第3話:箸一膳、スマホ二台
鼻腔をくすぐったのは、夕方のケトルの湯気とは違う、出汁の優しい匂いだ。 時計の針は、すでに夜の9時を回っていた。
あの激しい時間が終わってから、どれくらいそうしていただろう。 お互いに何も喋らず、ただベッドの上で重なる体温の心地よさに身を委ねていた静寂を破ったのは、春の「お腹空いちゃいました」という小さな呟きだった。
俺はシーツに背中を預けたまま、換気扇の小さなオレンジ色の手元灯に照らされた、キッチンの背中をただじっと見つめていた。
「……先輩。ずっと見てる」
振り返ったキッチンの前、春が俺の視線に気づいて、お玉を持ったままくすくすと笑う。
夕方に脱ぎ散らかしたブラウスやチェックスカートを床に放り出したまま、今は俺のクローゼットから勝手に引っ張り出してきた、大きめの黒いスウェットを、下着の上からダイレクトに1枚だけダボッと着ている。
サイズがブカブカなせいで、歩くたびに裾が揺れて、男物にはない柔らかなお尻のラインを際どく隠しては覗かせている。なのに、足元だけは学校指定の黒ストッキングを穿いたままという、どうしようもなく気怠くてだらしない格好をしていた。
「……何か作れるものあったか?」
俺の掠れた声に、春はお玉を動かす手をふっと止めた。 換気扇のブーという低い駆動音だけが、ワンルームの静寂を頼りなく埋めている。
春はすぐに答える代わりに、首筋の後ろで雑にヘアピンで留めただけの、少しほつれた髪を細い指先でいじった。それから、スウェットの裾から覗くストッキングのつま先を、フローリングの床にそっと擦りつけるようにして、ゆっくりとこちらを振り返る。
オレンジ色の薄暗い光のなか、視線がじっとりとに絡み合う。 その熱っぽく潤んだ瞳は、ついさっきまでベッドの上で俺だけを見つめていた、あの瞬間の余韻をまだ色濃く残していた。
「冷蔵庫、なーんにも入ってないんですもん。 先輩が私のことばっかり食べて、ご飯の用意してくれないから、今日はうどんで我慢してください」
春はトタトタと軽い足音を響かせてベッドの縁まで歩み寄ると、わざとらしく身を乗り出してきた。 スウェットの広い襟ぐりが自重で大きく垂れ下がり、まだ熱の残る柔らかな肌が容赦なく視界に飛び込んでくる。
「ほら、味見。はい、あーん」
お玉ですくったスープを、小さな器に少しだけ移して、ふーふーと手慣れた動作で冷ましてから俺の口元へと差し出してくる。 向けられた潤んだ瞳には、完全に俺を手のひらで転がして楽しんでいる、いつもの小悪魔の余裕が戻っていた。
「……美味い」
「ふふ、合格。じゃ、はやく食べましょー」
春は小さな土鍋をローテーブルへと運ぶと、当然のように器は一つ、箸も一膳しか用意せず、床にペタンと座り込んだ。 俺もベッドから抜け出してその隣へ腰を下ろす。すぐ近くから香る、春の甘い体温と、さっきまで混じり合っていた互いの匂いのせいで、どうにも落ち着かない。
「はい、先輩からどうぞ」
「お前、相変わらず箸一膳しか持ってこないな」
「洗い物増えるの、お互い嫌いでしょ? ほら、早く食べないと冷めちゃいますよ」
春は俺の手元からお箸をひょいと奪い取ると、フーフーとうどんを冷まし、自分の小さな口へと運んだ。チュル、と甘い音を立てて咀嚼し、ごくん、と喉を鳴らす。
それから、いつものお決まりのセリフを言うように、悪戯っぽく俺の顔を覗き込んできた。
「さっきまで散々口づけしてたのに、今さら間接キスなんて気にする先輩じゃないですよね?」
「……気にしてねえよ」
箸を奪い返し、俺は春が今しがた口をつけたばかりの箸で、熱いうどんを口に運ぶ。 器が一つ、箸が一膳。ローテーブルを挟んで向かい合うでもなく、並んで座って交互につつくこのいびつな距離感に、俺たちの身体はとっくに慣れきってしまっている。
うどんを数口ずつ交互にすすると、ローテーブルの上の土鍋はあっという間に空になった。
