第18話:雨宿りには淫らすぎる
梅雨が、いつまでもこの街に居座り続けている。 六月も後半に差し掛かろうというのに、空は毎日すりガラスのような灰色で、じとじととした湿気と終わらない雨が、世界全体を重く湿らせていた。
学校の廊下から見えるグラウンドは、連日の雨で完全に泥の海と化している。
「……あー、今日も部活休みか。まじ最悪」
「な。つーかこの雨、いつ明けるんだよ。身体にカビ生えそうだわ」
放課後の教室。いつも通りクラスの連中がだべっているのを横目に、俺は鞄を肩にかけて一足先に教室を出た。 あの日のお家デートから数週間。
俺たちの距離は、この長雨の湿気に乗じて、より深く、より曖昧に、互いの肌に染みついて離れなくなっていた。
昇降口を出て、傘を開く。 人目を避けるように、いつもの大通りではなく、寂れた裏道を通って駅へと向かう。
傘を叩く雨音だけが響く中、俺は冷たい雨の中を歩いていた。
「……先輩」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、少し離れた街角で、濡れた髪をかき上げながら傘を畳む彼女の姿があった。 制服のセーラー服をきっちりと着こなし、少しだけ息を乱している。まるで、俺の歩調に合わせてわざと遠回りをして、ここで「偶然」出会ったかのように装うための、完璧な演技だ。
「……こんなところで、奇遇ですね」
彼女はそう言うと、いつもの「優等生」の仮面を外し、瞳の奥に獲物を狙うような悪戯な光を灯した。誰もが見惚れる完璧なマドンナの顔だが、その声は甘く、俺を逃がさない鎖のように響く。
「奇遇なわけないだろ。……どこから尾行してた」
「尾行なんて人聞きが悪いなぁ。ただの偶然ですよ? ……それにしても、本当に毎日毎日、嫌になっちゃいますね」
春は傘を少し傾け、うっとうしそうに空を見上げた。
「毎日雨、雨、雨……。お家デートも楽しいですけど、さすがに飽きちゃいました」
「贅沢言うな。……で、何が目的だ。わざわざこんなとこで、俺を呼び止めて」
「ふふん、実はですね。私、一度行ってみたい場所があるんです。雨の日でも絶対に静かで、誰にも邪魔されなくて、先輩と二人きりになれる場所」
春は一歩、俺のほうへ距離を詰めると、周囲を確認するように周囲を見渡してから、俺のブレザーの袖をぐいっと引っ張った。
「ついてきてください」
そう言って、彼女は俺と距離を保ちつつ、駅前とは少し違う、薄暗い路地の方へと歩き出し始めた。俺は訝しみながらも、彼女の背中を追うしかなかった。
雑居ビルが立ち並び、人気が少なくなった裏通り。 アスファルトに跳ねる雨音がやけに大きく響くその場所で、春がピタッと足を止めた。
「……ここです♪」
春が嬉しそうにビニール傘を傾け、人指し指で示した先。 そこには、昼間だというのにギラギラとピンクや紫のネオンを放つ、きらびやかで禍々しい看板がそびえ立っていた。
『REST 3000円〜 / STAY 7000円〜』
「っ……!? お前、ここ……っ」
心臓が跳ね上がる。そこは、紛れもないラブホテルだった。 あまりの衝撃に周囲をキョロキョロと見回してしまう俺を見て、春はクスクスと喉を鳴らして笑った。
「あ、もしかして先輩、緊張してます? 顔、めちゃくちゃ硬いですよ?」
「緊張とかそういう問題じゃないだろ! お前、自分が現役の女子高生だって自覚あんのか!? こんなの、学校の奴に見つかったら一発で終わりだぞ!」
「大丈夫ですよ、こんな長雨の平日の昼間に、うちの学校の生徒がこんな裏路地にいるわけないじゃないですか。先輩は心配性ですねぇ」
春は全く怯む様子もなく、いつもの小悪魔な笑みを浮かべて俺を煽り倒してくる。
「それとも、何ですか? 先輩は、私とこういう場所に入るの、怖くなっちゃいました? ……私は、先輩とならどこにだって行く覚悟、ありますよ?」
