第20話:ゲームの合間に、夏休みのフルコース
「……あー、ダメだ。完全に詰んだ。っていうか、外の気温38度とかバカだろ。一歩でも出たら溶ける」
俺はエアコンのリモコンを操作して設定温度をもう一度下げると、ベッドの背もたれに体重を預けたまま、手元のコントローラーのボタンを虚無の表情で連打した。
画面の中では、俺たちのアバターが夏限定イベントのボスを無慈悲に殴り続けている。
「先輩、夏休みが始まってからこれで何日目ですか? せっかくの長期休みなんですから、もっとこう、海に行くとか、お祭りに行くとか、青春っぽいこと言えないんですか?」
呆れたような声を出しながらも、俺の隣で器用にコントローラーを操作しているのは春だ。 いつもの完璧な制服姿ではなく、俺が貸したぶかぶかのTシャツにショートパンツという、男の一人暮らしの部屋でしか見せない完全なオフモード。
「無理。海なんて行ったら日焼けで死ぬ。お祭りも人が多すぎて無理。この部屋で冷房浴びながらイベントの限定報酬全回収する方が、何倍も有意義な青春だろ」
「はいはい、出た出た。こんなに可愛い女の子を部屋に連れ込んでる男の子とは思えない出不精発言。……あ、ちょっと先輩! 右から増援来てます! ちゃんとタゲ取ってください!」
「おっと、悪い悪い」
出会ったばかりの頃は、キャラの動かし方すらおぼつかなくて、敵が出るたびに「きゃっ! 先輩助けてください!」とパニックになっていたくせに。俺と一緒に遊ぶようになってから、いつの間にかこんなに上達している。
「……お前、ホント腕上げたな」
「ふふん。伊達に先輩の隣でコントローラー握ってませんからね。今や先輩のお守りくらい、余裕でできちゃいます」
画面を見つめたまま、悪戯っぽくふっと口元を緩める横顔。 今でも口を開けば小生意気なセリフが飛び出してくるけれど、その距離感は、出会ってからの日々を得て、決定的に近づいてきていた。
「……でも、まあ」
春はコントローラーの手を止めると、液晶の光に照らされた顔をこちらに向け、ふわりと微笑んだ。
「この部屋、冷房が効いてて涼しいし。……こうして一日中先輩を独り占めできる夏休みも、悪くないですけどね」
画面の中のボスが派手に爆発して、クリアの文字が浮かび上がる。 それと同時に、春はごく自然に俺の肩口へと自分の頭を預けてきた。エアコンの風で冷えたはずの彼女の体温が、Tシャツ越しにじわりと熱を持って伝わってくる。
「……お前、ゲームばっかって文句言ってた割には、結構満喫してんじゃねぇか」
「文句じゃなくて、ただの事実確認です。……ねぇ先輩。次のイベントが開放されるまで、もう少し時間ありますよ?」
「……そうだな。次の配信はジャスト1時間後か」
画面右上のタイマーがじわじわとカウントダウンしていくのを見つめながら、俺はコントローラーをローテーブルの上に置いた。カツン、と小さなプラスチックの音が響くと、それまでゲームのBGMで満たされていた部屋に、エアコンの静かな稼働音だけが残される。
肩にかかる春の頭の重みと、そこから伝わるシャンプーの甘い匂い。ぶかぶかのTシャツの襟ぐりから覗く華奢な鎖骨が、すぐ目の前にあった。
「……何するんですか、1時間」
春は俺の肩に額を預けたまま、くぐもった声で呟く。画面を見ていた時には気づかなかったが、彼女の耳の付け根がほんのりと赤くなっている。
「何って……涼む。これ以上動いたら、せっかくの冷房が台無しになる」
「本当にどこまでもだらけきってますね。……じゃあ、私も動かないでおきます」
そう言って、春はさらに体重を俺に預けてきた。細い指先が、俺のTシャツの裾をきゅっと小さく掴む。いつもならここで「ほら、離れろ」と冗談めかして言うところだけど、今のこの、外の猛暑から完全に切り離された閉鎖空間では、その言葉が出てこなかった。
「……なぁ」
「なんですか?」
