風光る
土を優しく被せると、球根の先はしっかりと姿を消し、まっさらな茶色の大地の中へと眠りについた。
水差しを傾け、土の色が濃くなる様を眺める。
「どうか、元気に育ちますように」
おまじないもかけたので、きっともう大丈夫。
様子を見ながら、ほったらかしでも大丈夫なその生命力に委ねることにしよう。
達成感に満たされながら上を仰ぐと、薄青色の空が広がっている。甲高い話し声とともに、散歩する犬の鳴き声が、風に乗って運ばれてくる。
(さて、そろそろ出掛ける支度をしないと)
時間を確認しようと、掃き出し窓の合間から、壁掛け時計を確認すると、想定よりも早く進んだ時刻を指していた。
「……ゆっくりし過ぎた!」
急いでベランダのスリッパを脱ぎ、ビニール手袋を外しながら窓を閉める。
手袋をゴミ箱へ放り投げ、洗面台へ手を洗いに向かう。
一応、洗顔などの身支度は整えているので、その工程は必要ないけれど、着替えや荷物を詰める作業がある。意外に時間を取られるので、早くしなければならない。
携帯電話の充電を終わらせ、空のマグカップを机からシンクに移動させる。そして、古びた大学ノートを並び順通りに戻し、ジャケットを羽織りながら玄関へ走る。
少し暖かくなってきたが冷えるので、コートを重ねて羽織り、鞄と、新品の毛布を入れた紙袋を引っ掴み、駅へと足を速めた。
昨年の春、大学を卒業して、灯籠社という出版社に就職した。
『鏡花水月』の出版元への就職も考えたが、文藝雑誌の二大巨塔として地位を確立する、『幽玄』を扱うこちらに決めたのだ。
長年、『鏡花水月』にお世話になった身としては心苦しいところはあるが、こればかりは仕方ない。
職場環境はとても良く、編集部の人数も大所帯ではないので、少し緩い雰囲気がある。田舎でのんびり暮らしてきたので、それが性に合っている気がするのだ。
昼時なので、人がまばらに座っている。
端が空いていたので、そこへ身を寄せ、間に合った安堵のため息を吐き出す。
『月の路』を鞄から取り出した後、念のため、電光掲示板で行き先を確認すると、吊り広告と目が合う。
灯籠社が出している書籍広告だ。自己啓発本や、人気の恋愛小説のタイトルが並ぶ中、『幽玄』の看板作家――水無瀬朔の書籍も載せられている。
水無瀬朔は四年前、『幽玄』で長編小説の掲載を始めた。
評価はすぐに上昇気流に乗り、『幽玄』を代表する作家の一人に名を連ねるのに、時間はかからなかった。彗星のごとく現れたその作家は、まだ比較的新人の扱いをされているが、顔として活躍するほどの大きな存在へのし上がっている。
現在、担当は編集長が務めている。
視線を膝に戻すと、見知った題名と再び目が合った。
霧生響も、突然現れた作家の扱いだった。最初は、新聞社で連載をしていたが、そのうち主戦場を『鏡花水月』に移し、ぱたりと音沙汰なくなった。
連載されていたものや短編作品をまとめたものが、時をおいて単行本化して出版されたが、新作は一向に出てこない。
ふっと湧いたように現れ、突然消えてしまった天才作家。
再来を辛抱強く願うファンもいる様子だけれど、あの人——"霧生響"は、二度と書かないのだろう。
昨日、最終回の頁を開こうとして眠ってしまったので、あの鬼門の文章に挑むことにする。
『月の路』
霧雨、玉依良、そして私の話。
あの山のノートのお蔭で、霧生響の意図することを網羅してしまっている。何度も読み込んで、読者としてはこれ以上ないほど知り尽くしている。
誕生するその瞬間を知っているのも、この世で私だけ。
――霧生せんせ、かぐや姫知らないの?
