第19話:終わらない梅雨と素敵なジャグジー
ドアが閉まり、完全に遮断された密室。 外の雨音すら届かない静寂の中で、カードキーを差し込んだことによって部屋の照明がパッと自動で切り替わった。
少し落とされた間接照明の、オレンジ色ともピンク色ともつかない曖昧な光が、広い室内を艶っぽく浮かび上がらせる。 その中央に鎮座する、驚くほど大きなキングサイズのベッド。
「……へぇ、本当に広いですね」
春は強がるように少し声を張ると、まだブレザーをぎゅっと握ったまま、部屋の中を見回した。 学校で見せる凛としたマドンナの歩き方ではなく、どこか借りてきた猫のように、一歩一歩がぎこちない。
「ほら、いつまで突っ立ってんだ。制服、濡れてんだろ」
俺がそう言って鞄をソファに置くと、春は「あ……」と小さく声を漏らして、自分のセーラー服の肩口に触れた。小走りで追ってきたせいで、薄い生地が雨を吸って、ほんのりと肌に張り付いている。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
春はゆっくりとセーラー服のスカーフに手をかけると、こちらをじっと見つめてきた。 ロビーでのガチガチな緊張はどこへやら、今度はその潤んだ瞳に、いつもの小悪魔な光を灯そうと必死に背伸びしている。
「先輩、そんなに遠くから見てないで、脱がせてくれてもいいんですよ?……それとも、やっぱりまだ緊張してます?」
ちろり、と唇の間から小さな舌を覗かせる。あのお家デートの時と同じ、俺を挑発するあざとい仕草。 だけど、 強気なセリフとは裏腹に、彼女の白い首筋は、部屋の照明のせいだけではない熱を持って、みるみるうちに赤く染まっていく。
「お前、さっきから煽りすぎだ」
俺が一歩、距離を詰めると、春の身体がびくりと跳ねた。 逃げ道を塞ぐようにベッドの縁まで彼女を追い詰めると、春の背中が柔らかいマットレスに沈み込む。
「……っ、煽ってなんか、ないです……っ」
かすかに震える声。上目遣いで俺を見上げてくるその顔は、もう完璧な優等生のそれではない。ただの、一人の男に怯え、期待し、溺れかけている、無防備な女の子の顔だった。
「覚悟があるって言ったよな」
俺がその細い手首を掴んでベッドに押し倒すと、春は小さく「ひゃい……」と情けない悲鳴を上げて、観念したように目を閉じた。 名前のない熱い呼吸が、静かな部屋の空気をじりじりと焦がしていく。
もう、言葉なんて必要なかった。
いつも堂々と俺を煽ってくる小悪魔の、その強がりを完全に終わらせるように、俺は躊躇うことなく顔を近づけ、彼女の柔らかい唇を塞いだ。
「……んっ、」
春の小さな驚きの声が、重なる唇の隙間に溶けて消える。 掴んでいた彼女の手首をゆっくりと指の間へ滑り込ませ、ベッドの上で深い恋人繋ぎにすると、春の細い指が、すがるように俺の手をぎゅっと握り返してきた。
学校の誰もが憧れる、あの完璧な美少女の面影はもうどこにもない。ただ俺の腕の中で、心臓をトントンと激しく波打たせている、一人の無防備な女の子。そのギャップが、どうしようもないほど俺の独占欲を加速させる。
ゆっくりと唇を離すと、春は睫毛を震わせながら、躊躇うようにゆっくりと目を開けた。 間近で見つめ返してくるその瞳は、いつもよりずっと近くにあって、驚くほど潤んでいる。俺の顔が映り込んでいるその瞳からは、もう完全に「優等生」の余裕が消え去っていた。
春はしばらく俺の目をじっと見つめていたが、やがて、その潤んだ瞳をさらに熱く細め、自由な方の手を俺の首筋にそっと回してきた。自分の身体を、少しでも俺に近づけるように。
耳元で、吐息のような小さな声が響く。 そこにはもう恐怖はなく、ただ俺を強く求める熱い色だけが混ざっていた。
「外はまだ、ずっと雨が降ってますからね。……だから、私が先輩の、雨宿りの場所になってあげます」
そう言って、春は自ら、解けかけたセーラー服のスカーフをベッドの脇へと滑り落とした。 間接照明の妖しい光の中で、彼女の白い肌が、終わらない梅雨の湿気を含んで、艶やかにきらめいていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
