第9話:ガタンゴトンと、理性の崩壊する音
カチャリとドアを閉め、鍵をかける音が、やけに重く響いたような気がした。
狭い階段をトタトタと小気味よく下りていく春の後ろ姿を、俺は一歩遅れて追いかける。初夏のまばゆい陽光が容赦なく降り注ぐ路地へと出た瞬間、網膜がチカチカと痛んだ。まぶしそうに目を細めた春が、小さく白い手を額にかざして振り返る。
「ん、いいお天気。絶好のデート日和ですね、先輩?」
「……お前、外なんだから少しは警戒しろよ。誰に見られてるか分かんねえだろ」
俺は周囲の民家や、遠くの曲がり角に人影がないかを素早く見回しながら、声を潜めて窘めた。 平日の5日間、あれほど完璧に他人のフリを徹底しているのだ。もしこの土曜日の朝、学校の奴らに「あの白石春が、しけたアパートから男と一緒に出てきた」なんて現場を押さえられたら、一発で平穏な日常が消し飛ぶ。
だが、当の小悪魔はどこ吹く風で、ニシシと悪戯っぽく笑った。
「大丈夫ですよ。ここは学校の通学路からも外れてますし、それに……」
春は周囲に誰もいないことを確認すると、大胆にも俺との距離をゼロにした。 お出かけ用の、ほんのりと甘い金木犀のような香水の匂いが、一気につんと鼻腔を突く。細い腕が、躊躇いもなく俺の腕に滑り込んできて、ぎゅっと胸元に抱き込まれた。
「……っ、おい! 離せって!」
「やーです。ダメです。さっき部屋で『独占欲を刺激してあげる』って言ったじゃないですか。まずは小手調べです」
オフショルダートップスから剥き出しになった彼女の肩が、俺の腕にダイレクトに擦れる。ストッキングを穿いていない生脚の太ももが、歩くたびに俺のジーンズの生地をかすめていき、その吸い付くような熱量が、昨夜ベッドの中で貪り尽くした彼女の肉体の質量を嫌でも思い出させた。
「お前なぁ……」
「ほら先輩、そんなにビクビクしてたら、変質者扱いされちゃいますよ? 堂々としててください」
くすくすと喉を鳴らして笑う春の瞳は、朝陽を浴びてキラキラと輝いている。その奥にあるのは、リスクを楽しんでいるスリルへの興奮と、何より「お出かけ用の私服で、先輩の隣を歩いている」という、純粋なまでの嬉しさだった。
駅へと向かう並木道。週末の午前中ということもあって、すれ違う通行人の数はまばらだったが、それでも、向こうから歩いてくる大学生風の男たちの視線が、一瞬で春へと釘付けになるのが分かった。 当然だ。綺麗に露出した鎖骨の白さ、タイトミニから伸びるしなやかな生脚、そして誰もが振り返る圧倒的な美貌。男たちが一様に息を呑み、それからその隣にいる冴えない俺を、値踏みするような、あるいは嫉妬に狂ったような目で睨みつけてくる。
その瞬間、俺の胸の奥で、どろりとした黒い感情が鎌首をもたげた。
(……見んな、クソが)
こいつらは何も知らない。 この誰もが羨む高嶺の花が、週末になれば俺の狭い部屋のベッドで、涙目で名前を呼びながらどんなに淫らに乱れているか。普段は俺のダボダボの服を着て、普段とは違う、無防備な格好を見せるのか。 そのすべてを知っているのは、世界中で俺だけだ。
腕に無意識に力が入ってしまったのを見逃さず、春が、俺の顔をぐっと下から覗き込んできた。熱を帯びた、ドロドロに潤んだ小悪魔の瞳が、俺の独占欲を完全に味わい尽くすように細められる。
「ふふ、先輩、いま凄く怖い顔してます。……他の男の人が私のこと見てるの、そんなに嫌でした?」
「……別に」
「嘘つき。腕、すっごく強張ってますもん。……いいんですよ? ……なんなら、今からでもどこかの個室に閉じこもっちゃいます?」
耳元で囁かれる吐息が、夜の続きを強いるように甘く、熱い。 付き合っていない。ただの先輩と後輩。 なのに、外の世界に出た途端、彼女の存在は俺の理性を内側から焼き尽くしていく。
「……行くぞ。さっさと電車乗るからな」
「はーい、楽しみですね! せーんぱいっ」
平日の鉄壁の優等生が、いま、俺の腕の中で完璧に蕩けている。 その歪な優越感と焦燥感に脳を狂わされながら、俺たちは駅の改札へと向かって、さらに深く、秘密の休日へと足を踏み入れていった。
※
土曜日の午前中の下り電車は、予想していたよりもずっと空いていた。
まばらな乗客たちがそれぞれ離れた席に腰を下ろしている車内。俺たちは並んでロングシートの端に腰掛けた。ガタンゴトンと規則的な振動がシートを通じて体に伝わってくる中、春は当然のように、俺との境界線をすべて消し去る距離まで詰めて座ってきた。
