第11話:ただの先輩には、何も言う権利なんてない
平日の学校において、俺と白石春は交わらない。誰もが振り返る圧倒的な美貌と、教師からも信頼の厚い鉄壁の優等生。それが校内における『白石春』の顔であり、冴えない一介の先輩に過ぎない俺とは、廊下ですれ違っても視線すら合わせないのが日常だった。
あの圧倒的な優越感と、それ以上にヒリつくような焦燥感を胸の奥に隠し持ちながら、俺は平日の五日間をやり過ごしていた。
あの週末のデートから数日経った、木曜日の放課後。
「あ、悪い。俺、ノート忘れたから先行っててくれ」
一緒に下校しようとしていた友人たちと別れ、誰もいなくなった夕方の教室へ引き返した時のことだった。廊下の静寂を破るように、少し離れた特別教室のあたりから、微かに話し声が聞こえてきた。
普段なら気に留めないはずだった。だが、その中の一つ、鈴を転がすような、それでいてどこか冷ややかな響きを持つ少女の声に、俺の足がピタリと止まる。
間違いない。春の声だ。
引き寄せられるように足音を潜め、廊下の角からそっと特別教室の開いたドアの隙間を覗き込む。西日が差し込む無人の教室。その中央で、春は一人の男子生徒と向かい合っていた。
相手は、確か同学年でも女子人気の高い、サッカー部のエースだったはずだ。そいつは顔を真っ赤に染めながら、絞り出すような声で春に想いを告げていた。
「……ずっと、白石さんのことが好きだったんだ。俺と、付き合ってほしい」
その瞬間、俺の胸の奥で、どろりとした黒い感情が鎌首をもたげた。
他の男がどれだけ綺麗で無垢な高嶺の花として崇めようと、その花を一番奥まで暴き立てたのは世界中で俺しかいない。頭の中を一気に駆け巡る淫らな記憶と、目の前の現実のギャップに、ジーンズのポケットの中の拳が自然と強く握りしめられる。
だが、告白を受けた当の美少女は、眉一つ動かさなかった。
「ありがとうございます。お気持ちは、すごく嬉しいです」
春はいつもの、完璧にコントロールされた優等生の笑顔を浮かべていた。一ミリの隙もない、だけど誰も立ち入らせないプラスチックのような美しい微笑み。
「でも、ごめんなさい。私、今は誰とも付き合うつもりはないんです」
冷徹なほどに綺麗で、残酷な拒絶。男子生徒が目に見えて肩を落とし、壊れ物のように繊細な表情で「そっか……」と俯く。彼はそれ以上何も言えず、逃げるように教室を飛び出していった。
バタバタと遠ざかっていく足音を聞きながら、俺も慌てて物陰に身を隠す。 終わった。さっさとここを離れよう――そう思った、次の瞬間だった。
カツン、とローファーの軽い音が響き、特別教室の入り口から春が姿を現した。
やり過ごそうと息を止めた俺の視線が、正面から歩いてきた春の瞳と、真っ直ぐにぶつかる。
その瞬間、彼女の「優等生」の仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。 じわじわと、歪な愉悦を隠しきれないといった様子で弧を描いていく薄い唇。さっきまで男を無機質にフっていた冷たい瞳の奥に、サッと妖しく熱い、小悪魔の光が灯る。
春は周囲の廊下に誰もいないことを素早く確認すると、声も立てずに俺の腕を掴み、隣にある薄暗い資料室のドアを躊躇いもなく開けて、俺を中へと引きずり込んだ。
カチャリ、と鍵の閉まる音が、静かな資料室にやけに重く響いた。
西日の入らない北側の資料室は、埃っぽい匂いと、ひんやりとした薄暗がりに満ちていた。
俺の背中が、スチール製の棚に鈍い音を立てて押しつけられる。その衝撃と同時に、すぐ目の前に春の端正な顔があった。
「……覗き見なんて、悪趣味ですね、せ・ん・ぱ・い?」
吐息が届くほどの至近距離。見上げる彼女の瞳は、さっきの男子生徒に向けていたものとは完全に別物だった。ねっとりと濡れた熱を帯び、獲物を追い詰めた猛獣のような、獰猛なまでの愉悦にギラギラと輝いている。
制服のネクタイを少し緩めた春は、俺の胸元に両手を添えたまま、じり、とさらに体を寄せてきた。薄い布地越しに、彼女の小ぶりで柔らかい胸の感触がダイレクトに伝わってくる。
「お前……誰かに見られたらどうするんだよ」
声が掠れた。 昼間の校舎、すぐ外は廊下というシチュエーションが、脳の血管をパチパチと焼き焦がすような緊張感を与える。
「誰も来ませんよ、もう下校時刻です。それより……」
春はクスクスと喉を鳴らし、わざとらしく俺の顔を覗き込んだ。
「見ちゃいましたね、私の告白現場。……どんな気持ちでした? 学校でみんなに王子様ってチヤホヤされてるサッカー部の先輩が、私に必死に頭下げてるところ。……ねえ、嫉妬しちゃいました?」
挑発的な言葉とは裏腹に、彼女の呼吸もまた、急激に浅く、熱くなっているのが分かる。 平日、どれだけ他人のフリをして、どれだけ完璧な優等生を演じていようと、俺に触れられた瞬間に、彼女の身体はあの週末の熱を思い出してしまうのだ。
「お前が、あいつをどうフるか気になっただけだ」
強がって見せると、春は「ふーん」と不満げに唇を尖らせた。だが、すぐにその唇が、意地悪な、この上なく淫らな弧を描く。
「ふーん……。私が断るって、最初からわかってたんだ?」
春は俺の胸元に人差し指を立てると、衣服越しにじわり、じわりと這わせながら、意地悪な笑みをいっそう深めてみせた。
「もし、私があの場で『おっけー』してたら、先輩どうするつもりだったんですか? 『おめでとう』って、学校のいつものただの先輩の顔をして、指をくわえて見てるだけだったんですか?」
覗き込んでくる潤んだ瞳が、俺の動揺を何よりも楽しそうに観察している。完全に手のひらの上で転がされているこの感覚。悔しいが、その挑発に脳の芯が痺れるほど昂ぶっている自分がいた。
「……あり得ないだろ。お前がそんな簡単に男と付き合うわけがない」
「わかりませんよ? あの人、学校じゃすごくモテるし、サッカー部のエースですし。私だって、流されて付き合っちゃうことくらいあるかもしれないのに」
ニヤニヤとした愉悦の笑みを浮かべたまま、春はさらに俺を追い詰めるように一歩踏み込んできた。ローファーのつま先が俺の靴の間に割り込み、彼女の細い太ももが、制服のスカート越しに俺の足にぴったりと押しつけられる。
「ねえ、本当にどうしたんですか? 私が他の男の人のものになっちゃっても、先輩は何も言えなかったくせに。……付き合ってない、ただの先輩、後輩、ですもんね?」
あの日、普通のデートに戻った街角で、自分が涙目で俺に問いかけた言葉。それを今度は、最強の武器に変えて俺の独占欲をゴリゴリと削りにきている。この小悪魔は、自分がどれだけ俺を狂わせているかを完全に自覚して、楽しんでいるのだ。
「……うるさい」
「ふふ、図星ですか? 先輩のそういう、余裕のない顔、本当に最高……っ」
そこまで言いかけた春の言葉は、最後まで続かなかった。
俺はもう、これ以上その生意気な唇から繰り出される挑発を耐えきるつもりはなかった。彼女の細い手首を掴んでスチール棚へと縫い付け、その言葉を強引に奪い去るように、激しく口づけを交わした。




