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第2話 森は待ってくれない

 冷たい泥が口の中へ入った。


「がっ……!」


 顔を上げ、喉に詰まった泥を吐き出す。何度も咳き込むうちに肺へ冷たい空気が入り、胸の中心で心臓が激しく脈打ち始めた。


 白い空間では感じなかった鼓動だった。


 生きている。


 そう理解した直後、腰と肩に鈍い痛みが広がった。


 手を握る。足首を動かす。泥の中へ落ちた衝撃は残っているが、骨が折れた様子はない。


 両手を地面につき、身体を起こした。


 足元には黒い泥と、腐りかけた落ち葉が積もっている。霧に近い細かな雨が、途切れることなく降っていた。


 周囲には、見たこともないほど太い木々が立ち並んでいる。幹だけで小さな家ほどの幅があり、何本もの根が地面を割って隆起していた。枝葉は遥か上空で絡み合い、空をほとんど覆い隠している。


 わずかに差し込む光は、既に夕方の色をしていた。


「ここが……異世界か」


 呟いても、答えは返ってこない。


 立ち上がると、身体の感覚が以前と少し違った。目線が低い。身長を5センチ削ったせいだろう。重心も僅かに変わっているが、脚には以前より力が入りやすい。


 服もバイト帰りのものではなかった。厚手のシャツと丈夫そうなズボン。腰には火打ち道具の入った袋があり、背中には薄い毛布が括りつけられている。


 足元だけは、事故に遭った時に履いていた黒いスニーカーのままだった。既に泥水を吸い、靴下まで冷たくなっている。


 近くの泥には、水袋と小型ナイフが落ちていた。拾い上げて腰へつける。


「ステータス」


 何も起きない。


「メニュー。能力一覧」


 白い画面は現れなかった。


 未使用の1ポイントが残っているはずだが、確かめる方法すらない。


 ――使用可能な環境下において使用できます。


 あの女の答えを思い出す。結局、何も教えられないまま放り出された。


「おい! 見えるぞ!」


 男の声が頭上から響いた。


 木々の隙間を見上げると、1人の男がゆっくりと空へ昇っていた。背中に翼はない。見えない糸で身体を吊り上げられているように、霧の中へ上昇していく。


「飛行能力だ! 上から出口を探せる!」


 白い空間にいた人間だと思うが、顔までは覚えていない。


「ほかの奴も集まれ! 俺が――」


 男の上を、巨大な影が横切った。


 羽音はしなかった。


 男の声が途切れる。


 次の瞬間、腰から上が消えていた。


 残された脚が数秒だけ空中へ浮かび、枝の間へ落ちていく。細かな雨に混じって、生温かいものが葉を叩いた。


 俺は反射的に大木の幹へ背中を押しつけた。


 白い空間では、飛行能力が羨ましかった。空を飛べば森から出られる。地形も仲間も見つけられる。


 その上空に何がいるのかなど、一度も考えなかった。


 胃の奥が、急に冷たくなった。


 危険察知。


 これが能力の反応なのか、ただ恐怖で気分が悪いだけなのか分からない。


「誰かいますか!」


 少し離れた場所から、女性の声が聞こえた。


「怪我人がいます! 手を貸してください!」


 聞き覚えのある声だった。白い空間で、運を下げない方がいいと教えてくれた看護師。


 一瞬、返事をするのを迷った。声を出せば、森にいる何かへ自分の位置を知らせるかもしれない。


 だが、1人で残る方が危険だった。


「今行きます!」


 声の方向へ走る。


 泥へ足を取られながらも、以前より踏ん張りが利いた。息もすぐには切れない。身体能力を上げても、別人のように強くなるわけではない。それでも、身体が少しだけ自分の意思についてくる。