部屋を満たす甘い熱気が少しだけ落ち着いた頃、俺がベッドの上で一息ついていると、隣からバサッとシーツの跳ね上がる音がした。
「……よしっ! 復活です!」
見ると、ホテルの白いガウンをぶかぶかに羽織った春が、ベッドの上に勢いよく立ち上がっていた。さっきまで俺の腕の中で可愛い声を上げていたはずの女の子はどこへやら、その表情はすっかり好奇心に満ちあふれている。
「おい、急に立ち上がるなよ。ガウン、はだけてんぞ」
「あ、先輩、今どこ見てるんですか? ダメですよ、さっき散々可愛い姿を見せてあげたんだから、今はもうお預けです。……それより先輩! 見てください、これ!」
春はベッドから飛び降りると、部屋の隅にある大きな棚へと小走りで向かった。学校で見せる凛とした歩き方ではなく、完全に珍しいおもちゃを見つけた子供の足取りだ。
「これ、噂の冷蔵庫ですか!? すごい、部屋の中に自販機があるみたいにドリンクがズラッと並んでる……! 下の段にはちゃんと持ち込み用のスペースもあるんですね。至れり尽くせりですね!」
パカパカと冷蔵庫の扉を開け閉めしたり、庫内の照明に照らされるドリンク類をじーっと見つめたりしている。
「お前、初めて見るものばっかりだからって、はしゃぎすぎだろ……」
「だって気になっちゃうじゃないですか。あ、見てください先輩、アメニティの数が尋常じゃないです! 化粧水にヘアパックに、入浴剤が5種類もありますよ? あ、このバブルバスのやつ、お風呂で使ってみたいです!」
春は色とりどりの小袋を両手に抱え、本当に嬉しそうに目を輝かせてベッドに戻ってきた。 学校の誰もが憧れる美少女が、ホテルのガウン姿で入浴剤のパッケージを真剣に選別している。この圧倒的なギャップが、どうしようもないほど愛おしい。
春はベッドの縁に腰掛け、抱えたアメニティをシーツの上に並べると、ちろりと舌を覗かせて俺を上目遣いで見つめてきた。
「ねぇ先輩。お風呂、すっごく広くてジャグジーがついてるみたいなんです。……せっかくですから、一緒に入りませんか?」
「……お前、さっきあんなにバテてただろ」
「それはそれ、これはこれです! ほら、早く行きましょ?」
春は俺の手をぎゅっと引っ張ると、今度はいつもの小悪魔な笑みをその唇に咲かせた。 一度一線を越えてしまった俺の理性が、彼女のその無邪気であざといおねだりに、また簡単に引きずり込まれそうになっていた。
「わかった、わかったから引っ張るな」
「やった♪ 先輩、ちゃんと背中流してくださいね?」
「調子に乗るな」
呆れながらも、俺は春に手を引かれるままベッドから腰を上げた。 ガラス張りの向こうに見えるバスルームは、確かにちょっとした温泉並みに広く、すでに自動で溜められたお湯がジャグジーの細かな泡に揺れている。
春は嬉しそうにバブルバスのパックを破ると、惜しげもなく浴槽へと注ぎ込んだ。 勢いよく吹き出す泡が、あっという間に白い絨毯のように水面を覆い尽くしていく。
「うわぁ、すごいです先輩! 映画みたい!」
泡を両手ですくい上げてはしゃぐ春の後ろ姿を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。 学校の誰もが遠巻きに眺めるだけの優等生が、今、俺の前でだけ、こんなにも無防備に笑っている。その事実が、じわじわとお腹の底を熱くさせた。
湯気でほんのりと上気した顔の春が、泡をまとったまま悪戯っぽく振り返る。
「先輩、何ぼーっとしてるんですか? 早く入らないと、私が泡まみれにしちゃいますよ?」
「……お前、お風呂から出たら、次はもう容赦しないからな」
「ふふ、望むところです♪」
じゃぶんと温かいお湯に浸かる音が、外の長雨を完全に消し去っていく。 ジトジトとした憂鬱な梅雨はまだ当分明けそうになかったが、俺たちの終わらない放課後は、この甘い熱気の中でどこまでも加速していくようだった。