「お前、本当にどこも行かなくていいのか。その……友達とかに海とか誘われてんだろ、どうせ」
学校のマドンナである彼女のことだ。俺なんかとこうしてワンルームに引きこもっていなくても、夏休みの予定なんていくらでも埋まるはずだった。
春は俺の肩からゆっくりと頭を離すと、今度は俺の顔をじっと見つめてきた。少し冷えた彼女の手が、俺の腕にそっと触れる。
「誘われましたよ、いっぱい。でも、全部断っちゃいました」
「……なんでだよ」
「なんでって、決まってるじゃないですか」
春は少しだけ首を傾げると、いたずらが成功した子供のようなくしゃっとした笑顔を浮かべた。
「だって、他の人と行くお祭りより、この部屋で先輩とだらだらしてる方が、何倍も特別なんですもん。……それに、外じゃこんな格好できないですし」
そう言って、自分の着ているぶかぶかのTシャツの裾をきゅっと両手で掴み、少しだけ顔を赤らめる。
「……この格好の私を見ていいのは、先輩だけですからね?」
出会った頃のぎこちない距離感は、もうどこにもない。俺を翻弄するような、だけど言葉の端々に隠しきれない独占欲が滲むその態度に、俺の心臓がトントンと静かにテンポを上げていく。
「……お前、そういうセリフ、どこで覚えてくんだよ」
「独学です。なんですかドキッとしちゃいましたか」
ふふ、と満足そうに笑うと、春は俺の反応を楽しむようにさらに体を寄せてくる。 冷房の効いた部屋のはずなのに、彼女の言葉と体温のせいで、じわじわと体感温度が上がっていくような錯覚に陥る。
ワンルームの狭いベッドの上、貸したTシャツの襟ぐりから覗く白い肌。俺だけをまっすぐに見つめてくるその笑顔を見ていると、どうにも居心地が悪くなってくる。
「……おい」
「なんですかー?」
「……今度、……やっぱ、どっか行くか」
「え?」
俺がベッドの背もたれから体を起こすと、春は目を丸くしてパチパチと瞬きを繰り返した。
「さっきまで一歩出たら溶けるとか、有意義な青春とか言ってたのどこの誰ですか?」
「気が変わったんだよ。お前がそんな、他の誘い全部断ってまでここにいるって言うから、ちょっとは先輩らしいところ見せてやろうかと思っただけだ」
半分は本当で、もう半分は単なる照れ隠し。だけど春は、俺の本意を見抜いたのか、それとも単純に外へ連れ出してくれるのが嬉しかったのか、一瞬でその瞳をキラキラと輝かせた。
「本当ですか!? やった! 先輩の気が変わらないうちに、行きたいところ全部リストアップしますね!」
春はさっきまでの気怠げな様子が嘘のように跳ね起きると、自分のスマートフォンを引っ張り出して画面を高速でスクロールし始めた。完全に珍しいおもちゃを見つけた子供のテンションだ。
「えっと、まずは駅前にできた新しいカフェの期間限定の桃パフェでしょ、それから涼しい水族館! 夜はやっぱりちょっと遠出して、手持ち花火ができる海にも行きたいです。あ、あと浴衣着てお祭りも行きたいですし、プラネタリウムと、あ、レトロな純喫茶のメロンソーダも外せません!」
両手の指を折りながら、ノンストップで次から次へと夏休みの定番イベントが春の口から飛び出してくる。その勢いは、さっきのゲームのボス連戦よりも圧倒的に苛烈だった。
「待て待て待て、落ち着け。時間も金も有限だ。できることは限られてくる」
「何情けないこと言ってるんですか! 夏休みはまだ始まったばかりなんですから、明日以降の予定も全部いま埋めちゃいましょう! ほら、先輩、メモしてください!」
「いや、そんなに多いのはちょっと……」
「ちょっとじゃないです! 全部行きますからね、先輩!」
ベッドの上で身を乗り出し、フンスと鼻を鳴らして迫ってくる春。 どうやら、出不精の言い訳に使ったはずの「夏休み」は、俺が想像していたよりも遥かに大忙しの、そして最高に騒がしい季節になりそうだった。