「……おい、席空いてんだから、もうちょっと離れろ」
「やーです。電車の中って冷房が効いてて、ちょっと肌寒いんですもん」
そう言って春は、真っ白な両肩をわざとらしく小さくすくめてみせた。そして、俺の左腕を自らの胸元へと引き寄せ、まるで自分の所有物であることを誇示するように、ぎゅっと深く抱き込んできた。
トップス越しに伝わる、形を失うほどに押し潰された肉体の、狂おしいほどの柔らかさと弾力。生身の熱量がダイレクトに腕を伝って脳へ突き抜ける。
「春、お前な……っ」
「なんですか? 私はただ、寒がりな後輩として、仲良しの先輩に温めてもらってるだけですよ?」
こちらの出方を伺うようにじっと見つめてくる春の目は、どこか妖しくきらめいていて、俺の動揺を隅々まで見透かしているようだった。まさに、手のひらで翻弄することに悦びを覚えているような表情だ。
彼女が動くたびに、タイトミニの裾から伸びるストッキングも何も穿いていない、剥き出しの生脚の太ももが俺のジーンズにぴったりと密着する。吸い付くような素肌のラインから、昨夜ベッドの上で何度も触れ、愛撫したあの滑らかな肉体の質感が、鮮明なフラッシュバックとなって俺の頭の中を真っ白に塗りつぶしていく。
ふと視線を上げると、数個挟んだ向かい側の席に、一人の男が座っていた。 胸元に近くの高校のロゴが入ったジャージを羽織り、足元には重そうなスポーツバッグ。おそらくこれから他校との練習試合にでも向かう途中の、近隣校の男子高校生だ。
そいつは、窓の外を眺めるふりをして、何度も春の方を露骨に盗み見ている。 誰もが思わず振り返る圧倒的な美貌の美少女が、電車のシートで男の腕に胸を押し付け、蕩けたような顔で甘えている。その信じがたい光景に、目の前の男子高校生の目は釘付けになり、喉をゴクリと鳴らしていた。
春はその視線にすぐ気づいた。そして、俺の腕を抱きしめるだけでは飽き足らず、さらに過激な行動に出た。
「先輩……っ」
春は向かいの男子に背を向けるようにして、俺の膝の上に自分の片脚を大胆に乗せてきた。タイトミニの裾がさらに生々しく捲れ上がり、白く滑らかな太ももが、俺の股の間に深く割り込んでくる。 それだけじゃない。春は俺の首筋に両手を回すと、自分の体を俺に完全に預け、まるで車内で抱き合うような体勢を強引に作り出した。
「……っ! お前、何考えて――」
「ん……静かにしてください、先輩」
春はわざとらしく鼻にかかった甘い吐息を漏らしながら、俺の耳たぶを薄い唇で軽く食んだ。じっとりとした熱が耳元から全身に駆け巡る。 向かいの席の男子高校生は、そのあまりに淫らで生々しい密着ぶりに、完全に目のやり場をなくして顔を真っ赤に染めていた。
春にとって、向かいの男の視線なんてどうでもいいのだ。ただ、他の男が自分を性的な目で見つめているという状況を利用して、俺の独占欲を極限まで煽り立て、嫉妬させて狂わせたいだけなのだ。その証拠に、俺を見上げる春の瞳は、ゾクゾクするような愉悦に満ちていた。
俺がかすかに息を呑み、腰を逃がそうとした瞬間、春は俺の耳元で、さらに追い詰めるような声色を落とした。
「ふふ、先輩、そんなに見つめられると……昨日のこと、思い出して恥ずかしくなっちゃいます」
周囲の乗客にも聞こえそうな、あざとすぎる台詞。 他校の男子が、居ても立ってもいられない様子で慌てて隣の車両へ逃げていくのを確認し、春は満足げに俺の胸元でくすくすと笑った。
「逃げちゃいましたね、あの子。私のこと、すっごく羨ましそうにしてた。……先輩、今どんな気持ちですか? こんな綺麗な女の子を、公共の場で思いっきり独占してる気分は?」
耳元に吹きかかる熱い吐息。 春は俺の首に腕を絡めたまま、空いている方の細い指先を、俺の膝の上から、じわじわと内ももの奥へと向かって、いやらしく這い上がらせてくる。
「……っ、やめろ、ここは外だぞ」
「誰も見てないですよ……。……ねえ、やっぱり、次の駅で降りて、どこか2人きりになれる場所、探します……っ?」
挑発するように囁かれたその言葉は、これ以上ないほど露骨で熱いおねだりだった。 付き合っていない、ただの先輩と後輩。 なのに、ガタンと電車が大きく揺れた拍子に、春の剥き出しの太ももが俺の腰にさらに深く絡みつき、俺の理性はチリチリと音を立てて完全に限界を迎える寸前だった。




