有明
遠くから響く犬の鳴き声で、長い回顧――あの村での日々から現へ引き戻される。
壁掛け時計を覗き見ると、日付が変わってからそろそろ、一時間が過ぎようとしていた。
珠依の、二十四の年が始まった。
何事もなく、十八年の時を経て――いや、一度だけ、危うかった。
珠依が九つの時だ。家出をして、どこで覚えたのか、あるいは本能か、人間の踏み込めぬ場所――常世に近い狭間へ、入り込んだことがあった。
商店の老婆の娘か何かが、口を滑らせたお蔭で、中村の家へ来る経緯を話したということは、すぐに聞いていた。
強がっていたことには気がついてはいたが、まさか気配が薄くなるほど消えてしまうとは思っていなかった。
行方が分からないと騒ぎになり、葵の方が顔を青くして落ち込み、誠司の方が珍しく、ぴりぴりとしていた。
あのような場所、人間が見つけられるはずもない。
気配を追って、深い場所へ下り、ようやく見つけたのは、常世へ半身を浸すようにして佇む、小さく丸めた背中。
当の珠依は、きょとんとした顔をした挙句、己に向かって「来るな」と怒鳴りつけ――今まで、にこにこと寄り付いてきたことしかなかったというのに。
己の血の気の引きようを、まるで分かっていないその態度に無性に苛立っていると、突然火をついたように泣き出した。今でも、あれはどうすれば良かったのか分からぬ。
考えあぐねている間に、珠依は落ち着き、おんぶを強請るほどになり、事なきを得たが。
珠依がどれほど、月――あちらへ引かれやすいのか、目を逸らせないと言わんばかりに、真っすぐと、冷酷に突きつけられたような気がしたものだ。
苛立ちの底にあったのは、余分なものを剥いでしまえば、ただの恐れだったのだ。
だが、珠依は還ってきた。そして、生きた、生きている。
玉依良が命を絶った齢の、その先を生きているのだ。ならば、それで良いではないか……
そう思えど、胸の燻ぶりは、消えるどころか大きくなっていく。時が過ぎていくほどに、それは大きく膨らんでいくのだ。
三年前、進学先だと話をしていた学校へ、気配を頼りに遠くから、進学先の大学で過ごす珠依の様子を見に行った。
遠目に確かめたかったのは、無事かどうか、ではない。
あの秘密に、押し潰されていないか。常世のモノに縛られていた十八年を、呪ってはいないか。残していったあのノートの山を読んで、己を恐れ、夜ごと月に怯えてはいないか。――そんなことを、確かめに。
もう己は、常世のモノとして去ったのだから、と、彼女に勘付かれないよう気を配った。その実、ただ己を――秘密ごと押し付けて勝手にいなくなった、母親殺しを、拒絶するのではと恐れていたに過ぎなかった。
大学の友人、だったのだろうか。親しげに人の輪の中で笑う珠依に、陰りはなかった。月を恐れる素振りも、何かに追われる影もない。
ただ安堵した。案じる資格もないのだが。
それと同時に、珠依にとって己が、過去の遺物へと確実に変わっていることを、突きつけられたようで虚しくなった。
どこまで図々しいのか。
どう足掻こうが、珠依との時の流れ方は、全く違う。己は良くとも、珠依が抱え続けられるものではない。
それが分かっていたから――分かっていたのに。十八年も、あの村に居座り続けた。せめて、玉依良よりも長く生きるまでと、口実を作って……
珠依には重すぎるものも、一人で抱えさせてしまった。
真実を知りたがる時がくるかもしれないと、建前を作り、ただ爪痕を残しておきたいと、利己的な考えで。
――考えても無駄だ。
今さら手放したモノに思いを巡らせたところで、もう元には戻らない。
あの姿の如く、己は珠依の中から薄れていき、やがて消える。それを選んだのは他でもない、己自身だから。
煙管の灰を落とし、煙草盆とともに部屋の中へ戻る。
連載と並行して短編を一つ。加えて、単行本での出版を予定する、長編の執筆を進めなくてはならない。己の頭にあるモノを、一刻も早く、字に移し出さねばならない。
書くという行いに、己がこうも魅入られるとは、思いもしなかった。
始まりは、ただの走り書き。それが今や、夜ごと机に向かわねば、内側が膿むような心地さえする。
――元はと言えば、あの話への、腹立ちからだったのだ。
珠依が少し大人びた言動を取り始めた頃――なぜか、"きりちゃん"ではなく、"霧生せんせ"と呼び始めた頃だったか。無邪気に読み上げてみせた、月の姫君の物語という、あの話。
月から降り、地に育ち、慕う者を残して、月へ攫われていく。誰の手も、それを留めることはできない。
玉依良の話を、美談に塗り替えた話かと思った。偶然にしては、あれを感じさせる部分が多すぎたから。
玉依良の名も、祁山も、まるで存在しなかったかのように消え失せているというのに。玉依良の苦しみを色で染め上げ、目を逸らす侮辱だと思った。