思わずそう訊ねてしまったのは、確か、小学五年生の頃だった。国語の授業で、竹取物語について触れたと話をすると、怪訝そうな顔で、それは何かと訊ねてきたのだ。
“きりちゃん”呼びから、“霧生せんせ”呼びに変えて、少し大人になった気分に浸っていたが、彼が知らないことを知っていることが嬉しく、教科書を引っ張り出して、音読を始めたのだが――いつになく険しい顔で、教科書を突然取り上げた霧生に遮られたのだ。
渋られながらも、音読の宿題の相手をずっと続けてくれていたはずの、霧生の常にはない行動に、しばらく呆然と、そして少し恐く思った。
目が金色に、光り出していたからではない。その奥に滾る怒りが、祟りを起こしてしまったのではないかとさえ、思ったのだ。
「せんせ……これ、嫌い?」
恐る恐る訊ねると、霧生は我に返ったように瞬きをして、教科書に視線を落とした。目の色がゆっくりと榛色に戻っていくと、息を詰めていたのか、彼はひとつ嘆息し、静かに閉じた教科書を、私の手に戻した。
「不快な話だ」
ただそれだけ。その一言を吐き捨てると、縁側に腰掛け、空を眺め始めた。
霧生響が『月の路』の連載を始めたのは、その半年後のことだった。
置土産のノートを読んで、玉依良の生涯を知ってようやく、あの険しい顔の意味と、なぜあの物語を紡ぎ始めたのかを、理解した。
竹取物語、そのものへの怒りから始まり、玉依良への供養を込め――そして、私への祈りをも込めた作品。最終回は、祈りという名のエゴに大きく偏らせた。
世間の評価は、高かったけれど私には、常世のモノと関わるべきではない、という頑固な信念を優先して、それまでのバランスを崩して、無理矢理に終わらせたようにしか見えなかった。
ただ――許せなかった。あの時さんざん流した涙は、悲しみよりも、許せないという感情からのものだった。
私の前から、黙っていなくなる選択をとっておきながら、千三百年の秘密を私に残していったことを。
私の目の前からいなくなり、二度と会わないと決めているのならば、暴言でもなんでも吐いて、突き放してくれれば良かった。なのに、それをせず、あの暴露本の山を残した。
“焔晴”という、霧雨とは正反対な人物を描いていたくせに。“焔嵐”という鬼神を、妬んでいるのかとさえ思えるほど、それを意識して作った人物のくせに。なぜそんな結末を書き、なぞるように消えたのか。
身勝手な振る舞いに、文句を言ってやらなければ気が済まなかった。何としてでも、霧生響と名乗る鬼神を見つけようと、ひたすら手がかりを探し続けてきた。
*
依良が、焔晴に会いに行こうとするところで、職場の最寄り駅に着いた。その先が何度読んでも、頭の中が掻き回されるような感覚になるので、正直、時間が区切らせてくれたのは有難い、とさえ思う。
地下鉄を出ると、冷たい風が頬をぶわっと刺激した。
日差しは暖かくなったが、まだ冬が残っている。
昼間の本の街を、通勤のために歩くのがなんだか、不思議で新鮮に感じる。
駅からそれほど経たず、職場の入ったビルが、見えてきた。
腕時計を見ると、十三時より十五分前を指していた。小さくシンプルなシルバーのこの時計は、養父が大学の卒業祝いにと、贈ってくれたものだ。
今日は随分と、時間が経つのが早い気がする。いつもより遅く起き、ゆっくり過ごすことが出来たのは、良いことだけれど。
やったことといえば、レインリリーを植えたことだけ。何もせず、半日を過ごしてしまった罪悪感が押し寄せてくる。
ビルへ入ると、コーヒーの匂いが鼻を通った。真っ直ぐエレベーターに向かい、ボタンを押す。
澄んだ鈴の音に近い音が鳴ると、扉が開く。編集部のある階のボタンを押すと、エレベーターは静かに動き出した。
「おはようございます」
