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第5話:終わりの始まり

改札から吐き出される、見慣れた学校の制服を着た生徒たちの群れ。 この中に、画面の向こうで『お兄さん』と俺を呼んでいた、あの白猫のアバターの主がいる。そう思っただけで、ポケットの中でスマホを握る手のひらに、じっとりと汗がにじんだ。


ネットの世界の仮想の存在。それが、もうすぐ生々しい現実になって俺の前に現れる。 胸の奥を激しく叩くような鼓動のせいで、呼吸の浅さをごまかすことすら難しかった。


スマホの時計は、約束の時間を3分過ぎている。 遅れるなら連絡がありそうなものだが、トーク画面はさっき届いた春からのメッセージで止まったままだ。


『会えるの楽しみにしてますね』


たったそれだけの短い文面すら、俺の緊張をさらに跳ね上げるには十分すぎた。


「……本当に来るのかよ」


ぽつりとした呟きは、駅前の喧騒にかき消される。 もし全部がただの悪質な悪戯だったら。そんな最悪な想像が脳裏をよぎり、奥歯を噛み締めたその時だった。


「――あの、お兄さん……ですか?」


背後から、不意に声をかけられた。


イヤホン越しに何度も聴いていた、あの脳がとろけそうなほど甘い、少し気恥ずかしそうな少女の声。だけどそれは、デジタルに圧縮された機械音なんかじゃなく、間違いなく、すぐ後ろの空気の振動を伝って俺の耳に届いていた。


心臓が嫌なほどドクンと跳ねる。 ゆっくりと振り返った俺の視界に飛び込んできたのは、ネットのアイコンなんかより、何百倍も暴力的なまでに可愛い、リアルの『春』の姿だった。


学校指定のブレザーを律儀に着こなした、絵に描いたような優等生の佇まい。スクールバッグを両手で前で持って、少しはにかむようにして俺を見上げている。 だけど、ブラウスの第一ボタンは綺麗に留められているのに、なぜかその首元は、胸の高鳴りを隠しきれないようにうっすらと桜色に染まっていた。


「……Haru、さん?」


「えへへ、正解ですっ。……やっぱり、リアルで見ると、イメージ違いました?」


春はスクールバッグを少しだけ抱きしめるように力を込めると、上目遣いに俺の顔を覗き込んできた。 画面の中で白猫のアバターがやっていた、小首を傾げて視線をねだるあの仕草。それが目の前で、本物の女の子の肉体をもって再現されている。長い睫毛が、緊張からか小刻みに震えているのがはっきりと見えた。


だが、俺の頭が真っ白になった理由は、目の前の彼女の圧倒的な可愛さだけじゃなかった。


(……嘘だろ。なんで)


白石春しらいし はる。 俺たちの通う高校で、その名を知らない生徒はいない。 成績優秀、品行方正。誰もが振り返る端正な容姿を持ちながら、誰に対しても一線引いた丁寧な態度を崩さない、まさに高嶺の花。男子生徒たちの間では「リアルお嬢様」「全校生徒のオアシス」なんて呼ばれている、別世界の有名人だ。


その白石春が、いま、俺のすぐ目の前で顔を上気させ、あざとく小首を傾げている。 ネットの向こうで、俺に『お兄さん、私 頑張ったんだからもっと褒めてください!』と甘えていたあの愛らしいヒーラーの正体が、学校一の完璧美少女だなんて、どんな確率だ。


いつも廊下の向こうから歩いてくるだけで男子たちが勝手に道をあけ、遠巻きに眺めることしかできないような雲の上の存在。その彼女が、いま、他の誰でもない俺だけを見つめている。


完全に石化してしまった俺の顔を、春は不思議そうに下から覗き込んできた。


「……お兄さん? どーしたんですかー?」


悪戯っぽく、だけど少しだけ不安そうに響いたその声。 ゲームの中で何度も交わした言葉。イヤホン越しに聴いていた声。目の前で恥ずかしそうにブレザーの裾を揺らす白石春。 バラバラだった点と点が、今この瞬間、とんでもない引力で一つに結びついていく。


「……いや。画面の向こうと全然イメージ違うから、ちょっとびっくりしただけだ」


あまりの衝撃にフリーズしそうになる脳みそをどうにか叩き起こし、俺はあえて視線を少し斜め下に逸らしながら、ぶっきらぼうに言葉を返した。ここでマヌケに口を開けて動揺を晒したら、学校一の有名人を前に完全にペースを握られるのが分かっていたからだ。