 根を何本も越えた先に、小さく開けた場所があった。


 そこには5人いた。


 紺色のスクラブを着た女性が、若い男の太腿を押さえている。男の脚には折れた枝が深く突き刺さり、流れた血が泥へ混じっていた。


 その隣では、中年の男が縄と木の棒を地面へ並べている。少し離れた場所には、膝を押さえた若い女性と、青ざめた顔で立ち尽くす男がいた。


「止血できる人はいませんか!」


「俺、簡易止血を取りました」


 答えてから、どう使うのか知らないことに気づいた。


 技能名を唱えるのか。傷口へ触れれば、魔法のように塞がるのか。


「お願いします。このままだと出血が続きます」


 促され、負傷者の横へ膝をつく。


 傷を見た瞬間、何をするべきかが頭の中へ浮かんだ。


 枝は抜かない。傷口の周囲へ布を当て、動かないよう固定する。出血している箇所を圧迫する。締めすぎれば、脚そのものを傷める。


 声が聞こえたわけではない。文章を思い出したわけでもない。


 最初から知っていたように、手順だけが身体へつながった。


「布はありますか」


「これを使ってください」


 看護師の女性が、細長く畳まれた布を渡してくる。


 俺は枝の周囲へ布を重ね、両手で押さえた。負傷者が身体を跳ねさせる。


「痛い! もっと軽くしろよ!」


「軽くしたら血が止まりません。脚を動かさないでください」


 女性が男の肩を押さえた。


「ゆっくり呼吸して。枝には触らないでください」


 俺の手は震えていた。だが、何をすればいいかだけは分かる。


 簡易止血は傷を治す能力ではない。血を止めるための知識と動作を、俺の身体へ押し込んだ技能だった。


 しばらく圧迫を続けると、布へ広がる血が遅くなった。


「完全には止まってません」


「今はそれで十分です」


 女性は男の顔色と呼吸を確認し、俺を見る。


「白い場所にいましたよね」


「瀬川直人《せがわなおと》です」


「久保田真里《くぼたまり》です。さっきは来てくれて、ありがとうございます」


 中年の男が木の棒を持って近づいた。


「野上宗一《のがみそういち》。こいつの脚を固定する。久保田さん、位置を見てくれ」


 余計な挨拶をするより先に、手を動かす人だった。


 久保田さんが枝の周囲を確認し、野上さんが2本の棒を脚へ添える。縄を直接巻けば血が止まりすぎると言われ、布を挟んでから固定していく。


 膝を押さえていた女性が、片脚を引きずりながら寄ってきた。


「私、佐伯凛《さえきりん》。凛でいいよ」


 年齢は俺より少し下に見える。転んだらしく、頬と両手が泥で汚れていた。右膝のズボンが破れ、擦り傷から血が滲んでいる。


「その脚、大丈夫?」


「走るのはできる。止まるのが無理」


「どういう意味?」


「敏捷性を95まで上げた」


 聞き間違いかと思った。


「95?」


「誰より速ければ、逃げられると思ったんだけど」


 凛が苦笑する。


「走り始めたら、自分の足が速すぎて曲がれなかった。木を避けようとして、根に膝から突っ込んだ」


 敏捷性だけを上げても、筋肉や骨、反応のすべてが同じように強くなるわけではない。


 白い空間で見た警告を思い出した。


「歩ける?」


「ゆっくりなら。でも、何か来たら私が先に見てくるよ」


「今はやめた方がいい」


「歩いてる間に暗くなった方が危ないでしょ」


「速く行って戻れなくなったら、見に行く意味がない」


 凛は不満そうに俺を見た。


 野上さんが縄を締めながら口を挟む。


「まず、怪我人を動かす方法を決める。それまでは誰も勝手に行くな」


「野上さんが決めるの?」


「別に従わなくてもいい」


 野上さんは顔も上げなかった。


「ただ、日が沈んでから1人で走りたいなら、止めはしない」


 凛は口を閉じた。


 その時、胃の奥が急に重くなった。


 危険察知。


 さっきの飛行する男を見た時よりも、はっきりしている。


「何かいます」


 俺は立ち上がった。


「どこに?」


 久保田さんが尋ねる。


「分かりません」


「分からない?」


「方向も距離も出ないんです。ただ、危ないとしか」


 全員が周囲を見回す。


 霧と雨。太い幹。絡み合った根。


 森はさっきまでと何も変わらない。


「本当に能力なのか?」


 立ち尽くしていた男が言った。


「怖くなっただけじゃないのか」


「その可能性もあります」


