ペルシアンラヴ 22
…そこへ荒木がやって来た。
荒木はマリヤムの前に跪いた。そして、少し顔を上げると、マリヤムの手を取って、額におしいただいた。
「あらあら。どうしたの」マリヤムは微笑みながら、されるがままになっていた。
「…旅が終わった気がします」
「でも、次の旅があるわね」
「はい」
「あなたも私も、まだまだたくさんの人に会わなければいけないわね」
「はい」
荒木は立ち上がった。
ここへ来てから初めて陽一は腕時計を見た。もう十二時半だった。
「お暇しよう」
荒木が普段の表情に戻って言った。
ファーテメとマリヤムが玄関まで見送ってくれた。
誰も、もうなにも話さなかった。
ずっと、ただ黙って見ていた加奈子と優も沈黙のまま、マンションの一室を後にした。
既にタクシーを呼んでいたので、ほどなくやって来た。
「…なんか、不思議に落ち着いた気分ね。アリが死んでしまったというのに…」
タクシーに乗って、少しの沈黙の後、佐々木が話した。
「…出会いも別れも、どちらもなにかが残るように思います」
「陽一君…あなた大丈夫? 神がかっちゃった? 」
「いや~、なにか分からないけど、叡智が宿ったみたいな」
「知恵熱…?」
「…アリが乗り移っているのかも」
「おいおい」
「大丈夫ですよ。いやだなあ」
佐々木が陽一の手をそっと握った。
「あ、またそうやって誘惑する」
「心配してんのよ! 」
頭を平手で叩かれた。
「あー、やったなー」
陽一は佐々木をハグした。
「姉さん…本当にありがとう…」
黙って佐々木は背中をさすってくれた。
艶めかしい香りがするなーと思いつつ、もちろん、そんな気にはならなかった。タクシーの運転手がちょっと驚いた顔でバックミラーから見ていた。
ホテルに着くと、加奈子と優がまず去った。
「皆さん、ありがとうございました。ふたりで一生懸命に生きていきます…新しい命とともに…」
そう加奈子が話すと、自然とふたりは荒木、佐々木、陽一の順でハグしあった。
そして、ふたりは笑顔で部屋へ向かった。
残されたのは三人。
佐々木は荒木に近寄った。
そして「呑もうよー」と言った。
あ、でも荒木さん手持ちの酒が尽きているのでは。
「部屋から持ってきます」
陽一はそう言うと、自分の部屋に急いだ。
アイリッシュウイスキーの「ジェイムソン」、バーボンの「メーカーズマーク」、ウイスキーの「シーバスリーガル」の三本を、紙袋に入れて持って行った。
荒木の部屋に行ってノックすると、陽気な声で
「入れ―」と言われた。
佐々木と荒木がイスに座っていた。
陽一が紙袋からボトルを出すと、ふたりとも喜色満面となった。
「おー、いい酒ばかりだな」
「陽一君、好きよー」
ったく、二人とも自分よりウイスキーが目当てかよ。
佐々木が浴室にも行ってグラスを三つ揃えた。
「さーどれからいくか。バーボンからにするか」
荒木がボトルの封を切って、グラスに注いだ。
「…まず、アリの死を悼もう」
厳粛な面持ちで、荒木はグラスを天にかざした。
アリの笑顔がみんなに宿った。
「さあ、今日はなにを話すか」
と言って、荒木が陽一を見た・
「ああ、信用創造とかの話をしてなかったな」
佐々木がグラスをいっきに空けるなり言った。
「ムズカシイ話はイヤだー」
まるでみゆみたいだ。女性って、みんなこんな風になるの?
「私、彼と結婚する。次に会ったらそう言う。そして、子ども産むんだー」
そう言って、佐々木はグラスに自らウイスキーを注いで、いっきに呑んだ。
「姉さん」と陽一が言っても聞かない。
「…やれやれ。これじゃあなあ」
そう荒木が言うと、佐々木は荒木に抱きついた。
「こら。何をするんだ」
添乗員として、難しいメンバーもいたツアーをなんとか終わらせられる、そしてとんでもないことも終わりの方で、いくつも起きた。佐々木のキャパも、もう限界だったのかも知れない。
抱きつかれながら、荒木は陽一に言った。
「こりゃダメだ。君はボトル一本持って部屋で呑め。オカシイことにはならんから」
陽一はふたりといたかったが、これじゃしょうがない。
「はい。そうします…」
「なにか迷ったら、いつでもおいで。高子も呑むだけ呑んだら落ち着くだろう」
「はい、ありがとうございます」
そう答えて荒木の部屋を出た。
持って帰ったのはアイリッシュウイスキーの「ジェイムソン」だった。呑みやすい酒で、するすると呑めた。アイルランドって、どんなところだろうとも思った。酔いが回るうちに、いろいろなことが脳裏に浮かんだ。
いちばん思ったのは、麻子の笑顔が見たい、それだけだった。そして、これからどうするのか。
銀行のオフィスが脳裏に浮かんだ。高給、いい暮らし…でも我慢ばかり。…このままずっといて、幸せになれるのか…
「パレスチナへ行こう」
そんな声が聞こえた。
自分が行って、なんになるのか、どんな役割が果たせるのか…でも、苦しんでいる人たちをどんな形でも助けたい、とも思った。麻子、これでいいかな…いや、自分の意思で行こう。誰かがやらなくていけないことは自分でやろう。今となってはどうでもいいことだが貯金は十分にある。
荒木の部屋に電話した。
「…すいません、陽一です」
「あー、ちょうどよかった。やっと高子が寝ついた。こいつもイイヤツだから、幸せになって欲しい」