すると、春は「むー」とあからさまに不満そうな声を漏らして唇を尖らせた。


「……なんですかそれ。せっかくお兄さんに可愛いって思ってもらえるように、たくさん準備してきたのに」


春は不満げに頬を膨らませながら、さらに半歩、俺との距離を詰めてきた。学校の廊下ですれ違うときには絶対に見せない、完全に俺だけに向けられた無防備な距離感。


生身の彼女から漂う、ほんのりと甘いシャンプーの香りと、女の子特有の柔らかな熱気がダイレクトに鼻腔をくすぐる。夕陽を浴びた彼女の肌はどこまでも白く、きめ細かい。


春は周囲の雑音を遮るようにして、さらにじっとりと潤んだ瞳で俺を見上げてくる。それから、上目遣いのまま、いたずらっぽい甘声で囁いた。


『……そんなに固まっちゃうくらい、私、可愛かったですか? 』


潤んだ瞳の奥には、俺をからかうような小悪魔的な光と、ほんの少しの期待が透けて見えた。


だくだくと脈打つ心臓の音が、ブレザーの布地を突き抜けて彼女に聞こえてしまいそうだ。


「……んなわけないだろ。自惚れんな」


吐き出した言葉は、自分でも驚くほどぶっきらぼうで固かった。 これ以上ないほど冷たく突き放したつもりだったが、至近距離で見つめてくる彼女の潤んだ瞳から、どうしても視線を逸らすことができない。


だが、春は俺のそんな必死の虚勢などすべてお見通しだと言わんばかりに、ニシシ、と悪戯っぽく口元を緩めた。


「わぁ、リアルでもツンツンしてるっ! 照れ隠しですか、お兄さん?」


「……うるさい。行くぞ、はぐれても置いてくからな」


「あ、待ってくださいよー! 」


そう言って、春は躊躇うことなく、俺のブレザーの袖をその細い指先できゅっと掴んできた。 もし学校のクラスの連中がこの光景を見たら、全員が目玉をひっくり返して泡を吹いて倒れるに違いない。あの誰も近づけない「高嶺の花」が、俺の後ろに隠れるようにして、ちょこちょこと小さな歩幅でついてきているのだから。


駅前のロータリーを抜け、少し薄暗い路地裏の並木道へと入り、後ろをついてくる彼女の気配を感じながら、ふと気になったことを口にする。


「……てか、ほんとに俺の家でいいのか?」


「いいですよー。高校生で一人暮らしって何だか気になりますし!」


「……気になるって、何がだよ。何もないぞ、俺の部屋」


防戦一方のままそう返すと、春は待ってましたと言わんばかりに、掴んでいた袖を少しだけ強く引いた。そのまま俺の斜め前に回り込むようにして、歩きながら顔を覗き込んでくる。


「何もないわけないじゃないですかー。……例えば、男の子の部屋に必ずあるっていう、ちょっとエッチな本とか? ……そういうの、隠してあるんですよね?」


「おい。やめろ。絶対探すなよ」


「あはは! 焦ってるところを見ると、やっぱりあるんですね?」


してやったり、という風に春は声を弾ませて笑った。学校の廊下では絶対に見せない、悪戯が成功した子供のような無邪気な笑顔。だけど、その潤んだ瞳の奥にある熱は、ちっとも子供のそれじゃなかった。


「お兄さんの趣味、ちょっと気になるなぁ。……でも、もし見つけちゃったら、私のことだけ見てくれなくなっちゃうかもしれないから、探すのはやめておきます」


さらりとそんな破壊力のあるセリフを口にして、春は俺の反応を確かめるように小首を傾げた。夕陽の赤のせいだけではない熱が、彼女の白すぎる頬をさらに色濃く染めていく。


「それに……学校の誰も知らない、ネットの私とお兄さんだけの秘密基地に行くみたいで、ちょっと……いけないことしてる気分になります」


薄暗い並木道の木陰に入った瞬間、春は掴んでいた袖から手を離した。今度は俺の隣へと滑り込んできて、自分の小さな手のひらを、俺の手元へとそっと寄せてくる。


「……ねえ、お兄さん」


「ん?」


「画面の向こうで声だけ聴いてたときより、いま、こうして隣にいる方が……何百倍も、ドキドキしますね?」


覗き込んでくる彼女の瞳は、夕陽の光を吸い込んで、ドロドロに熱く潤んでいるように見えた。春は俺の動揺を楽しむようにくすくすと喉を鳴らすと、絡めるようにして俺の腕を自分の胸元へと抱き込んできた。


「……っ、おい」


「はぐれたら置いてくって言ったのはお兄さんですよ? だから、絶対に離れないようにホールドですっ」


ブレザー越しですら、吸い付くような肉体の質量と狂おしいほどの柔らかさがダイレクトに腕に伝ってくる。腕が押し当てられた拍子に、春のブラウスの隙間から、まだ夕陽の熱を吸い込んでいない白い鎖骨が、かすかに震えるのが見えた。


学校でのあの完璧な仮面はもうどこにもない。 あざとい計算なのか、それとも彼女も本気でテンパっている照れ隠しなのか、もう俺には判断がつかない。ただ、密着した彼女の熱量に、俺の奥底にある独占欲が狂おしく暴れ始めていた。


「……行くぞ」


「はーいっ、任せましたよ? お兄さん」


悪戯っぽく微笑む小悪魔の手を、俺は今度こそ、逃がさないように強く引き寄せた。 ネットの偶然から始まった俺たちの関係が、現実の熱を帯びて、家賃4万のしけたワンルームへと向かって、本当の『終わりの始まり』へと加速していく。

長くなっちゃった……


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