「ぷはぁ、ごちそうさまでしたっ。……あー、おいしかったぁ」
「……お腹いっぱいになったら、次は何するか分かってますよね? 先輩」
春は絡めた腕にさらに力を込め、上目遣いで俺を覗き込んできた。 オレンジ色の手元灯に照らされたその瞳は、熱いうどんを食べて少し火照ったせいで、さっきよりもさらにドロドロに熱く、潤んで見える。
春は俺の答えを待たずに、自分の細い指先を俺の首元へとのばしてきた。 スウェットの広い襟ぐりから覗く、俺が付けたばかりの薄赤い痕を、自分から誇示するように指先で優しくなぞってみせる。
「ちゃんとエネルギー補給したんですから。……ね? この後は、夜の続き……たっぷり可愛がってくださいね?」
囁かれた吐息は、驚くほど熱くて甘い。 おねだりの組み立ても、その後に自分がどう乱されるかも、全部知っているくせに、春はいつだってこうして自分から仕掛けてくる。
付き合っていない、ただの先輩と後輩。だけど、この薄暗い部屋のなかで、俺のスウェット一枚で完璧に俺を誘惑してくる小悪魔から、今さら逃げる選択肢なんて俺にはなかった。
……いつもなら、な。
「……盛ってるとこ悪いんだが、お前、今日イベントなの忘れてない?」
「……あっー!!」
俺の首筋をなぞっていた春の細い指先が、完全にフリーズした。 ドロドロに潤んでいた瞳が、驚愕で限界まで見開かれる。
「うそっ、今日でしたっけ!? なんでもっとはやく言ってくれないんですかっー!!」
さっきまでの妖艶な小悪魔はどこへやら、春は俺の腕を強引に振りほどくと、床に放り出されていた自分のスクールバッグへ猛然とダイブした。ブカブカのスウェットの裾が大きくめくれ、黒ストッキングに包まれた太ももが派手に露わになっているが、今のあいつにはそんなことを気にする余裕すらなさそうだ。
「あった、スマホ……! あと1時間しかないじゃん! 先輩のせいですからね!?」
「俺のせいにすんな。うどん食う前に気づけ」
ベッドの縁に背中を預け、床に体育座りをしたまま必死の形相で画面を連打し始める春。 スウェットの襟ぐりは相変わらずはだけていて鎖骨の痕は生々しいし、下着の上に男物の服1枚という最高に淫らな格好をしているのに、そこから放たれるオーラはただのガチ勢のそれだった。
「……で、間に合いそうなのか?」
俺はベッドから床へ下り、春の隣に座り直して画面を覗き込む。
「無理、あと3周はしなきゃいけないのに、ワンパンじゃ回れない……! ああっ、フレンドのサポート枠に強キャラがいない!」
「貸すから部屋立てろ。俺のキャラなら削りきれるだろ」
「え、先輩!! 神!! 早く、早くコード送って!!」
「ほら、さっさと準備しろ」
俺は自分のスマホを引っ張り出してアプリを起動し、慣れた手つきでルームを作成する。画面に表示された8桁の入室コードを口頭で伝えると、春は狂ったような速度で指先を動かした。
「入りました! 先輩、本当に助かります……っ」
「いいから集中しろ。時間ねえんだろ」
ついさっきまで重なり合っていた互いの体温の余韻を置き去りにするように、ワンルームにはせわしないタップ音だけが響いていた。
換気扇のオレンジ色の光のなか、春の横顔だけがスマホの青い光に冷たく照らされている。 その瞳は画面のタイムリミットだけを捉えていて、狂おしいほどに真剣そのものだった。
「よし、ボス戦。先輩、開幕ぶっぱでお願いします!」
「分かってる。お前はバフだけ撒いとけ」
タイムリミットまでのカウントダウンに追われながら、お互いに無言で画面をタップし、最適解のスキルをひたすら叩き込んでいく。この手の身内マルチは何度もやっているせいで、言葉を交わさずとも阿吽の呼吸でステージが溶けていった。
画面のなかで巨大なボスが光の粒子に変わり、リザルト画面へと切り替わる。それとほぼ同時に、イベントの終了を告げるアナウンスがポップした。
