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翡翠の涙、月光の赦し

 深夜の図書室。外は雨が降る音が優しく耳朶を打った。アマーリエは一人、家計簿を閉じて溜息をつく。公爵邸の贅沢な暮らしに馴染めば馴染むほど、彼女の心には正体の知れない恐怖が澱のように溜まっていた。

 そこへ、眠れないクラウスを抱いたエルヴィスが現れる。

「アマーリエ。……まだ起きていたのか。顔色が悪い。無理をさせているのではないか?」

 エルヴィスの労わりの声が、今の彼女には何よりも切なく感じた。彼女は思わず、自分でも驚くほど正直に独白を漏らしてしまう。

「……いいえ。無理なんてしていません。ただ、怖いんです。この絹の寝具も、香り高いお茶も、エルヴィスさまの優しさも。私には、これらはすべていつか返さなければならない借りにしか思えなくて」

「借り?」

「はい。没落して以来、私は何かを得るたびに、それ以上の何かを失ってきました。今、こうして幸福の中にいることが、何かの前触れのように思えて……。自分が幸せを願うことは、誰かから何かを奪うことなのではないかと、バカですよね。そんな風に考えてしまって」

 アマーリエは震える指先を隠すように、古びた子爵家の紋章が彫られた指輪を握りしめた。染み付いた「持たざる者の悲しさ」は、彼女が自分自身の幸福を肯定することを許さなかった。

 エルヴィスは、抱いていたクラウスをそっとソファに寝かせると、アマーリエの前に膝をついた。それは、公爵という地位にある男が決してしてはならない姿勢だった。

「アマーリエ、私を見て欲しい」

 彼は彼女の、まだわずかに荒れたままの手を優しく、だが逃がさない強さで包み込んだ。

「かつて私を『死なせない』と言ったのは君だ。責任を取れ、などとは言わない。だが、君が幸福を拒むなら、君に救われた私とこの子の存在は、一体どうすれば良い?」

「それは……」

「君は私を救うことで、私に『誰かを愛し、守る特権』を与えてくれた。君がこの家で贅沢を享受することは、私への負い目ではなく、私の願いを叶えることなんだ。……アマーリエ、頼むから、もうそんなに自分に厳しくしないでくれ。君が幸せを願うことは、私にとっても救いなのだから」

 エルヴィスの瞳には、かつて橋の上で見せた絶望の陰りはない。そこにあるのは、自分を救い上げた女性への、祈るような敬愛だけだった。

「君は、誰の代わりでも、何かの対価でもない。私の、たった一人のアマーリエだ」

 窓の外では、いつの間にか雨が止んでいた。

月光が差し込み、アマーリエの瞳に浮かんだ涙を翡翠のように輝かせる。彼女は初めて、握りしめていた指輪の力を抜いた。

「はい……。はい、エルヴィスさま……」

 アマーリエはほっと息をつき、エルヴィスの手の優しいぬくもりに、その身を預けた。

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