第7話:高嶺の花の、ナイショの用事
「……ん、……おにい……さん……っ」
甘く、掠れた声が、暗闇の中に溶けていく。
夕陽が完全に沈み、キッチンのオレンジ色の手元灯だけが弱々しく灯るワンルーム。ベッドのシーツは嵐が去った後のように乱れ、その中央で、俺たちは互いの肌をぴったりと密着させたまま、せわしない呼吸を重ねていた。
何一つ身に纏っていない春の細い身体は、俺が刻み込んだ薄赤い痕をいくつも浮かべながら、満足そうに俺の胸元に額を預けていた。
ピチャ、と重なり合った素肌が離れる音が、静まり返った部屋にやけに生々しく響く。
「……後悔してないか」
「ふふ、後悔なんて、するわけないじゃないですか……。むしろ、足りないくらい、です……っ」
俺はあえて意地悪く、彼女の耳元に顔を近づけて囁いた。
「お前、学校じゃあんなに澄ました顔してるくせに、ベッドの上だとこれかよ。……なあ、白石春さん?」
わざと苗字で、少し突き放すように呼んでやると、春の身体がぴくりと跳ねた。
彼女は何も身に纏っていない俺の胸に顔を埋めたまま、もぞもぞと逃げるように視線を泳がせる。さっきまであれだけ大胆に鳴いていたくせに、急に現実の学校の枠組みを突きつけられて、気恥ずかしさが限界に達したらしい。
「……ずるいです。今は、それで呼ばないでください」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ。お前こそ、いつまで俺のこと『お兄さん』って呼ぶつもりだ? 学校じゃ俺、お前より2個上の『先輩』だぞ」
春は俺の胸に顔を埋めたまま、ふにゃりと視線を上向かせた。まだ情欲の熱が引ききっていない、とろんとした瞳が俺を捉える。
「そういえば……お兄さん、本当にうちの学校の人だったんですよねー……」
「今更かよ。……まあ俺のことなんて知らなくて当たり前か」
「んー。だって、ネットの『お兄さん』が、まさか毎日同じ校舎ですれ違ってる先輩だったなんて、普通は思わないじゃないですか。……なんか、変な感じです」
少しだけ拗ねたような、だけどどこか嬉しそうな声音。互いに何も着ていない剥き出しの素肌が密着するたび、じっとりとした熱が二人の間にこもる。春は細い指先で俺の鎖骨のあたりをなぞると、そのまま首の後ろへと両腕を回してきた。
「……じゃあ、もうお兄さんって呼ぶの、やめます。その代わり……」
しなやかな太ももを俺の腰にすり寄せ、重なり合う体温の熱をさらに高めるようにして、耳元でじっとりと囁く。
「……これから週末の夜は、私のこと、めちゃくちゃにいじめて可愛がってくださいね? 『先輩』」
「お兄さん」という仮面が剥がされ、俺自身の独占欲が、彼女の「先輩」という甘い響きだけで完全にハジける。
「……お前、ほんとあざといな」
「ふふ、。あ、……でも先輩、私たちの関係って、これから何になるんですかねー?」
向けられた瞳は、妖しく濡れそぼりながらも、じっと熱く俺を見つめている。 俺の首に回された細い両腕には力がこもっていて、肌を通じて彼女の真っ直ぐな体温が伝わってくる。
だけど、俺はあえて視線を少しそらし、意地悪く鼻で笑って見せた。
「さあな。現状維持だろ。ただの、先輩と後輩だ」
「むー……! いけずですね、先輩は」
春は不満そうに唇を尖らせると、俺の胸元に額をぐりぐりと押し付けて甘えるように抱きついてきた。 剥き出しの素肌を容赦なく密着させてくる彼女を、俺はただ黙って受け止める。 ひとしきり胸元に顔をすり寄せた後、彼女は再び顔を上向かせ、とびきり甘い笑みを浮かべた。
「まあ、いいですよ、今はそれでも。月曜日からはいつも通り『ただの先輩と後輩』。……その代わり、また週末になったら、私のことちゃーんと責任持って、たっくさん……可愛がってくださいね?」
付き合っていない。ただの、先輩と後輩。 そう言い聞かせているのは、俺のくだらないプライドのほうだ。外では誰とも共有しない、週末の2日間だけは――夜の都合がいい関係。
ネットの偶然から始まった俺たちの関係が、現実のルールに縛られ、より深く、甘く、歪に加速していく。俺は自分にしがみつく春の細い腰を抱きすくめ、新しく決まったその『関係』を身体に刻み込むように、再び彼女の愛らしい唇を塞ぐ。
週末の48時間は、文字通り一瞬で溶けて消えていった。
※
あの濃厚な週末から明けた、月曜日。この関係になってから初めて迎える平日の朝は、奇妙なほどに現実味が薄かった。