「じゃあ役に立たないだろ」


 男が苛立ったように吐き捨てる。


 野上さんは近くに置いていた斧を拾った。


「役に立つかどうかは後で考える。今は、ここから離れる準備をする」


「怪我人をどうするんだよ」


「担ぐ」


 野上さんが男の腕を自分の肩へ回す。


「瀬川、反対側を持てるか」


「はい」


 負傷者の腕を肩へかける。久保田さんが傷ついた脚を支えた。


 凛は周囲を見回し、最後に残った男へ声をかける。


「あなたも行こう」


 男は返事をしなかった。


 1本の巨大な幹を見上げたまま、動こうとしない。


「どうしたの?」


「今、動いた」


 男が指を差す。


 幹の表面には、縦に長い瘤があった。何枚もの樹皮が重なり、剥がれかけた古い傷のように見える。


 その瘤が、僅かに膨らんだ。


「離れろ!」


 俺が叫んだ。


 樹皮が左右へ開く。


 幹そのものが割れたのではない。


 木へ張りついていた平たい身体が、外殻を広げた。


 胸から腹にかけて縦長の裂け目が走り、その内側には赤黒い肉と、細かく並んだ歯が見えた。


 地面へ垂れていた枝のようなものが持ち上がる。長い前脚だった。


 男は逃げようとした。


 前脚が脇の下へ巻きつき、身体を持ち上げる。


「助けて!」


 凛が手を伸ばす。


 野上さんが止めた。


「行くな!」


 男は一瞬で幹へ引き寄せられた。裂け目の中へ上半身が入る。


 足が樹皮を蹴り、泥を撒き散らした。


「待って、助け――」


 裂け目が閉じた。


 声が途切れる。


 外殻の内側から、硬いものを砕く音が続いた。


 誰も動けなかった。


 俺の胃が締めつけられる。


 危険察知は正しかった。


 正しかったのに、どこから来るのか分からず、1人を救えなかった。


「走れ!」


 野上さんの声で身体が動いた。


 負傷者を支え、森の中を進む。腕へ男の体重が食い込み、泥に沈んだ靴が何度も脱げそうになる。露出した根を越えるたび、傷ついた脚を支える久保田さんの呼吸が乱れた。


 凛は俺たちより先へ出ては、何度も無理やり速度を落としている。数歩で遠くへ行ける。だが、止まるたびに木へ手をつき、膝を庇っていた。


「左!」


 凛が叫んだ。


 何がいるのかは見えない。それでも、全員が右へ進路を変える。


 後方で樹皮が擦れる音がした。


 追ってきている。


 俺の危険察知は消えない。どこを向いても、胃の奥に冷たい塊が残っている。


 この森全体に反応しているようだった。


     ◇


 どれほど進んだのか分からない。


 遠くで、乾いた破裂音が響いた。


 青白い光が霧の向こうを照らす。遅れて、誰かの悲鳴が聞こえた。


「人がいる」


 凛が走り出しかける。


 俺は反射的に腕を掴んだ。


「1人で行かないで」


「でも」


「全員で行く」


 凛は一瞬だけ俺の手を見た。振り払わず、歩調を落とす。


 光が見えた方向へ進むと、焦げた臭いが濃くなった。


 地面には、犬に似た小さな生き物が倒れている。身体は黒く焼け、6本の脚が縮こまっていた。


 その先に4人いた。


 若い男が右手を押さえて立っている。指先から手首にかけて皮膚が赤黒く変色し、細い煙が上がっていた。


 その前には短い槍を構えた女性。少し離れた場所には、外国人の女性と、中学生くらいの少年がいる。


「近づくな!」


 槍を持った女性がこちらへ向き直る。


「怪我人がいます!」


 久保田さんが答えた。


 女性は俺たちと負傷者を見比べ、槍先を下げた。


 右手を押さえた男が鼻で息を吐く。


「こっちは一匹倒した。そこにいるのも、俺の雷で」


「右手を見せろ」


「先に名前くらい聞けよ」


「その手で次も撃てると思ってるなら、先に診てもらえ」


 白い空間で聞いた2人の声だった。


 雷魔法を選んでいた男と、短槍術の説明を読んでいた女性。


「新堂圭介《しんどうけいすけ》」


 男がぶっきらぼうに名乗る。


「雷魔法Ⅱ。見てのとおり使える」


「早川沙耶《はやかわさや》」


 女性は短く答えた。


「こいつの言うことは半分だけ聞け。撃てるのは本当だが、使えているとは言い難い」


「倒せたなら使えてるだろ」


「自分の手まで焼いてる」


「初回だから出力調整に失敗しただけだ」


 久保田さんが新堂の右手へ近づく。


「胸は痛くありませんか」


「何で胸?」