そう言って、春は一歩、俺に近づいた。 すれ違う瞬間に見せるような、あの挑発的な上目遣い。 だけど、ブレザーの袖を掴む彼女の指先が、ほんの少しだけ震えているのを、俺は見逃さなかった。 強気な口調で煽ってはいるものの、彼女の耳の裏は、ネオンの光のせいだけではない赤みに染まっている。
「……。入ってから泣き言言っても、もう出さないからな」
俺が低くそう告げると、春は一瞬だけ丸い目をさらに見開き、それから本当に嬉しそうに、意地悪く、唇を吊り上げた。
「……じゃあ、絶対に逃がさないでくださいね?」
そう言って、春は俺のブレザーの袖を掴んでいた手を離し、今度は自ら俺の指の隙間に、その細い指を躊躇いなく滑り込ませてきた。学校の奴らに見られたら完全にアウトな、恋人以上の深い恋人繋ぎ。
じゃらじゃらと下品にきらめくプラスチックの暖簾をくぐり、俺たちは二人で、いかがわしい光の奥へと足を踏みれた。じっとりとした梅雨の雨音を、完全に遮断するようにして。
自動ドアが閉まった瞬間、ひんやりとした冷房の空気と、どこか人工的な芳香剤の香りが鼻腔をくすぐる。 静まり返った薄暗いロビーには、ズラリと並んだ部屋の写真パネルが妖しく光っていた。
さっきまで大口を叩いていたはずの春が、急にコクンと唾を飲み込んだのが分かった。 繋いだままの彼女の手が、びっくりするほど冷たくなっている。
「……部屋、どこにするんだよ」
俺が意地悪く隣で囁くと、春は肩をびくりと揺らし、パネルを見つめたまま固まった。学校での無敵のマドンナはどこへやら、パネルのボタンを押すことすら躊躇っている。
「な、何でもいいですよ……先輩が、決めてください……」
小さな声でそう呟きながら、春は繋いだ俺の手を、ぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握りしめてきた。上目遣いで俺を見上げてくる瞳は、完全に余裕を失って潤んでいる。
煽り倒して俺をここに連れてきたくせに、いざ二人きりの空間に閉じ込められた途端、この初心な反応だ。
「入ったらもう帰さないからな、って言っただろ?」
俺はわざと低く笑いながら、空いている方の手で、適当な部屋のパネルのボタンを強く押し込んだ。暗いロビーに電子音が寂しく響き、俺たちの逃げ場は完全に消失する。
「……っ、う、うるさいです、バカ先輩」
真っ赤になった顔を隠すように、春は俺の胸元に頭を押し付けてきた。 トントンと早く刻まれる彼女の心臓の音が、俺の身体にも伝染していく。梅雨の終わらない長雨の中、俺たちはついに、引き返せない境界線を越えてエレベーターへと歩き出した。
チーン、と気の抜けた電子音が鳴り、エレベーターの扉が開く。 鏡張りの狭い密室に二人きり。鏡に映る俺たちは、どこからどう見ても不釣り合いな、だけど一線を越えようとしている制服姿の先輩と後輩だった。
目的の階に着き、薄暗い廊下を進む。 指定された部屋の前に立ち、俺がカードキーをドアノブにかざすと、カチャリと冷たい金属音が響いた。
その瞬間、春が俺のブレザーをクイと引っ張った。
「……先輩」
「ん?」
ドアを開けようとした俺の手が止まる。振り返ると、春はセーラー服の襟元を少しだけ緩め、火照った顔でふにゃりとだらしなく笑っていた。ロビーでのガチガチの緊張を、今度は「あざとさ」で必死に上書きしようとしているのが丸わかりの、いじらしい笑顔。
「……可愛い後輩をこんな場所に連れ込んじゃって、ちゃんと責任とってくれますよね?」
耳元に届く声は、廊下の静寂に溶けてしまいそうなほど小さく、だけど確実に俺の理性を削りにかかってくる。
「……お前が連れてきたんだろ」
俺が呆れたように、だけど限界を迎えつつある声で言うと、春は「ふふっ」と嬉しそうに吐息を漏らし、俺の胸に手のひらをぽんと当てて、自らドアを背中で押し開けた。
「さっ、いきましょ」
カタン、と背後で重いドアが閉まり、ロックがかかる。 外のジトジトとした長雨のことなんて、もう二人とも、これっぽっちも頭になかった。
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