第4話:バフよりも強力な、彼女の囁き
――始まりは、ゲームのログイン履歴が重なっただけの、ありふれた偶然だった。
半年前、俺がどっぷりハマっていたMMORPGの大型アップデートの日。新しく実装された超高難易度のレイドダンジョン「深淵の古城」のロビーで、俺は即席のパーティメンバーを募集していた。
画面の向こうから、ポンと軽い通知音とともに飛び込んできたのは、やけに可愛いピンクのアイコンと、場違いなほど可憐なプレイヤーネーム。
『Haru』
アバターの見た目は、最高にキュートに作り込まれた白猫の獣人。装備しているのも、今回のガチダンジョンにはおよそ不釣り合いな、ファンシーで可愛いピンク色のステッキだった。見た目からして完全なライト層のエンジョイ勢。普段の俺なら絶対にスルーするタイプだ。
だけど、大型アップデート直後の深刻なヒーラー不足のせいで、俺は半ば妥協するようにボイスチャットの接続ボタンを押した。
『あ……あの、もしもし? 聞こえますかー……?』
イヤホン越しに鼓膜を震わせたのは、脳がとろけそうなほど甘い、少し気恥ずかしそうな少女の声だった。
「聞こえてる。……Haru、さん? 今回のダンジョン、ヒーラーの負担めちゃくちゃデカいけど……大丈夫か? その装備、完全に見た目重視だろ」
わざと少しぶっきらぼうに問いかけると、ボイスチャットの向こうで彼女は「ふぇ?」と、小さく抜けたような声を上げた。それから、すれすれで耳元に届くような、いたずらっぽい甘声で囁く。
『えへへ、バレちゃいました? これ、見た目がすっごく可愛くてお気に入りなんです。……やっぱり、ステータス低くて迷惑になっちゃいますか?』
『強いお兄さんが、私のこと、守ってくれたら嬉しいなぁ……なんて。……ダメ、ですか?』
あざとい。百パーセント、男を頼って甘やかすための導線設計だ。絵に描いたような「お姫様プレイ」に内心で苦笑しつつも、そのとろけるような甘い響きに、喉の奥が微かにドクンと跳ねあげる。
「……足手まといになったら置いてくからな。死にそうになったらちゃんと言え」
『わぁ、厳しいっ! じゃあ、置いていかれないように、お兄さんの後ろを一生懸命ついてきますね?』
だが、実際にダンジョンに足を踏み入れてみると、あいつはただの無能な姫ではなかった。
『ひゃっ、ボスがこっち見ました! お兄さんたすけてー!』
画面の中で、白猫のアバターが必死に逃げ回る。叫んでいる声は完全にパニックを装っているのに、その逃げ方のルートや、敵の攻撃を避けるタイミングは絶妙に計算されていた。何より、俺の体力がミリ単位で削られた瞬間、信じられないほどの神反応で回復魔法が飛んでくる。
「Haru、そのまま右に誘導しろ。俺がタゲ取る」
『はーいっ! 任せましたよ! ……はい、バフもあげちゃいます、えいっ!』
俺がボスの注意を引きつけた一瞬、あいつはこれまでの弱々しい動きが嘘のように、的確なポジショニングで俺の攻撃力を跳ね上げる支援スキルを重ねてきた。そして、ボスがダウンすると、すぐにまた「こわかったぁ」と俺の後ろへ隠れるようにアバターをすり寄せてくる。
最後のボスが光の塵となって消え去り、サーバー攻略のアナウンスが画面を覆う。
『やったぁぁー!! クリアですっ、お兄さんのおかげです!!』
耳が痛くなるほどの歓声。それから、はぁはぁと小さく肩を揺らすような、甘い呼吸の音がマイク越しにダイレクトに伝わってきた。
『あー、緊張したぁ……。ねえ、お兄さん。私、お兄さんと一緒じゃないとゲームつまんなくなっちゃいそうです。……明日も同じ時間に待っててもいいですか?』
それが、俺たちの終わりの始まり。 夜な夜な、ボイスチャット越しにあざとい甘声で俺を頼り、都合よく耳を溶かしてくる、ネットの関係の誕生だった。
それから、毎日のように夜のダンジョンを二人だけで回る日々が続いた。 ある日の深夜、イベントの周回を終えたあとのチャットで、春がふと、手持ち無沙汰そうに呟いた。
『あーあ、明日のリアル学校、本当に憂鬱です。制服着て、優等生のフリして過ごすの、疲れちゃうんですよねぇ』
「学生だったのか。あと優等生って、自分で言うな」
『本当ですよ? クラスの男子たち、みんな私のこと遠巻きに見るだけで、ぜんぜん頼りないんです。……お兄さんみたいに、私を甘やかして、めちゃくちゃに振り回してくれる人、誰もいなくて』
ボイスチャットの向こうで、春はくすくすと悪戯っぽく喉を鳴らした。画面の中の白猫のアバターが、俺のキャラクターのすぐ隣に、ちょこんと座り直す。
『……お兄さんは明日も学校とか仕事なんですか? 普段どこらへんで遊んでるんだろ。私、お兄さんのプライベート、すっごく気になります』
上目遣いな声で、何気ない世間話を装って核心に触れてくる。あざとい誘導だとは分かりつつも、ネットの軽いノリもあって、俺はつい口を滑らせていた。
「俺? 俺は普通の高校生。遊ぶって言っても、だいたい学校の最寄り駅の周りくらいだけど。〇〇駅ってとこ」
「……あ」と言いかけて、ネットで安易にローカルな駅名を晒してしまったことに気づく。
だが、ボイスチャットの向こうの春は、咎めるどころか、少しだけ息を呑むような音を立てた。それから、じっとりとした、どこか熱を帯びた声で呟いた。
『……お兄さん、引かないで聞いてくれます?』
「……なんだよ」
『……私、そこ、毎日通学で使ってる駅です』
「……は?」
思わず、変な声が出た。 偶然にしては出来すぎている。いや、まさか。
『ふふ、驚いた? 私、お兄さんが前にTwitterに上げてた、駅前のラーメン屋さんの写真で、もしかしたらなーってずーっと考えてたんですよ』
イヤホンから聞こえる春の声が、急激に現実の輪郭を持って、俺の耳元を浸食し始める。 ネットの向こうの存在だった少女が、急に、すぐ隣の路地裏に立っているような、生々しい熱量を伴って迫ってきた。
『ねえ、お兄さん。週末、私と……リアルで遊びませんか?』
囁かれたその声は、ゲームのバフなんかよりもずっと強力に、俺の理性をチリチリと焼き切っていった。
「……いいよ。金曜日の放課後、駅の改札前で待ってろ」
『……! 本当、ですか? 嘘だったら、私、おまじないでお兄さんのこと呪っちゃいますからね?』
嬉しさを隠しきれない、だけど完全に俺の心を掴んで転がしている小悪魔の笑い声。
それが、俺たちが画面の向こうから飛び出すことになる、すべての始まり。 まさかあの時は、ネット越しに甘声で俺を頼ってきた可愛いヒーラーが、リアルの世界であんなにも俺を狂わせる存在になるなんて、夢にも思っていなかった。
傷を癒やす専門のはずのヒーラーに、まさか心ごと、これほど深く甘く侵食されることになるなんて。
そして、約束の金曜日――。 放課後の喧騒に包まれた駅の改札前で、俺はスマホを片手に、その時を待っていた。
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