既に出勤している同僚たちに挨拶をすると、返事が返ってくる。外出している人もいるので、デスクから覗く頭はまばらだ。
「おはよう、中村さん。よく休めた?」
デスクにつくと、指導係だった隣の先輩に声をかけられる。
「お蔭様で、ゆっくりしました」
「せっかく区切りついたところだから、もうちょっと休んでも良かったのに……あれ、その毛布、新顔?」
取り出そうとしたそれに、目ざとく見つけられる。
「実はこれ、昨日実家から、誕生日プレゼントとして送ってきてもらって」
「いいなあ、仲良しだね。私なんて、誕生日を半年前に過ぎたのに、『プレゼントはもう少し待っててね』って言われてから、音沙汰ないよ」
「ああ……きっと、深く悩まれているんですね」
「あはは、ないない。忘れてるから、そろそろ催促してみるよ。そういえば」
ちらりと周りを一瞥すると、声を潜めて彼女は言った。
「面談は、もうやった? 来年度の話とか、聞いた?」
「えっと、まだです」
「そっかあ……まあ、楽しみにしていて」
訳知り顔の先輩の言葉に、首を傾げたところで、自分の名前が呼ばれた。
「お、面談のことかもよ? 頑張ってー」
先輩に見送られ、上司のデスクの前へ向かう。
「中村さん。今日は、予定が詰まっていたりするか?」
忙しない様子で、上司は書類に目を通しながら訊ねてきた。
「いいえ、特には……」
「じゃあ、そうだな……あと三十分したら出掛けたい。一緒に来てほしいんだ。準備しておいてくれるか?」
「承知いたしました」
それだけ言うと、他の部下の名前を呼んだ。
てっきり、面談をする時間の相談かと思っていたので、拍子抜けと同時に、出掛ける用事に、興味と不安が湧いた。
自席に戻ると、先輩は電話に出ており、仕事モードに入っていた。
自分もそれに引かれるように、パソコンを起動させると、液晶とのにらめっこを始める。
*
十三時半きっかりに、上司はコートを手に、机から立ち上がった。その背に続いて、私も編集部オフィスを後にする。
エレベーターを降り、ビルの外へ出ると、首筋を撫でる風に身震いする。
「中村さん。どこに行くか、気にならないのかい?」
前を向いたまま上司は訊ねてくる。気にならないはずないというのに。
「それは……教えてくださるのですか?」
上司が、少し笑ったような気配がした。
「教えるさ。隠す必要もないからね。今から、水無瀬朔のところへ行くよ」
思わず、歩を止めてしまった。上司は振り返ると、面白そうな笑みを浮かべた。
「やっぱり。ずっと、水無瀬先生の作品に関わりたかったんだろう? 君は霧生響が、相当お気に入りのようだし。水無瀬の作品への食いつきも、理解度も高いからな」
上司はタクシーを呼び止めると、中へ入るよう促した。
どこか、ふわふわとした感覚のまま乗り込む。六年間、ずっとこの瞬間を想像していたはずなのに。実際にその時が来ると、どこか現実感がなかった。
私が好む種類の文章を書く作家は、多くはない。玉依良の真似事に過ぎないと、書くことへの迷いを日記に吐き出しておきながら、話を紡ぐことを続けてきた人――鬼神だ。絶対、作家でいられずにはいられないと思った。
たとえ、霧生響として筆を執ることはなくとも。
“水無瀬朔”。
その作品に出会ったのは、大学図書館の閲覧室だった。
文藝雑誌を読み漁り、霧生響の痕跡を探すのは、日課というより呼吸に近い、無意識なものになっていた。
水の無い川。隠れた感情。
霧雨の名とは、少し距離を置いているが、本当にあの人をよく表した、良い名前だと思った。
新たな作家のデビューに浮き足立つ気分を抑え込み、世界に入り込もうとした最初の一段落で、手が止まった。
呼吸の長さが、同じ。
言葉の置き方が、同じ。
何かを「書かない」ことへの信頼の仕方。
あの離れで、煙管を咥えながら原稿に向かっていた人の、あの文章と同じ。霧生響の文章に違いないと思った。