時計の針を見れば、ちょうど終了時刻。本当に最後の最後、これ以上ない滑り込みだった。
「……あ、終わったぁぁ……!」
春は手から力を抜くと、スマホをローテーブルに放り出し、文字通り魂の抜けた殻のようになって、隣に座る俺の肩口へドサリと倒れかかってきた。 生き返ったような安心の吐息とともに、だぼついたスウェットから香る甘い匂いが、静かになった部屋に再びゆっくりと満ちていく。
「……お疲れ。エネルギー補給、無駄にならなくて良かったな」
俺が意地悪く笑いながらあいつの頭を小突くと、春は俺の脇腹をストッキングのつま先でツンツツンと小突いてきた。それから、再びドロリと熱を帯びた瞳で俺を見上げて、くすくすと不敵に笑う。
「もう……本当に心臓に悪かったです」
はぁ、と長いため息を吐きながら、春は俺の肩に頭を預けたまま上目遣いに俺を覗き込んできた。 画面の青い光が消え、キッチンからのオレンジ色の手元灯だけに戻った部屋のなかに、ゲームの興奮のせいで少し上気した肌が、薄暗がりに妖しく浮かび上がっている。
トクトクと、重なり合う互いの鼓動。 静かになった部屋の中で、俺は春の少し汗ばんだ背中を、黒いスウェット越しにゆっくりとなぞりながら、ふと思い出して腕の中の小さな頭を見下ろした。
「……そういえばさ」
「ん、なんですかぁ……?」
「お前、自撮り送ってきただろ。あれ、何なんだよ。学校のトイレでわざわざ何やってんだ」
その問いを聞いた瞬間、春の身体がかすかに跳ねた。 俺の胸に顔を埋めたまま、もぞもぞと逃げるように視線を泳がせている。さっきまであれだけ大胆に誘惑してきたくせに、今さら急に恥ずかしがり始めたらしい。
「……別に。ただの生存報告です」
「なんだそりゃ。生存報告であんなエロい写真送るやつがあるか」
「エロいって言いましたね? ふふ、先輩が変な目でおいしそうに見てくれたなら大成功です」
誤魔化すようにいつもの小悪魔じみた笑みを浮かべようとしているが、俺の胸に押し当てられた彼女の耳たぶが、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのが丸見えだった。
俺はあえて腕の力を強め、春の身体をさらに自分の方へと引き寄せる。
「はぐらかすな。よくあんなの学校で撮るリスク冒したなと思って」
観念したように、春ははぁ、と小さく甘い溜息を漏らした。 それから、俺のシャツの胸元を細い指先できゅっと掴み、上目遣いに俺を睨みつけてくる。
「……だって、本当に限界だったんですもん。廊下で先輩が私の横を素通りしていくとき、すっごい冷たい目をしてるから……なんだか、不安になっちゃって」
「……」
「だから、先輩が1秒でもはやく私に会いたくなるように、おまじないをかけてあげたんです。……バカ先輩」
ぽつりと呟かれた本音。学校での完璧な優等生としての仮面を維持するために、彼女がどれだけ独占欲を抑え込んでいたのかが、その一言に詰まっていた。
あざとい計算の裏にある、どうしようもないくらい健気な執着。 それを知ってしまって、俺の理性が大人しくしていられるはずがなかった。 「おまじない、効きすぎ」と俺が低く零すと、春はそれを見透かしたように、また嬉しそうに目を細める。
「だから今度こそ、朝まで優しく、たっぷり癒してくださいね?」
完全にリラックスした小悪魔が、今度は本当の『夜の続き』を強請るように、俺の首に手慣れた手つきで腕を回した。
引き寄せた春の細い腰を抱き上げ、床から再びベッドのシーツの上へと押し倒す。 彼女は嬉しそうに目を細めると、迎え入れるようにその愛らしい唇を開いた。
狭いワンルームに、再び狂おしい熱が満ちていく。 金曜日の夜は、まだまだ終わりそうにない。
ちょっと長くなっちゃいましたっ〜(泣)




