なんてしないでよ」

 

 最後の日になったあの二月の末日。なぜ早く帰らなかったのだろうと、その後しばらく自分を責めた。あの時帰っていれば、引き止められていたかもしれない、と。

 でも、今は知っている。どう足掻こうが、あの場から霧雨が離れない道はなかったのだと。

 

「未練を捨てろ」

「何を言っているの? 未練を生み出させたのは、あなたでしょう? 全く、責任転嫁しないでよね」

 

「なぜ、こんなにも長い」

「何年でも頑張るからね。あなたにとっては、六年なんて一瞬で――」


「――六年など、瞬きの間すらも与えないほどだったはずだ」


 吐き出すような呟きが、背後から聞こえた。


 今のは、幻聴だったのだろうか。


(いや、夢で幻聴なんて、ある……?)

 

 振り向いてその方を見たけれど、霧雨はうつむき座ったまま。

 

「せんせ? 霧雨?」

 

 そっと前に回り込んだが、やはり金色の目と焦点は合わない。

 

「珠依にとって最も邪魔な存在は、己だろう?」

 

 虚ろな目で、霧雨は続けた。


 

「……その言葉たちはずっと、あなた自身に向けていたの?」

 

 そっと霧雨の頬に手を伸ばしてみたが、触れているのかいないのか、やはりよく分からない。

 

「ねえ。どうして、自分に爪立ててばかりなの? なんで、私の目を見て言わないの?」

 

 虚ろな目は、わずかに息の根がある灯火が、今にも消えてしまいそうなほど、とても生気がなく、弱い。

 

「私に秘密を託したなら、信じてよ。託したくせに、一人で抱え込まないでよ」

 

 両の手で霧雨の顔を掬い、虚ろな榛の目を覗き込む。

 

「私の目を、正面から――」




 

 車内アナウンスの声に、意識を引き上げられる。

 顔を上げると、退勤ラッシュで窮屈そうに身を縮こませるサラリーマンたちが、目の前に壁となって立ちはだかっていた。

 

 案内表示器に視線をやると、目当ての駅の名と、右側のドアが開くことを示す案内が、人波の頭の隙間から覗いていた。

 

 乗車時間の間に読もうと、鞄から取り出したはずの柔らかく癖のついた文庫本が、紺色のテーパードパンツの膝上に、置かれたままになっている。たった十数分のわずかな時間で、夢を見るほど寝入ってしまったらしい。

 

 表紙の端はうっすらと毛羽立ち、背表紙のタイトル『月の路』は、何度も指が触れる場所なので、他より色が薄くなっている。

 この本には、お気に入りの杏の花模様の栞を、挟む必要もない。目当ての頁を、どこからでもすぐに開けるようになってしまったから。

 

 六年間、この本を開くたびに、あの朝に戻された。竹林の冷たい風。空き家になっていた平屋。テーブルの上のノートの山。

 霧雨が残していったものの重さは、六年経った今も、変わらない。ただ、最初の頃のように、それに押し潰されそうになることは、もうない。

 

 あの、全てが打ち砕かれた最終回の頁を開く――前にその衝動をなんとか抑え込み――鞄の中へ丁寧にしまう。こんなところで読み始めたら、乗り過ごすどころか仕事に行けなくなってしまう。

 電子音とともに、開いた扉へ急いで向かった。



 

 車が多く行き交う大通りを横目に、自宅マンションへと足を進める。都内では比較的静かな街ではあるが、やはり故郷とはわけが違う。喧騒を聞き流しながら、暗くなった空を見上げる。

 

 今宵は新月。月のことを気にする必要はない。

 実のところ、以前ほど、月を恐れなくなっていた。

 あの夢を見るようになったせいか、精神的に大人になり、耐性がついてきたせいか。

 今でも、月齢が満ちているときは視線を逸らしがちだが、心臓はいささか落ち着きを保てるようになり、呼吸も正常の範囲内で続けられる。


(それにしても、変わった夢だった……)


 あの夢を見始めたのは、村を出て、進学先にほど近い賃貸で暮らし始めて少しした時からだった。

 新しい環境は新鮮で、別れで沈みがちだった心を、躍らせてくれた。けれど、あの澄んだ空気と、竹の葉を揺らす音がしない自室は、霧生響との縁が完全に絶たれてしまったような気がして、胸に風穴が空いたような気を起こさせた。

 

 風が吹いても、葉のざわめきではなく、聞こえるのは窓枠の軋む音。

 

 このまま霧生響が、私の中から消えて、遠い記憶になることだけは、耐えられなかった。

 引っ越しの忙しさと、身勝手なあの鬼神への怒りで、ノートはあの後しばらく、読まずに段ボールへ閉じ込めたままだったが、早々に、その筆跡に縋ることになったのだ。



 

 ポストを覗くと、郵便物は不在票が一枚。

 再度エントランスを抜け、宅配ボックスの暗証番号を入力する。タッチパネルの感度が悪いのか、いつも正しく入力しているはずなのに、二、三回やり直さないと開かない。入力した番号は丁寧に黒丸で表示されているので、何が間違った入力として読み込まれているのか、いつまで経って分からない。

