第8話:大きすぎるスリッパと、土曜の朝。
カサリ、とベッドのシーツが擦れる音。 カーテンの隙間から差し込む朝陽は、昨日の夕暮れのオレンジ色とは違う、どこか冷たくてまばゆい白光となって、狭いワンルームを隅々まで照らし出していた。
時計の針は、すでに午前9時を回っている。
「……んぅ」
微かな鼻鳴らしとともに、右腕にずっしりとした、だけど驚くほど柔らかい質量がのしかかってきた。 見下ろすと、そこには学校の男子たちが遠巻きに眺めることしかできないはずの「高嶺の花」が、見る影もなくふやけた顔をして熟睡している。
学校での完璧なまとめ髪はどこへやら、少しボサボサになった長い髪が俺の胸元に散らばっていた。 大きめの黒Tシャツを一枚だけ、下着の上からダイレクトに羽織っただけの格好で、俺の腕をがっちりと抱き枕のようにホールドしている。
寝返りを打つたびにTシャツの裾が派手にめくれ上がり、剥き出しの白い太ももや、昨日俺がこれでもかと刻みつけた薄赤い痕が、まばゆい朝陽の下に赤裸々に晒されていた。
「おい、春。起きろ。出かけるんだろ」
腕を少し動かして小突くと、春は「ん、んぅ……」とさらに腕のホールドを強め、俺の胸元にゴシゴシと額を擦りつけてきた。
「……せんぱい、どこ行くの……。まだ起きちゃダメです……」
耳元に届いたのは、普段のあざとい敬語すら抜けた、幼児退行したような掠れた甘声。 平日という仮面を完全に引き剥がされ、俺の部屋のベッドの熱にどろどろに溶かされた、一人のただの女の子の姿がそこにあった。
「置いてくぞ」
「忘れてないですっ!」
その一言で、春の長い睫毛がパチリと跳ね上がった。 ハッと目を見開いたかと思うと、慌ててベッドから跳ね起きる。その拍子に、だぼだぼのTシャツの裾が胸元の位置まで一気に捲れ上がったが、今のあいつは自分の無防備さに気づく余裕すらなさそうだ。
「うそ、もう9時ですか!? なんでもっと早く起こしてくれないんですか!」
「お前が腕離さなかったんだろ」
「それは先輩の身体が心地よすぎるのが悪いです!」
理不尽な言い訳を口にしながら、春はトタトタと軽い足音を響かせて、狭いユニットバスへと向かう。 俺もベッドから抜け出し、その後を追うようにして並んで鏡の前に立った。
春は自分のスクールバッグから取り出したヘアクリップで、ボサボサの髪を雑にアップにしている。俺の大きすぎるスリッパをパタパタと鳴らしながら、並んで歯ブラシを口に咥えた。
シャカシャカと静かな朝の部屋に響く、規則的な音。 鏡越しにふと目が合って、口元を白い泡だらけにした春が、喉の奥で小さく含み笑いをもらした。
「……んぐ、ぷは。……土曜日の朝から並んで歯磨きしてるの、なんか……ふふ、夫婦みたいですね」
「……バカ言え」
言葉にして俺をからかってくるくせに、鏡に映るあいつの耳たぶが、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのが丸見えだった。
洗面所を出ると、春はベッドの上に自分の私服を広げ始めた。 「おい、隠れて着替えろ」と俺が視線を逸らすと、春は待ってましたと言わんばかりに、あどけなさを装った小悪魔の顔に戻って微笑む。
「なんですか今さら。昨日、私のこと隅々までめちゃくちゃに見て、触って、いじめたクセに、何を恥ずかしがってるんですか? 先輩」
「それとこれとは話が別だ。いいから早くしろ」
「はーい。じゃあ、外で待っててくださいね。……私の、とびきり可愛い姿、楽しみにしててください」
確信犯の笑みを浮かべる春に背を向け、俺は部屋の窓を開けてベランダへと出た。 狭い足元にサンダルを引っ掛け、手すりに両肘を預けて、初夏の少し湿った風を浴びながら手持ち無沙汰にスマホの画面を眺める。
いつも通り無機質なニュースアプリを親指でスクロールしてみるが、文字は少しも頭に入ってこない。ふと画面の端に映り込んだ自分の顔が、どこか落ち着かない締まりのない表情をしているように見えて、すぐに電源ボタンを押して画面を暗転させた。
鏡のように黒く光るスマホの画面。そこに映る俺自身の背景に、網戸の向こう側、部屋の中で忙しなく動き回る春のシルエットがうっすらと浮かび上がっている。 Tシャツを脱ぎ捨てて私服に着替える、その一瞬のしなやかな体のラインが黒い画面越しに透けて見えるようで、俺は小さく息を吐き、わざとらしく視線を空へと逸らした。
階下の道路を通り過ぎる車の音や、遠くで鳴く蝉の声をぼんやりと聞き流す。 数分が経ち、網戸の向こうから、かすかに部屋のフローリングをパタパタと叩く足音が近づいてくるのが聞こえた。
カチャ、とサッシが小さく引かれる。
「先輩、もう入ってもいいですよ」
少しだけ誇らしげな、だけどどこか照れくさそうな声に促され、俺はベランダから振り返って部屋へと戻る。
「……お待たせしました。どうですか?」
そこに立っていたのは、平日の制服姿でも圧倒的だった、私服姿の白石春だった。
綺麗にデコルテが覗く淡い色のオフショルダートップスに、絶妙に脚のラインが際立つタイトなミニスカート。いつもとは違う、お出かけ用のほんのりと甘い香水の匂いが、さっきまで男一人でしけていた部屋の空気を一瞬で塗り替えていく。 ボサボサだった髪は綺麗に整えられ、軽く巻かれた毛先が彼女の動きに合わせて小さく弾んだ。
「……まあ、普通に似合ってんじゃないか」
「普通、ですか? ……その感想はちょっと冷たすぎません?」
わざとらしく唇を尖らせながらも、春は嬉しそうに胸を張る。
「でも、いいです。外に出たら、先輩が『普通』なんて言ってられなくなるくらい、独占欲を刺激してあげますから」
そう言って、春は鏡の前で最後のチェックを終えると、小さくウインクをして見せた。
それはまるで、これから始まる休日のすべてが、彼女の掌の上で転がされる前触れのようだった。 平日の「他人のフリ」というルールを一時的に忘れ、ただ俺のためだけにドレスアップした高嶺の花。その完璧な姿に、俺の胸の奥はすでに言いようのない焦燥感と独占欲で満たされ始めていた。
「さあ、行きましょう先輩。誰にも見つからない、二人だけの特別なデートです」
楽しげに鍵を手に取る彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は小さく息を呑む。 この日の選択が、俺たちの歪な関係をさらに深く、泥沼のような泥濘へと引きずり込んでいくことになるとは、この時の俺はまだ、気づいていなかった。
10話までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。毎日多くの方にページを開いていただけて、とても励みになっていますっ!
まだまだ未熟な作品ですが、「これから面白くなりそう」「応援してやるか」と思っていただけましたら、下にある評価(☆☆☆☆☆)やブックマークで、この作品を一緒に育ててもらえると嬉しいですっー!