それを他でもない、珠依が読み上げるというのが――堪えられなかった。
(だから、書いたのだ)
月しか逃げ場のなかった玉依良を、そこから引きずり下ろす。文字の中に縫い留め、常世を忘れさせて、ただ生かした。
主人公の依良が――否、珠依が現で生き果せる結末を。
もっとも、本当に、あの出来事が歪められて出来上がったものなのか、知る由もないが。
玉依良への手向けと、珠依の未来への祈り。そのつもりで書いた――はずだった。
焔晴は、実によく動いた――まあ、当然である。己の対に位置する存在を、作り出したのだから。
だが、終いには、己と同じ道を辿らせた。
依良との縁を、己の手で断たせた。常世のモノとの繋がりを、一つ残らず忘れさせ、振り返ることすらできぬよう、綺麗に幕を引かせた。
依良の傍を片時も動かなかった焔晴が、最後だけ、唐突に身を引いた。物語の理から言えば、歪だ。書いている己自身が、誰より分かっていた。
それでも、ああする他なかったのだ。
あのまま続ければ、依良は――珠依は、いつまでも常世に片足を浸したまま、生きることになる。月に手を引かれ続け、現に根を下ろせぬまま。
己という柵が傍にある限り、永遠に縛られたままなのだ。
たとえ筋を歪ませ、無理に断ち切ってでも、解き放ってやらねばならなかった。構想していた本来の結末から、大きく歪めてまで。
己の手が勝手に綴ってしまった、あの最初の草稿を、珠依に読まれるわけにはいかなかった。
柵になるからと母親を見殺しにしておきながら、その事実に口を閉ざし、長く側を陣取っていた柵風情が、何を思っていたのか。赤裸々に物語っていたアレを。
珠依が訪ねてくる前にと、火を急いで燃やした。終わり際、まだ一部が残っている頃にやってきた時は、なんてことないように振る舞ったが、灰になる前に見られてしまうのではないかと、気が気でなかった。
せっかく、柵から逃がしてやる手筈が、すべて崩れてしまうわけにはいかなかった。
煙草盆の中の灰を、水差しの中へ落とす。
腰を掛けながら机上の液晶画面を覗くと、メールが来ていた。
送り主は、今の編集担当の男。
村にいた最後の数年からは、メールを使うようにはなっていた。しかし、都内に来てからは、それがより日常へ組み込まれた。
内容は、いつもとさほど変わらぬ、各原稿の締め切りや、修正箇所について。しかし文章の最後に、いつもの定型文に加えて、三行ほど書かれている。
――新しい編集担当が、決定いたしました。次回お伺いする際、顔合わせをさせていただければと存じます。三カ月から半年ほどは、私も共同で担当させていただき、業務に支障が出ないよう配慮をさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
追伸:新しい担当は、水無瀬先生のご希望に近い人物かと存じます。
(希望に近い人物……?)
先月、男が訪問した際のことを思い返す。担当が変わる方向で動いている、という話はその以前から聞いていたことではあった。
「人事について、非常にご迷惑をおかけした過去がありますので、水無瀬先生のご意向をお聞きしたいのですが」
思い出した。担当の男は、原稿を整えながら、そう訊ねてきたのだ。
「別に。書くものに一定の理解と、知識があれば構わない」
「正直、そこが難しいんだな。分かる奴いるかな……ともかく、承知いたしました。それが第一条件ということで。他には?」
男は、気を遣おうと必死になっているのか、更に訊ねてきた。
面倒ではあったが、いくつか適当にでも答えなければ、食い下がってくるだろう。中村誠司とは似ていないが、人となりがどこか似ているところがあるのだ。
「黙って読んで、黙っていられない人間が良い」
「はあ、難しいこと言いますね……承知しました。また何か動きがあればお知らせしますから」
何の話だったのかを思い出し、ようやく腑に落ちた。
あの時。珠依が毎日のように、あの離れへ押しかけ、的を射た感想を長々と語っていたことが、思い返された。あの時間が悪くないと、どこかで思っていたのだろう、そのまま口にしてしまった。
――己から手放したはずなのに。
いつまで経っても、未練がましく思う己に、何度ついたか分からぬため息を、再びついた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
霧雨の心が、ちら見えする回でした。
少しでもご興味を持っていただけましたら、ブックマーク等してくださると大変励みになります。
次回は一日空けて、【7/2 12:00頃】の更新予定です。
書き進めるうち、最終章にもう少し手を入れたくなりまして。霧雨のようには、結末を歪ませたりしませんので!
どうぞ、よろしくお願いいたします。




