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その人の名は

 ガラガラと馬車の車輪の音が響く中、男は終始無言だった。無精髭の生えた顔は疲れ切っているように見えた。アマーリエは赤子を抱きながら考える。

(子どもを道連れにしてまで自殺を考えるほどの理由ってなにかしら)

 まさか我が家のように窮乏してというわけではあるまい。赤子のお仕着せも上質だ。

 やがて馬車は見慣れた門の前に止まった。

「ここは……廃屋ですか……?」

 男が窓から外を覗き込み尋ねる。

「失礼ね! ここが我が家――リーヴェスヴィンセン子爵家よ……!」

 アマーリエはそう抗議するものの、男の指摘はもっともであると思う。

 今にも崩れ落ちそうな錆びついた門扉、同じく荒廃した庭に、古ぼけた蔦の張った屋敷。庭には花の一輪も咲いてはいない。花など愛でる余裕はないのだ。そして宵闇が広がってきたというのに明

りがない。蝋燭を節制しているからだ。

ギギギと錆びた音がして門が開く。

アマーリエはさっさと赤子を連れてさして広くもない庭を歩いて玄関ホールに入った。


「アマーリエ! これは一体どういうことだ!」

 玄関ホールも暗い。燭台を灯した父が奥の方から駆け込んでくる。

「フェルゼンハント家の舞踏会には行ったのか」

「それが、父さま。途中で拾いものをして行けなかったわ」

「拾いものとは……その赤子とその男か」

「死のうとしてたのよ。放っておけなかったの」

「またおまえは、猫の子を拾ってくるような言い草を……うん……?」

 父は燭台の灯りを近づけじろじろと男を見て、ぎょっとしたように引き下がった。

「そ、その紋章……金の髪、ブルーグレイの瞳……まさか、ローゼンブルク公爵閣下!?」

 一瞬、部屋が静まり返った。

「なんですって!?」

「やっぱり!?」

 アマーリエとフェリクスの驚いた声が重なる。

公爵と言えば普通ならば言葉も交わすことどころか目通りもできない貴い方だ。

「はい……。いかにも私はエルヴィス・フォン・ローゼンブルクです」

 男――エルヴィスがが少しきまりの悪そうな声で答える。部屋が凍りついたような静寂に包まれる。フェリクスが息を呑む音が聞こえた。

 だが、アマーリエはすぐに気を取り直した。今はまず、赤子のことが最優先だ。

「父さま。取り敢えず応接間に明かりを灯してくれるかしら。こう暗くっちゃ、話もできやしないわ」

 慌てて駆けていく父を見送ると、アマーリエは眠った赤子をフェリクスに預けた。赤子は身動ぎして、ふぇ……と泣きだす。

「名前を聞いても良いかしら?」

「私ですか?」

「違うわよ、この子よ。あなたの名前はもう聞いたわ」

「ね、姉さま、もう少し言葉を選んでください」

 フェリクスの発言に、アマーリエはふん、と息を吐いた。

「子どもを道連れに身投げしようなんて考える人に、敬語を使う必要はないわよ」

 そう、アマーリエはとても怒っているのだ。

「……クラウス。クラウス・フォン・ローゼンブルクです」

「そう、クラウスさまね」

 アマーリエはその優しげな美貌には似合わない口調で続けた。

「とりあえず、話は聞かせてもらうわよ。あとクラウスさまは、離乳食はもうはじまってるわよね」

 その言葉に、エルヴィスがのろのろと顔を上げる。無言で頷くのを見てフェリクスに声をかける。

「なにか離乳食になるものを見繕ってくるわ。フェリクスはクラウスさまとエルヴィスさまをお願い」

「えっ……僕がお二人ともですか」

「あなただって弟妹の面倒は見てるでしょう。それと、エルヴィスさまがバカな真似をしないようにちゃんと見ておいて。我が家で公爵さまが自死なんてことになったら、大問題よ」

「はい。姉さま」

 泣き始めた赤子をあやしながら、フェリクスがきびきびと返事をする。それを見て、アマーリエは台所へと向かった。

 台所も薄暗い。アマーリエは燭台に明かりを灯すと、食材を探し始めた。硬いパンとミルク、ジャガイモを見つける。パンを細かくちぎってミルクを煮立たせその中に入れた。ジャガイモも茹でてマッシュする。皿にミルク粥とマッシュして柔らかくしたポテト、それと、残り少ない茶葉を見てため息をつくと、一人分だけ入れてアマーリエは応接室へと足を向けた。

「明日のミルクがもうないわ……あの子たちに我慢させるのは忍びないわね……」

 弟妹たちの顔を思い浮かべながら、アマーリエはまたため息をついたのだった。

(こんなに必死に生きているのに……死ぬだなんて贅沢許されないわ)

 トレイを持つ手が震える。

「ごめんね……きっと、なんとかするから」

 アマーリエの独り言が力なく台所に響いた。


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