そう言われて、荒木の部屋へ向かった。
部屋に入ると、高子がベッドで大いびきをかいて寝ていた。
「おう。疲れ切っているから、寝かせてあげなさい」
傍らには「メーカーズマーク」の空いたボトルがあった。
「さて、もう小難しい話はいらんだろう。イランだからいらん、なんちゃって」
荒木はおどけて見せたが、陽一は反応しなかった。
荒木は委細かまわず聞いてきた。
「これからどうする? 」
「パレスチナへ行きます」
自分でも驚くほど、きっぱりと言い切った。
荒木はすぐに反論はしなかった。
「…割と最近のことだが、ネットで衝撃的な写真と映像が見られた。ひとつは、射殺された一六歳の少女の遺体をそのままにして、すぐ横でコーヒーを飲んで談笑している兵士の姿の写真。そしてひとつの映像は、撃たれて血を流している一四歳の少女がもがくのを見て、人々が助けようとするのに、威嚇して近づけさせない兵士たち。そして、車イスに乗って近づいた男性をひっくり返す…。
こんなことが普通に起きるところだ。どちらの少女も、ナイフを持っていた、それで襲いかかったという情報もある。それを『撃つ』のは正当防衛とも言える、しかし…
日本だったら、どんな凶悪犯でも、撃たれて無力になれば拘束後に治療を受ける。拘束されたら裁判を受けさせる。ところが、しばしばあそこでは問答無用で射殺される…自爆テロはなくなった。しかし…今度はナイフによる襲撃が頻発している。もちろん、民間人を襲ったら、それもテロだが、そうせざるをえなくなる、ということがどういうことなのか…」
「…これを読んでみるといい。ファーテメのところにも置いてあったものだ。ある日本人の男性がパレスチナを訪ねて、実際に体験したことをつれづれに書いたものだ。もし、本当に君が行くとしたら、少なくとも、それをよく読んでからにしたほうがいい」
コピー紙を簡単に綴じたのものだったが、割と厚さがあった。
「では、とにかくじっくりと考えるんだぞ」
荒木は、陽一の肩に手をかけてそう言うと「おやすみ」と言ってソファに毛布を広げ始めた。
自分の部屋に帰ってじっくり考えよう。
部屋に戻り、ベッドに寝転んだ陽一は、すぐに読み始めた。
1-1 ヘブロン
「強者のパレード」
「…それはよく出来た寸劇のようであった。しかし、これは現実だ。あまりにも劇的だが現実だ。劇的過ぎるがために、脳裏ではどこか夢の中の出来事のようになったのかもしれない。
いきなり現れたのは、銃を手にした兵士だった。迷彩服を着、ヘルメットも着用したフル装備だ。少し背を屈め、左右を確認しながら近づいてくる。戦場を行くようである。いや現実に、ここは戦場なのだろう。
石畳の道はところどころでうねっている。両側には岩の壁をくり抜いて築いたような商店が、本来は賑やかに並んでいるはずなのだが、ほとんどが緑色に塗られた旧式の鉄の扉で閉められたままだ。旧市街の中央近く、イスラーム世界でいうところの賑やかな市場スークの真っ只中、である。だが人通りは少なく、喧騒も存在しようがない。
事情を知らなかったから、休みで閉めているのかくらいに思ったが、そうではない。曲がりくねったスークの通路の上には、網のようなものが何重にもかけられている。雨よけにしてはおかしいし、なんのためだろうと思ってよく見ると、ビニール袋やら布切れ、紙くずなど、ゴミがいくつもひっかかっている。
スークの建物の二階を、熱狂的なイスラエル人入植者セトラーが占拠し、上から通行するパレスチナ人に向かってゴミを投げつけるのだそうだ。網はそのためにかけられた防護用のものなのである。後で聞いた話では、まだこの程度はよいほうで、生ゴミやガラスのボトルなどもよく投げ落とされてきて、酷い例では生きた犬が投げられたことさえあるそうだ。本当かと地元の青年に聞いても真顔で事実だと言う。すべて、単に「いやがらせ」のためだ。下の商店の多くはそのこともあって「閉店」を余儀なくされているのだという。
…兵士の後に続いてきたのは、ユダヤの丸い帽子キッパを被った、主に男たちだった。胸に乳幼児を抱えていたり、幼児の手を握っていたりする者もいる。総じて大柄な男が多く、大きな顔は髭で覆われていることが多い。マクペラの洞窟のユダヤ教会での礼拝を終えて出てきたところのようだ。
子ども連れではあるが、まったくのどかさはない。顔を見るとぎょろりとねめつけられた。歩きながらも周囲をそっくりかえって睥睨しているような雰囲気がある。夜の新宿の歌舞伎町を巡回するやくざを思い出させる。既に脇に寄っていたので、私たちの一行は押しのけられるということもなく、ただ通り過ぎていく彼らを呆然と眺めているだけであった。
そんなときに、近くの商店の軒先に腰掛けているパレスチナ少年の姿が目に入った。よく見ると、からだ全体が小刻みに震えている。濃い赤のセーターを着て、グレーのズボンを履いた、世界のどこにでもいそうな少年だ。しかし、顔を見ると、目が飛び出さんばかりに大きく見開かれている。あらぬ一点を凝視したまま止まっている。恐怖か、怒りか…いずれにしても、少年の異常な状態は、ここで「何が起きてきたのか」を十分に察させる。少年は店の中に逃げ込むこともできず、ただ恐怖と戦慄が己の全身を覆うに任せ、そのまま座り込んでいる。(つづく)