いつも通りの時間に起き、いつも通りの満員電車に揺られ、いつも通り学校の門をくぐる。昨日まで俺の狭い部屋で、小さな身体を丸めて俺に必死にしがみついていた女の子が、今、この同じ敷地内のどこかにいる。その事実だけが、脳の片隅でずっと熱を持って燻っていた。
登校中、1年の靴箱の近くを通りかかるたび、無意識に視線が泳ぎそうになるのを必死で抑え込む。 「月曜日からはいつも通り」 そう言ったのはあいつだ。だから俺から探すような真似はしない。そう自分に言い聞かせて教室へ向かう足取りは、いつになく強張っていた。
静寂を切り裂くように響き渡る、学校のチャイムの音。 ブレザーのポリエステル特有の硬い感触、埃っぽい廊下の匂い、嫌に騒がしい生徒たちの雑談の声。
月曜日の昼休み。 週末の甘い残香を強制的に洗い流された俺は、購買で買った安物のパンを片手に、2階の1年フロアへと続く階段をダラダラと下りていた。ただ通り過ぎるだけの、何でもない日常の一コマのはずだった。
ふと、急に歩行速度が鈍る。
「――ねね、春ちゃん、今週の土曜日空いてたりしない?」
聞き覚えのある名前。そして、調子に乗った男の大きな声が廊下まで漏れ聞こえてきたからだ。
教室の入り口付近。女子生徒たちの輪の真ん中に、あの『白石春』がいた。 スクールバッグを律儀に両手で前に持ち、ブレザーのボタンを上までキッチリと留めた、絵に描いたような優等生の佇まい。
その彼女の前に立っていたのは、同じ1年のカースト上位にいるであろう、茶髪のチャラついた男子生徒だった。周りの男子たちも、はやし立てるように遠巻きにそちらを見ている。誰がどう見ても、直球のデートの誘いだ。
「ほら、駅前に新しくできたカフェあるじゃん? あそこ、女の子に人気らしいからさ。一緒に行こうよ」
男の放つ、自信に満ちた言葉。
俺の胸の奥で、ジリッ、と嫌な熱が弾けた。
週末、俺のしけたワンルームで、何も身に纏わずに俺の身体にしがみついていた、あの少女。 昨日、ベッドのシーツの上で、真っ赤に腫れた唇を震わせながら「可愛がってください」とおねだりしてきた、あのあいつが。
いま、別の男から週末の予定を強請られている。
俺には、あの男を殴り飛ばす権利もなければ、彼女の腕を引いて連れ去る権利もない。だって、俺が「ただの先輩と後輩だ」と言い張ったのだから。 自分から線を引いたくせに、いざこんな状況を目の当たりにすると、冷酷な現実が俺のプライドを容赦なく切り裂いていく。手のひらにじっとりと嫌な汗がにじむのが分かった。
通り過ぎる一瞬。俺はただの「2個上の、名前も知らない先輩」のフリをして、視線を冷たく前方へと固定する。
その時、輪の中心にいた春が、ふっと顔を上げた。
完璧な、お人形のような優等生の笑顔。
「あ、ごめんね。今週末は、どうしても外せない……『大事な用事』があるんです。だから、誰ともお出かけできないかな」
鈴の音を転がすような、どこまでも丁寧で、一線を引ききった断りの言葉。 クラスの連中には、ただの生真面目な優等生の定番の言い訳にしか聞こえなかっただろう。
だけど、俺だけは知っている。 今週末、あいつがどこで、誰とどんな『用事』を済ませる予定なのかを。
すれ違う、まさにその刹那。 春の潤んだ瞳が、一瞬だけ、本当に計算され尽くした一瞬だけ、真っ直ぐに俺の視線を捉えた。
――ふふっ。
ベッドの上で俺を翻弄する、あの、とびきりあざとい悪戯っぽい笑みを、唇の端にほんのわずかだけ浮かべてみせた。
「……クソ」
歩行速度を戻し、何食わぬ顔で階段を駆け上がる。じわじわと身体の奥が熱くなり、胸の鼓動がうるさく耳の奥で鳴り響いていた。
自分の教室に戻り、席についてもしばらく心臓の音がうるさかった。机に突っ伏してやり過ごそうとしたその時、制服のズボンのポケットで、スマホが短く震えた。
メッセージの通知。画面に表示されたのは、ネットのゲーム垢ではなく、交換したばかりの彼女の本名のアカウントだった。
『さっきはびっくりしました。今週末の“大事な用事”、めちゃくちゃ楽しみにしてます、先輩』
クラスの男子全員に羨望の眼差しを向けられている高嶺の花が、いま、この平日の教室から、俺だけに宛ててこんな言葉を送りつけてきている。
平日という名の鉄壁の仮面の裏側で。 あいつのおまじないは、月曜日の昼下がり、俺の理性を完全に狂わせるに十分すぎるほどの威力を放っていた。
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