「脈が乱れています。息も浅い」


「魔法のこと、分かるのかよ」


「魔法は分かりません。あなたの身体を見ています」


 新堂は言い返しかけたが、胸元へ左手を当てた。


「……少しだけ、変な感じはする」


「次に使う前に必ず言ってください」


「次に使わなきゃ、こいつらに食われるかもしれないだろ」


「使うなとは言っていません。身体の状態を隠さないでください」


 新堂は納得していない顔をしていた。


 外国人の女性が、俺たちへ慎重に近づいてくる。自分の胸へ手を当て、ゆっくりと名前を口にした。


「エマ・クラーク」


 名前だけは聞き取れた。


 エマは続けて、隣にいた少年を指す。何かを伝えようとしたが、俺には名前以外の意味が分からない。


「吉岡湊《よしおかみなと》です。14歳」


 少年自身が日本語で名乗った。


「日本人だったのか」


「はい。エマさんと一緒に逃げてました。話してることはほとんど分からないですけど、名前と身振りくらいなら」


 湊はそう答えながらも、周囲の木々へ視線を動かしている。俺たちが話している間も、耳を澄ませ続けていた。


「さっきの化け物、まだ来てます」


「見えるの?」


「見えません。でも、右後ろから樹皮を擦る音がします」


 全員が右後方を見る。


 俺の危険察知は、方向を教えてくれない。


「どれくらい離れてる?」


「分かりません。少なくとも一匹じゃないです」


 野上さんが迷わず言った。


「移動する。立ち話は終わりだ」


 新堂が反発する。


「逃げ続けても同じだろ。来たところを俺が撃てばいい」


「次に気を失ったら、誰が担ぐ」


 早川さんが新堂の肩を押す。


「歩け。撃つのは、逃げ道がなくなってからだ」


 新堂は舌打ちしたが、従った。


     ◇


 日が落ちる速度が早かった。木々の上に残っていた光が、歩くたびに弱くなる。


 森の中では、あちこちから人の声が聞こえていた。


「こっちに10人いる!」


「火を使える人はいないか!」


「娘を見ませんでしたか!」


 どの声へ向かえばいいのか判断できない。返事をしても、声の主が生きている人間だという保証はなかった。


 途中で数人と合流し、別の数人を見失った。


 高価な剣を持った男が、1人で先へ進むと言って離れた。極端に身体を軽くしたらしい女性は、木の根を越えるだけで足首を痛めた。


 魔法の光を空へ打ち上げた集団がいたが、その直後、樹上から黒い影が降り始めた。


 誰も助けに行けなかった。


「止まって」


 湊が小さく言った。


 全員が足を止める。


「前に人がいます。子どもの声も」


 木々の間へ進むと、4人が巨大な岩の陰へ身を寄せていた。


 短い刃物を構えた女性が、小さな女の子を背中へ隠している。その横には若い東アジア系の男と、頭に布を巻いた女性がいた。


「大丈夫です!」


 エマが英語で呼びかける。


 短剣を持った女性が、すぐには武器を下ろさない。エマが何度か言葉を交わし、自分たちも白い空間から来たと伝える。


「イサベル・ロメロ」


 女性が自分を指す。


 次に、背中へ隠れていた少女の肩を抱いた。


「ルシア」


 少女は8歳くらいに見えた。母親の服を強く握り、誰とも目を合わせようとしない。


 東アジア系の男は、


「パク・ジュノ」


 と名乗った。


 日本語ではなかったが、名前だけは分かった。


 最後の女性は、比較的流暢な英語でエマと話した。


「アミナ・ハダド」


 久保田さんが、アミナの指先を見た。


「何か食べましたか」


 言葉は通じなかったが、身振りで口元を示す。


 アミナは腰の袋から、赤い木の実を1つ取り出した。甘い匂いがする。表面には、鳥につつかれたような小さな痕があった。


 エマが通訳する。


「鳥みたいな動物が食べていたから、安全だと思ったそうです」


「残りは食べないでください」


 久保田さんが実を布で包む。


 アミナは戸惑った顔をしたが、抵抗はしなかった。


「症状は?」


「少し舌が痺れる、と」


 久保田さんの表情が硬くなる。


「いつ食べたのか聞いてください」


 エマが質問する。返事を聞き、指を使って時間を示した。


「それほど前ではない。落ちてから、すぐだそうです」


「吐かせた方がいい?」


 俺が聞く。


「今ここで無理に吐かせる方が危険です。まず、安全な場所を探します」