根拠と呼べるものは、自分の経験値と直感しかない。ただ、全身の毛が逆立つような確信があった。
「霧生響の作品『月の路』後期と、作風が似ている」という声が、読み手の一部から出てきていた。
それは、霧雨はそこにいると、直感を後押ししてくれた。
だから、灯籠社に入った。『幽玄』の編集部へ入るため。
『鏡花水月』を裏切ってでも。
その道だけが、本当の意味で、あの人と正面から向き合う唯一の手段だと思ったから。
——霧生響に———霧雨に、会える……
「いいか? 水無瀬先生は、気難しい。別に、怒鳴ったり、気性に難があったりはしないが。愛想と口が良くない。ただ、怒らせてしまうと、人生詰むぞ」
「はい」と平静を装って返事をしながらも、声がわずかに上擦る。
(そのまま、霧生せんせじゃない……)
しかし、怒らせると人生詰む、と言われるとは。いったい彼は何をしたのか。
ちらりと上司を見ると、疑問に勘づいたのか、苦い笑みを浮かべた。
「最初は、別の人間が担当していたんだが……水無瀬先生の見た目が、引くほどいいから、アプローチしまくって、ブチ切れさせた」
大きくため息をつくと、上司は遠い目をした。
「怒られたのがよっぽど恐かったのか、そいつはすぐ自主退職したよ。自業自得だから、仕方ないけどな。だから、俺に回ってきたんだ」
その姿は、あまりピンと来ない。
霧生響には、きつい物言いをされたことはあったが、怒られる経験はない。強いて言うなら、あの竹取物語の一件だけれど。
ただ、一度だけ、珍しく外出をしていた霧生とバスで鉢合わせたとき、居合わせた友人らのミーハーのような視線に、随分と機嫌を悪くしていたことはあった。
しかし、自分はなぜ、会いに行くことになっているのか。
看板作家の担当につくには、早すぎる気がする。上司の仕事ぶりから見て学べ、というのであれば、随分と変なタイミングだ。
「……なぜ私は、水無瀬先生の元へ?」
思い切って訊ねると、それを想定していたかのように、上司は軽く頷いた。
「まあ……正直なところを言うと。俺のキャパが、もう限界になってきたんだよな」
「……はい?」
「水無瀬先生は、徹底して手書きを貫いているから、打ち込み作業が必要になる。これ以上、他の作家を抱えながらやっていると、長生きできなくなる。だから、お前に引き継ごうと思って」
心臓が、どくりと音を立てた。
「まだ経験の浅い私が、担当になるのは、大丈夫なのでしょうか?」
「慣れるまでは、俺と共同体制にする。安心しろ。それに、水無瀬作品の理解度は、お前の方が高いかもしれない」
もちろん、霧生響という作家を知っている以上、その自負はある。けれど、今まで待ち望んでいたことに加えて、重大な仕事を任せられることに、不安が湧いてくる。
そもそも、こんなに浮ついた気持ちのまま、会えるものなのか。
「大丈夫だ。今日はただの顔合わせだ。あまり肩に力を入れすぎるなよ。ほら、もう着くぞ」
タクシーは閑静な住宅街の中を進んでいき、鍛鉄風の門の前で止まった。
門扉の横の植え込みでトクサが背を伸ばしており、故郷を思い起こされた。
「中村さん、早く」
上司の声に現実に引き戻されると、敷地の中へ足を踏み入れた。
(随分広いと思ったけれど……ここ、集合住宅なんだ)
マンション、という括りなのだろうが、ぱっと見ではその印象は薄い。小さな街のような、なんというか。少し違う世界が広がっているような、そんな場所だった。
階段を登り、最上階の廊下を進む。そして、一番奥突き当たりの扉の前へ立つと、上司はインターホンを押し、そのままカードキーをかざし、解錠してしまった。
「先生は、性格は気難しい。が、意外にも、防犯意識や空間意識は低い。だから、そのまま入ってきても構わないとは言っているが……一応、俺はインターホンを押してから入っている」