 

 でも、今日は一度でクリア出来た。

 当たりくじを引いたような気がして、少し嬉しくなったが、荷物の送り主の名が見え、照れくささが広がった。


「もう……私、二十四なんだけど」

 

 先日、誕生日を迎えたので、そのお祝いらしい。

「すまない、当日に届くように出来なかった」と平謝りする、養父からのメッセージが届いたが、もう自分の養育義務はないというのに、誕生日プレゼントまで送りに来るとは。


 段ボールを引きずり、宅配ボックスから下ろす。

 仕事用の鞄と荷物を抱えるのは、地味に負荷がかかる。

壁と自分の身体でそれを挟むと、オートロックを手早く解除し、再度中へ入った。


「ただいま」と空の部屋に声を掛け、荷物と鞄を玄関に置く。

送り主や宛名シールを剥ぎ取り、ハサミを駆使して箱を開ける。


『二十四歳おめでとう! 体調に気をつけて、適度にお仕事頑張ってね』

 

 養母のさらっとした文字で書かれた、メッセージカードの下に、入浴剤と新品のひざ掛けが重ねられていた。

 職場で使っている物が、糸が解れて来た、と話をしたのを覚えていてくれたのだ。

 

 入浴剤の隅に、中が膨らんだ茶色の封筒が挟まっているのが見えた。引っ張り出すと、養父の丸い字が書かれていた。


『レインリリー、日当たり、風通しが良いところに植えること。丈夫だから、ほったらかしでも大丈夫』


 思わず吹き出すように笑ってしまった。


 入浴剤は今から使ってしまおう。

 球根は、明日の午前中休みだからそこで植えて、ひざ掛けも明日持っていこう。まだ足元は寒いことが多いので、まだしばらくはお世話になりそうだ。


 


 

 霧生響が忽然と姿を消してから、六年が経った。

 あの夜以来、彼とは現実では一度も会っていない。


 夢に出てくる霧雨は、私の願望や記憶が創り出していると、分かっているはずなのに。まるで電車で見たあの夢は、今の霧雨が紡ぐ声のようだった。

 

(でも、考えてみると明らかに、私に対して投げかけてきた言葉だと、確信できるものはない。気がする……)

 

ご都合主義かもしれないけれど、私にではなく、霧雨自身への言葉だったりするのだろうか。



 あの夢を見始めた頃は、今とは少し違っていた。

 あの大きな月から逃れるように走り続けると、白玉砂利の庭に面した縁側に座っていることが多かった。 

 塀に切り取られるようにして広がる青い空。

 私自身ではなく、誰かの体に入り込んで眺める夢だった。

 

 そのうち体の持ち主は、星を眺めたり、火を眺めたり。水を眺めたかと思えば、舞を舞ったり、薬草を煎じたり。笑みを消して人と言葉を交わすようになった。

 時折、使用人の服を借りて広い敷地を抜けていき、林の中で暇を潰す子どもや、小さな妖怪に声を掛けて遊ぶこともあった。やがて、よく見知った顔の――—角を生やし、黒ずくめの鬼神が現れた。


 ノートの山に、玉依良についてのあらましも書かれていた。

 出会いから最期を書いた頁を読んでも、昔話を読んでいる感覚でしかなかった。

 私の前世というのだから、何か記憶を辿れば思い出すのだろうか、と期待したけれど、全く駄目だった。確かに、親近感のようなものは湧いたけれど、『月の路』の依良のモデルだから、と一言で片付けられてしまうものだった。

 

 でも、それは夢の中でも同じことで。玉依良として行動をしていても、私は中村珠依でしかなかった。

 

 玉依良からすれば、中村珠依は、欲しくても手に入らなかったものを、手に入れた人生なのかもしれない。けれど、中村珠依の人生であって、玉依良の人生じゃない。

 ただ—――玉依良が、報われれば良いと思った。それだけだった。

 

 しばらくの後、私が玉依良になることはなくなっていった。

 けれど、相変わらず月はしつこいほどに目の前に迫り、玉依良の代わりに、竹林と泉に寂しく座る霧雨が現れるようになった。


「そういえば……鬼神って、夢を見るのかな?」

 

ぽつりと疑問が口からこぼれた。

霧生響は、知る限りでは眠らなかった。眠っているように見えることはあっても、声を掛ければ必ず目が覚めていた。

 

(そもそも、眠らないのかな……)


 脳裏に、ずっと昔の、遠い記憶がふと過った。

 小学生になる前、恐い夢を見たとあの人に泣きついた時、確か訊ねたことがあった。「恐い夢を見たら、どうすればこわくなくなる?」と。


「俺は夢を見ない」


 確かその一言で、相談は終了してしまった。

 

 もし、霧雨が夢を見ることが出来ないのならば。夢の通い路というものがあるのならば。私は、霧雨に会いに行けていないのだろうか。私はこうして、霧雨のところへ通っているというのに。

 

「……恋わびて うちぬる中に 行きかよふ 夢のただぢは うつつならなむ、かな」

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