 アミナの足取りは普通に見えた。


 それが、かえって不安だった。


     ◇


 パクと野上さんが、岩の周囲を調べた。


 巨大な岩盤が斜面へ突き出し、その下に人間が入れる空間がある。入口は広いが、背後と左右を石に囲まれていた。


 奥には細い亀裂がある。大人は通れそうにない幅だった。


 パクが岩肌を叩き、地面の傾きを確認する。野上さんも頭上を見上げ、崩れそうな石がないかを調べた。


 2人は言葉が通じていない。それでも、互いに見た場所を指し、最後には同じように頷いた。


「完璧じゃないが、森の中に立っているよりはいい」


 野上さんが言った。


 既に10数人が集まっている。別の方向から来た人間も、岩陰の火を見つけて近づいてきた。


 全員の名前を確認している余裕はなかった。


 空は、もうほとんど暗い。


 火打ち道具を持っている者が何人かいた。乾いた布と、岩の下に残っていた枯れ枝を使い、小さな火を作る。煙は岩の縁を伝って外へ流れた。


 水袋は空だった。


「水が必要だ」


 俺が言うと、凛が森の一方向を指した。


「少し前に川の音がした。私ならすぐ見てこられる」


「1人では行かせない」


 野上さんが答える。


「明るいうちに戻れる人数だけで行く」


 俺と野上さん、久保田さん、早川さん、それから水袋を持った数人が川へ向かった。


 湊も同行を申し出た。


「音の場所が分かります」


「近くにいろ」


 野上さんが言う。


「勝手に先へ行くな」


 湊は頷いた。


 川は岩場からそれほど離れていなかった。


 幅は3メートルほどで、水は透き通っている。底にある白い石まで見えた。


「飲めそうじゃん」


 1人の男が岸へ駆け寄る。


 同時に、俺の胃が強く縮んだ。


「待ってください」


 男の腕を掴む。


「何だよ」


「危険察知が反応しています」


「水が危険なのか?」


「分かりません。水かもしれないし、岸や周りに何かいるのかもしれない」


「また分からないのかよ」


 男が俺の手を振り払う。


「喉が渇いてるんだ。能力が曖昧だからって――」


「持ち帰って沸かす」


 野上さんが遮った。


「火がある。今ここで飲む必要はない」


 早川さんが槍先で川岸の泥を示した。


 細長い痕が、いくつも残っている。水中から岸へ這い上がり、また川へ戻ったような跡だった。


 人間の足跡ではない。


 男はそれを見て、ようやく水から離れた。


 水袋と、誰かが初期装備で選んだ金属容器へ水を入れる。


 岩場へ戻る頃には、最後の光も消えかけていた。


 火へかけた水が沸くまで、誰も飲まなかった。喉が焼けるように渇いていても、待った。


 沸かした水を少しずつ回す。


 ルシアが受け取った容器を、先に母親へ差し出した。イサベルは首を横に振り、娘へ飲ませる。


 新堂は右手を冷やそうとして、久保田さんに止められた。


「川の水を直接傷へかけないでください」


「沸かしたら冷えるまで待たないと駄目だろ」


「待ってください」


「何でも待てって言うな」


「今使って感染したら、もっと長く待つことになります」


 早川さんが隣で笑った。


「お前、看護師には勝てないな」


「別に勝負してない」


 新堂は不満そうに答えたが、右手を引っ込めた。


 ほんの一瞬だけ、岩場の空気が緩んだ。


 その時だった。


「怪我人がいます!」


 森の暗闇から、女性の声が聞こえた。


 久保田さんの声だった。


「手を貸してください!」


 岩場の中にいる全員が、久保田さんを見る。


 本人は俺たちのすぐ隣に立っていた。


 外から、同じ声がもう一度響く。


「怪我人がいます!」


 今度は左側。


「手を貸してください!」


 次は右側。


 声の高さも、息の切れ方も、最初に久保田さんが助けを呼んだ時とまったく同じだった。


 湊が顔を上げる。


「来てます」


「何が?」


 俺の問いに、湊は暗闇を見たまま答えた。


「分かりません。でも、一つじゃない」


 霧の向こうから、落ち葉を踏む音が聞こえ始めた。


 一方向ではない。


 前から。


 左右から。


 そして、俺たちが安全だと思っていた岩場の奥からも。


 何かが、ゆっくりと近づいていた。

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