上司は扉を開くと、「入れ」というように、顎で促してきた。
無意識のうちに溜め込んでいた唾を呑み込み、玄関へ入ると――懐かしい、あの煙管から漂う特徴的な薫りが鼻をくすぐった。
「全く……また室内で、吸っているな? 原稿に匂いがついちゃうじゃないか」
上司は手早く靴を脱ぐと、奥へと進んでいく。
「ああ、水無瀬先生。寝ながら吸うのだけは、勘弁してください。火事になったらどうするつもりですか」
あの煙管から出ていた香りが、あの古びた家に、足を踏み入れるような感覚を巻き戻す。
(あの人の、香りだ……)
上司の入った部屋へと、足を一歩、一歩と進める。
「先生。原稿、どこですか? まさか、この散乱したやつですか?」
部屋へ踏み入れると、差し込む陽の光に一瞬、目が眩んだ。思わずぎゅっと目を細め、ゆっくりと上司が向いている、白いソファに座る人物に目を向ける――
――無造作なのに、艶のある黒い髪。彫刻のように整った中性的、人間離れして美しい横顔。
煩わしげにかかる髪をかき上げ、わずかに顔を上げた霧生響――否、水無瀬朔と目が合う。
榛色の目がわずかに見開き、一瞬きらりと、金色に光った。
「……なん、で」
じっと食い入るように見つめてくる。水無瀬朔は、掠れた声で呟いた。
「いや。お話したでしょう? 新しい担当を連れてくると。お忘れですか?」
水無瀬朔は、上司の言葉に反応を示すことなく、ただこちらを見る。
(人生で一番、驚かせられた、かな)
少しの優越感が湧き上がると同時に、喉元に迫り上がる熱いものを、静かに丁寧に押し込んで、姿勢を正す。
「中村珠依です。よろしくお願いいたします」
お辞儀をして頭を戻すが、まだ彼はこちらを、穴が空きそうなほど凝視している。
その視線に刺激され、今すぐ言葉を出してしまいたい衝動が起こるが、ここでは絶対ダメだ。
「来月から、私と中村の共同で担当します。それから、原稿の打ち込みも、中村に任せようと思いますので……水無瀬先生。聞いていますか?」
「……でかい声を出すな。こんな近くで」
ようやく、彼は上司に視線を移した。
「聞こえているなら結構。それで、先日お送りした箇所について、対応してくださいましたか?」
上司の言葉に胡乱げな顔をすると、彼は、顎で床に散らばる原稿を指し示した。
「勘弁してくださいよ……とりあえず、その煙管の火、消してください。中村さん、手伝ってくれ」
返事と共に鞄を床に下ろし、床に広がる原稿の回収を始める。拾い上げるそれに書かれているのは、やはり霧生響の字だった。
(ようやく……追いついた。あなたに)
電子音が部屋に響くと、上司はため息をつきながら、携帯を取り出す。
「印刷所か……ちょっと電話出てくるから、続きよろしく」
まとめた分を、私の手の中の山に重ね、上司は玄関へ慌てたように向かう。
もしもし、という声と共に扉が閉まる音がした。
薄い氷のような沈黙が、張り詰める。
六年間、この瞬間を、何度想像しただろう。怒鳴ってやろう、と思っていた時期もあった。泣いてしまうかもしれない、と思っていた時期もあった。気の利いた言葉の一つも用意しておけばよかったと、今更思う。
けれど、実際に目の前にいる霧雨は、ただこちらを見ている。六年前と、何も変わらない顔で。
原稿を揃え続けるが、彼は動かないまま、じっと見つめてくる。そうして、最後の二枚を回収したところで、彼はようやく口を開いた。
「……いつから、知っていた?」
唾を飲み込む。平静さを装わなければ、自分の中で崩れてしまう気がしたから。
「水無瀬朔の正体について、ですか? 大学二年の冬です。ここに来るまで、確信はありませんでしたが……」
原稿を揃え終わる。ゆっくりと立ち上がってみたが、やはり沈黙が続く。
