第16話:疑惑とフローラルの香り
激しかったゲリラ豪雨が嘘のように去り、雲の切れ間から差し込んだ夏の強い日差しが、トタン屋根を激しく熱し始めていた。
パチン、と重い金属音を立ててアルミの引き戸の鍵を開けると、外のムッとした熱気とともに、雨上がりの濃い草の匂いが倉庫の中に流れ込んでくる。
「……眩しいですね」
一歩先に外へ出た春が、眩しそうに細めた瞳を手のひらで遮りながら、小さく息を吐いた。
ついさっきまで跳び箱の上で、あんなに狂おしく俺の名前を呼びながら、身体を丸めて震えていた優等生。その面影は、もうどこにもない。
乱れていたお団子髪は綺麗に結び直され、泥のついていた体操服も、何食わぬ顔できちんと整えられている。ただ、首元にだらりと巻き直された赤組のハチマキの奥、白い肌に刻まれたいくつかの赤い痕だけが、あの暗闇の中での出来事が現実だったことを証明していた。
「先輩、髪。少し跳ねてますよ」
春はグラウンドの方へ歩き出しながら、すれ違いざま、他人に聞こえないほどの小さな声で囁いた。 その瞳には、いつもの底意地の悪い、だけど愛おしい小悪魔の笑みが浮かんでいる。
グラウンドからは、水はけの悪い土を整備する教員たちの声や、部活の居残り組の騒がしい声が、日常の音として戻ってきていた。
「じゃあ、私は係の報告に行きますね。……また、週末に」
すたすたと歩き去っていく彼女の、いつも通りに凛とした後ろ姿を見送りながら、俺はまだ熱を持ったままの右手のひらをそっと握りしめ、深く息を吸い込んだ。
少し遅れて、極力平然とした顔を装いながら自分のクラスの応援席テントへと戻る。グラウンドでは泥をいじりながら「まじ最悪だわー」と笑い合うクラスメイトたちが、散乱した用具を片付け始めていた。
「おう、おかえり。お前どこ行ってたんだよ」
テントの支柱に寄りかかっていた同じクラスの男子――いつも一緒にだべっている友人の一人――が、戻ってきた俺の顔を見て、ひらひらと手を振ってきた。
「どこって、入場門のテントの片付けだけど」
「ふーん? 片付けねぇ。……なぁ、お前さっき、一年の白石と一緒じゃなかった?」
ドクン、と心臓が跳ね上がる。 ポーカーフェイスを維持しようとするが、背中にじっとりとした冷や汗がにじむのが分かった。
「……白石がどうかしたのか?」
「いや、うちのクラスの奴がさ、雨上がりに体育倉庫のほうからお前と白石が別々に出てくるのを見たって言っててさ。あいつ、いつも誰かしら周りに人がいるような人気者だろ? そんな白石がお前と二人きりで倉庫エリアにいたとか、まじでどういう状況だよ」
友人は周囲に聞こえないよう、少し声を潜めながら俺の肩を肘で小突いてきた。その目は、羨ましさとゴシップを楽しもうとする半信半疑のニヤついたものだった。
「お前ら、まさか裏で付き合ってたりすんの?」
「いや、違う。ただあいつもあっちのテントの片付けをしてて、雨が酷くなったからたまたま同じタイミングでそこに雨宿りしただけだ」
一気にまくしたてるように言い訳を並べると、友人は「あ、そう……?」と、なおも疑わしげに目を細めた。
「まあ、あのどしゃ降りじゃ雨宿りくらいするか。……でもさ、お前、なんかめちゃくちゃ顔赤いぞ? それに、その服から漂ってくるすげえ良い匂い、何?」
「……走ったから暑いだけだ。匂いなんかしてないだろ」
俺は慌てて自分の体操服の襟を掴んで顔を背けた。 雨の匂い、そして埃とゴムの匂いに混じって、俺の身体にべったりと染みついた、白石のあの甘いフローラルの香りが、自分でもはっきりと自覚できるほど立ち上っている。
「じゃあ、俺、あっちの片付け手伝ってくるわ」
逃げるように友人の横をすり抜け、グラウンドへと歩き出す。
本部テントの近くから上がった声を口実に、俺は早足で泥濘の残るトラックへと向かった。作業に没頭して、とにかくこの高鳴る鼓動と、身体に染みついた甘い香りを外気にさらして消したかった。
だが、割り当てられたテントのロープを引っ張ろうとした、その時。
「じゃあ、この後のプログラム変更は放送係に伝えておきますね」
すぐ近くから、鈴が転がるような、よく通る声が聞こえた。
ハッとして顔を上げると、そこには数人の女子生徒や教員に囲まれ、テキパキと指示を確認している春の姿があった。 泥の跳ねたグラウンドの上でも、彼女の周りだけがパッと明るくなったかのように、いつも通りの「みんなの人気者」として完璧に振る舞っている。
さっきまで薄暗い倉庫の奥で、手首を縛られて俺にめちゃくちゃにされていた少女と同一人物だなんて、この場の誰も信じないだろう。
「白石さん、ありがとう! 助かったよー!」
「はーい、お疲れ様です!」
ひと通りのやり取りを終え、周りの連中が別の片付けに向かった瞬間だった。
係の書類を抱えた春が、こちらへと歩き出してくる。 すれ違う直前、彼女は周囲に視線がないことを完璧に見計らって、不意に足を止めた。
「……あ」
すれ違う瞬間、距離はわずか数十センチ。 もちろん、彼女は俺の方を向くことも、歩みを止めることもしない。周りの誰が見ても、ただの「他学年、あるいは別クラスの男子とすれ違う瞬間」でしかなかった。
だが、俺の真横を通り過ぎるその一瞬。
春は、書類を抱えていた左手の指先で、首元にだらりと巻いた赤組のハチマキを、まるで歩く反動で偶然動いてしまったかのように、ほんの少しだけ引き下げた。
ハチマキの隙間から一瞬だけ覗く、まだ熱を持った赤紫色のキスの痕。
心臓がドクンと嫌な音を立てる。 動揺して固まる俺の視線を確信犯で捉えたまま、春はすれ違いざまに首をほんの少しだけ傾げ、前を向いた綺麗な横顔のリップラインから、小さな桃色の舌先をペロッと、俺にしか見えない角度で悪戯っぽく覗かせた。
声には出さない。ただ、すれ違いざまにふわっと鼻腔をくすぐったフローラルの香りと、そのあざとすぎる一瞬の表情だけでそう告げて、彼女は何食わぬ顔ですたすたと通り過ぎていく。
「っ……!」
背中に走る強烈な戦慄と、ジリジリと焼けるような独占欲。 学校中の視線が集まるグラウンドのど真ん中で、俺たちは誰にも見えない秘密の糸を、さらに強く、固く結び合わせていた。




