第10話:映画の代わりに、秘密の続きを
「……次の駅、降りるぞ」
低く、自分でも驚くほど掠れた声が、電車の喧騒に混じって俺の喉から漏れ出た。
その瞬間、俺の胸元にぴったりと寄り添っていた春の身体が、一瞬だけピクリと強張った。 いつも完璧に俺を手のひらで転がしているはずの小悪魔が、まさか俺が本当に理性を失って行動に移すとは思っていなかったのだろう。丸く見開かれたその瞳には、一瞬だけ、純粋な少女のような動揺と驚きが走った。
だが、それもほんの数秒のこと。
すぐに事態を理解した春の唇が、じわじわと、歪な愉悦を隠しきれないといった様子で弧を描いていく。 俺の焦燥、俺の敗北、そして自分に対する抑えきれない欲情――そのすべてを味わい尽くすような、勝ち誇った、この上なく淫らな笑み。
「ふふ、乗ってくれちゃうんですね。せーんぱいっ」
耳元に吹きかけられた声は、ねっとりと甘く、どこか震えていた。 勝ち誇ってはいるものの、彼女自身の呼吸もまた、急激に熱を帯びて浅くなっているのが分かる。
ゴトゴトと速度を落とし始めた電車の振動に合わせて、春はわざと、俺の股の間に割り込ませていた生脚の太ももを、じり、じりと擦りつけるようにして引き抜いた。ジーンズの生地越しに伝わる、吸い付くような素肌のラインと圧倒的な熱量。それが離れていく名残惜しさに、俺の頭はいよいよどうにかなりそうだった。
『まもなく、次の駅に停車します――』
車内に流れる無機質なアナウンスが、俺たちの背中を強烈に押し立てる。 プシューっと重い音を立てて電車のドアが開いた瞬間、俺はもう、周囲の目なんてどうでもよくなっていた。春の細い手首を掴み、ほとんど逃げるようにしてホームへと引っ張り出した。
ホームに降り立った瞬間、休日の午前中特有の、少し弛んだ空気と生温い風が俺たちの肌を撫でた。
だが、俺たちの間を流れる空気だけは、恐ろしいほどの熱量で爆ぜそうになっていた。俺は春の手首を掴んだまま、振り返ることもせず、ただひたすらに早足で改札へと向かう。ギュッと握った彼女の手首は驚くほど細く、そして、どこかじっとりと汗ばんでいた。
背後からトトト、と必死についてくる春の軽い足音が響く。
「せ、先輩……ちょっと、早いです……っ」
改札を抜け、駅前の雑踏に紛れ込んだところで、春が少し息を切らせながら声を漏らした。その声はいつもの余裕たっぷりのトーンではなく、本当に余裕をなくし始めている人間のそれだった。
俺は言葉を返さず、ただ目に入った派手な看板のカラオケ店へと滑り込んだ。 週末のこの時間、まだ混み合っていないフロントで、酷く事務的な手続きを済ませる。店員から手渡された部屋の鍵をひったくるように受け取り、薄暗い廊下を奥へと進んだ。
重い防音ドアを開け、部屋に入った瞬間に、俺は背後でカチャリとドアを閉め、迷わず内鍵を回した。
完全に外の世界から隔絶された、わずか数畳の密室。 カチ、カチ、と壁のつまみを回し、室内を琥珀色の、ほとんどお互いの輪郭しか分からないほどの薄暗がりに落とす。
「わぁ……本当に、連れ込まれちゃいました」
春は壁に背中を預けたまま、小さく肩を上下させていた。お出かけ用の金木犀の香水の匂いが、彼女の激しい呼吸によって、狭い部屋の中に一気に、濃密に充満していく。
「お前が始めたんだろ」
俺が一歩、間詰める。
「……そうです、けど。でも、先輩がこんなに強引に迫ってくるなんて、私、思ってなくて……っ」
そう言いながらも、春は逃げようとはしなかった。薄暗がりの中でもはっきりと分かるほど、その瞳はドロドロに潤み、熱い期待に激しく波打っている。
彼女は自ら、オフショルダーの襟元を指先でさらに大きく引き下げた。朝の光の代わりに、琥珀色の微かな光を浴びた真っ白な鎖骨と、その奥に隠された柔らかな膨らみが、暴力的なまでの淫らさで俺の視線を鋭く刺す。
「ほら……どうするんですか? 先輩。私、もう逃げられませんよ?」
挑発するように、しかし、その声は微かに震えていた。 明確な肩書きなど何もない、ただ夜の秘密を共有しているだけの歪な二人。平日には完璧な外面で周囲を魅了している彼女が、今、俺の手の届くところで、完全に蕩けた雌の顔をして呼吸を乱している。
俺はもう、自分を縛るあらゆる理性を完全に消し飛ばし、彼女の細い腰を掴んで、柔らかいソファの上へと激しく押し倒した。
※