六年分の言葉が、どこから口にすればいいか分からないまま、喉元で詰まっている。けれど、これだけは言わなければと決めていたことだ。
「そういえば、まだ言ってなかったね。最終回の感想」
胸に詰まっていた息を吐き出し、後ろへ向き直る。正面から、ソファに座ったままの鬼神――霧雨を見据えた。
「霧生せんせ……『月の路』の最終回は、あなたらしくなかった」
霧雨は、そっと視線をそらすと、目を伏せた。
「丁寧に積み上げてきたものを、最後だけ雑に切った。依良の物語は、あそこで終わる必要がなかった……勝手に、終わらせないでほしかった……」
目の奥が熱い。けれど、ここで止まってしまったら、もう言葉は一生、お腹の中で沈殿していくだけのような気がした。
「あなたに、たくさん救ってもらって、守ってもらってきたことは分かっている。あなたに比べたら私は、いつまで経っても何も出来ない子どもなのかもしれない。でも、私はもう、与えられるのをただ待つほど無邪気じゃないし、言われたことをそのまま受け取るほど素直じゃないの」
霧雨は、何も言わない。遮りもしない。伏せた目のまま、ただ受け止めているのか、静かに聞いている。
「私の未来は、自分で決めていくの。だから、村から離れて進学する道も選んだのよ。今ここで働いているのも、全て私が決めた道なの」
霧雨の指が、膝の上でかすかに動いた。
握り込んだ手のひらに、爪が食い込む。
「しっかり……私を見てほしい。話をしてほしい。『私の為』という言葉は捨ててほしい。選んだ道がたとえ苦しくても、自分で決めた道なら楽しめるの。だから……勝手に終わらせないでほしいの。これをどうしても、伝えたかった……」
全てを吐き出し終え、慌てて顔を背ける。溢れ出てしまったものを軽く指で拭ったが、すぐには引きそうにない。
(もうすぐ、帰ってくるかもしれないのに……)
涙とのせめぎ合いに格闘する。
この泣いた目を、なんと言い訳すれば良いのだろう。煙でやられたと言えばいいか? 小指を角にぶつけた、とか……?
目を擦ると視界の隅に、見慣れた青白い裸足が現れた。
「擦るな。目が取れるぞ」
物騒な言葉だけれども、随分響きの柔らかい声だった。
ゆっくり顔を上げると、霧雨が静かにこちらを見下ろしていた。金色の目が、自分を映していた。
「あの最終回の感想だけは、聞きたくなかった」
バツの悪そうな顔をして、言った。
千年をゆうに超えた存在が、なんだか子どもっぽく見えた。
「……自覚があったんだね。あれは、悪手だったってこと」
「まあ……そうしなければいけないと、思っていたから……」
そう言いながら、霧雨は小さく息をついた。
「……大きく、なった」
霧雨の掠れたその一言で、堪えていたものが緩んだ。
「もう、六年経ちましたからね。立派な大人です」
諦めて瞬きをすると、頬を伝った。口調は軽く出来たが、目の方はうまくいかない。
霧雨の目が、少し揺れる。涙にわずかながらも、動揺しているらしい。昔と同じように。
「私は……まだ紡いでいるから」
もう一度、言葉を紡ぐ。
この鬼神に、念押ししておかなくては。
「この物語は、あなたが始めてくれたものでしょう? 勝手に幕を引いて、目を背けたりしないで」
「……もう、言わなくていい」
霧雨のすらりとした指が、伝う水滴の跡をなぞるように、私の頬を撫でた。
黙ったまま、何も言ってはくれない。
けれども、分かってくれたのだろう。もう、目を逸らすことはしていないのだから。
「それにしても、せんせ……六年経ってもそのままの格好、なんですね」
霧雨の指がぴたりと止まった。
「……何が言いたい?」
「いや、その……都会で、しかもこんなに、おしゃれな所に住んでいるのに。服装だけ変わってないから。せっかくの見た目なのだから、いい服着たら……いたっ、痛いっ!」
突然頬をつねり上げられ、慌ててその手から逃れる。睨み返そうと見上げると、わずかに片側の口角を上げていた。
「何よ、そんなに――」
ガチャッと扉の開く音がして、慌てて言葉を飲み込んだ。
「すみません、お待たせしました。いや、立て続けに電話が来て」
上司がうんざりげな顔をして戻ってきた。
「中村さん、すまないな。原稿は全部回収できた、か……どうかしたか?」
変な空気を感じ取ったのか、私と霧雨の顔を見比べた。
「いや、別に」
そうぶっきらぼうに返した霧雨は、再びソファに身を沈め、サイドテーブルの煙管に、再び手を伸ばした。
「ベランダで吸ってくれませんか? その匂いどうにも苦手なんです」
「俺の家だ。文句あるなら帰れ」
上司は諦めたかのように息をつきながら、無言で私に手元の原稿を催促した。
「さて、原稿の方を、確認させていただきますよ。中村さん、ノートパソコンで、俺が渡した原稿から打ち込んでいってくれ」
「はい、承知いたしました」
上司は、手近の椅子に腰を掛けると、集中した様子で読み始めた。
私も近くのデスクに腰を掛け、ノートパソコンを起動する。ロゴが出て、ホーム画面が現れるのを待ちながら、ソファにちらりと目を向けると、麗しい顔で煙を吐く、霧雨と目が合った。
なんだか、形は少し変わったけれども、故郷の懐かしい空気に嬉しくなり、思わず頬を緩めてしまった。
霧雨は、ふっと煙を吐き出し——
――笑みを浮かべた。
いつかの、別れの時に見せた笑みを思い出させられたが、それよりも二段階ほど、柔らかい表情だった。
彼の笑顔は、二度目。十八年の付き合いをしていたけれど、これが二度目。
さっと頬に熱が上がるのを感じる。あの顔には、耐性なんてないのだ。
慌てて画面に視線を戻す。
「何だよ、急に」とでも言いたげな、怪訝な視線を感じたが、必死に目の前のことに、注意を向ける。
しかし、視線はいつまで経っても、私に突き刺さったままで。雑念を振り払うことと、仕事への集中を保つことが出来ないまま、昼下がりの緩やかな時間を、必死に過ごす羽目になってしまった。
居心地が悪い環境に浸りながらも――新しい、まっさらな頁が、そこに開かれた気がした。
長い世を 知らで過ごしき 逢ふまでは 斯くも深きと 思はざりけり
夢路より さめてなほ行く 春の野に 君待つ花は ここに咲きたり
結
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。これにて『月の柵』は完結となります。
ブックマーク、感想等いただけますと幸いです。
この作品は自分の夢が元ネタでした。もちろん、本当の元ネタは遡れば竹取物語になるのですが……
人間の姿形をした妖怪が、竹から生まれた娘を拾うが、近くに住む人間のもとに預け、ご近所さんとして接していくうち、娘は大きくなり、情も移っていく、という内容でした。面白そうだからいつか、何かの形にできたらと思って、こちらを書き始めた次第です。
誰かに読んでもらうという意識を持つことで、ここをもっと深めたいと書き加えたり、構成を入れ替えてみたり、様々な刺激をいただきながら、発信させていただきました。ありがとうございました。
また、別のストーリー(『月の柵』よりもずっと長く構想を温めている、未完長編です。全くこれとは世界観が異なるものですが……)を発信させていただき、刺激をいただきながら作品を作っていきたいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします!
【新連載のお知らせ】2026/7/7
鴉の贖い―Piaculum―の連載を7/5より開始いたしました。ぜひご興味あれば、覗いてくださると大変ありがたいです。
よろしくお願いいたします!