カラオケ店の重い防音ドアを開けてロビーへ出た瞬間、冷房の効いた涼しい空気と、どこか現実味を帯びた現代ポップスのBGMが俺たちの鼓動を現実に引き戻した。
フロントで会計を済ませ、再び初夏の陽光が降り注ぐ街頭へと足を踏み出す。 さっきまで薄暗い密室でドロドロに混ざり合っていたお互いの熱が、からりとした青空の下に晒された途端、急に気恥ずかしいものに思えてきて、俺は無意識に首筋を摩った。
隣を歩く春は、心なしかいつもより足取りがたどたどしい。 歩くたびに、オフショルダートップスから覗く白いうなじが、ほんのりと赤みを帯びているのが分かった。手元を盗み見ると、彼女は自分の細い指先をそわそわと動かしながら、少し俯き加減で歩いている。
駅前のショッピングモールの入り口まで来たところで、春がようやく、いつもの小悪魔の仮面を被り直すようにして俺を見上げてきた。
「……もう、先輩のせいですからね?」
「……何がだよ」
「何が、じゃありません。私、今日は本当に、お洒落なカフェに行ったり、映画を観たり、普通の可愛いデートをするつもりだったんですから。なのに……映画の始まる時間、もう過ぎちゃいました」
春はぷくっと両頬を膨らませてみせるが、その瞳にはまだ、さっきまで俺の腕の中で蕩けていた熱の残滓が、じっとりと潤んで残っている。金木犀の香りは、彼女の肌の熱でさらに甘く変化して、ふわりと俺の鼻腔をくすぐった。
「悪かったよ。……でも、最初に仕掛けてきたのはお前だろ」
「それは……ちょっと先輩をからかって、困らせてやろうと思っただけです。まさか本当に、次の駅で降ろされて、あんな、抵抗できないくらいめちゃくちゃにされるなんて……」
そこまで言って、春は自分の言葉に照れたのか、カッと顔を真っ赤に染めて口を噤んだ。あの平日の鉄壁の優等生が、人混みの中で耳まで真っ赤にして俯いている。そのあまりのギャップに、俺の胸の奥がキュンと跳ねた。
「はぁ、付き合ってもいないのに、昨日も、今日も……。……ねえ、先輩、私のこと、どう思ってるんですか?」
上目遣いで覗き込んでくる春の瞳は、いつもの悪戯っぽさは完全に消え失せていて、ひどく無防備で、壊れそうなほどに純粋な少女のそれだった。
「……どう思ってる、って」
直球すぎるその問いかけに、俺の胸の奥が一気に騒がしくなった。
人混みの喧騒が遠ざかっていくような錯覚に陥る。真っ直ぐに俺を射抜く春の瞳は、これまでのどんなあざとい仕草よりも、雄弁に彼女の本心を語っているような気がした。ここで「後輩だと思ってる」なんてはぐらかすのは、さっき個室であれだけ彼女の身体を貪った男のすることじゃない。
だが、言葉に詰まる俺を見て、春はそれ以上問い詰めるのをやめるように、ふっと小さく、自嘲気味に微笑んだ。
「……なんちゃって。ちょっと聞いてみただけです。先輩、すっごく困った顔してる」
摘まんでいた俺の服の裾から指先を離すと、春はわざとらしく自分の手を後ろで組み、一歩前を歩き出した。まるで、いつもの余裕のある足取りを取り戻そうとするかのように。
「でも、本当に映画、間に合わなくなっちゃいましたね。……どうします? 代わりに、どこか美味しいお店でも連れて行ってくれますか?」
振り返った彼女の笑顔は、一見するといつも通りだった。だけど、その声のトーンは少しだけ低く、何より、その繋がれていない手の指先が、まだ微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
「……そうだな。お前、何が食べたい?」
「んー、お腹空いちゃいましたし、ちょっと贅沢にイタリアンとかがいいです! 埋め合わせ、たっぷり期待してますからね?」
「分かったよ。じゃあ、あっちの駅ビルの方に行ってみるか」
俺がそう言って歩き出すと、春は「はーい!」と元気よく返事をして、俺の隣にぴたりと並んだ。
太陽の光に照らされた街並みを並んで歩く。周りから見れば、きっと仲のいい美男美女のカップルにしか見えないのだろう。だけど、歩くたびに時折かすれ合うお互いの肩や、ふとした瞬間に漂う甘い香りが、ついさっきまで二人がいた薄暗い密室の記憶を、いやおうなしにフラッシュバックさせる。
付き合っていない。名前のない関係。 なのに、ただのランチに向かうだけの道のりでさえ、俺たちの間には、他の誰も介入できない濃密な余韻がずっと消えずに残り続けていた。




