第14話:濡れた体操服と、雨音に消した吐息
朝からまとわりつくような生ぬるい湿気に満ちていた空は、午後に入ると同時に、いよいよ世界の終わりを予感させるような濃い黒雲に覆い尽くされた。
遠くで低く響く雷鳴を合図に、天の底が抜けたような激しい雨がグラウンドへと一気に突き刺さる。
乾いていた土の粒子は容赦ない水圧に叩き潰され、赤茶けた濁流となって足元をすくい始めた。競技を続けていた生徒たちの足元で泥飛沫が激しく舞い上がり、瞬く間に白線は溶け、グラウンドは底なしの泥の海へと姿を変えていく。
梅雨の終わりを告げる、あまりにも容赦のないゲリラ豪雨。
「全員、応援席のテントか体育館へ避難しろ!」
マイクを通した教員の怒号が響く中、生徒たちは歓声を上げながらすし詰め状態のテントへと逃げ込んでいく。
そんな喧騒を余所に、俺はクラスの用具を片付けるため、グラウンドの最奥にある入場門用の大型テントへと走っていた。 雨粒が激しく視界を遮る。競技が止まった今、グラウンドの隅にあるこの場所には誰も来ない。
ブルーシートの垂れ下がるテントの裏へ滑り込むと、激しい雨音がシートを叩く不気味な低音へと変わった。ふぅ、と息を吐いて濡れた前髪を上げた、その時だった。
「……奇遇ですね、先輩」
薄暗いテントの最奥、支柱に背を預けるようにして、その人影は立っていた。
赤組のハチマキを首にだらりと巻き、ずぶ濡れになった体操服姿の春だった。 いつも綺麗に整えられている少し明るい髪は、雨を吸ってしっとりと彼女の白い首筋や鎖骨に張り付いている。濡れた白い生地が容赦なく肌に張り付き、下着の淡い輪郭をいやに生々しく浮かび上がらせていた。
「春……、お前、なんでここに」
「係の仕事の片付けですよ。先輩と同じです」
数十メートル先にある応援席からは、生徒たちの「うわ、すげえ雨!」「最悪、服透けたんだけど!」という騒がしい声や笑い声が、雨の壁を透かして確かに聞こえてくる。 誰かがふとこちらに視線を向ければ、それだけで一発でアウト。そんな距離。
だが、春の瞳には焦りなんて微塵もなかった。誰も見ていないことを確信すると、彼女の唇がずるそうに、ゆっくりと弧を描く。
「……そんなにジロジロ見て。どこが透けてるか、品定めでもしてるんですか?」
「……違う」
「違わないですよ。目が、すっごくエッチですもん」
春はクスクスと喉を鳴らすと、じり、と泥のついた体育館シューズを一歩進めてきた。 逃げようとする俺の腕を、雨で冷え切った彼女の指先がぎゅっと掴む。そのまま、引っ張られるようにして、テントのシートと支柱に挟まれた、外からは完全に死角になる狭い隙間へと引き込まれた。
「ちょ、待て、誰か来たら……」
「静かに。声を出したら、それこそバレますよ?」
至近距離。 春の身体から、雨と汗の匂いに混じって、あの甘いフローラルの香りが熱気となって立ち上ってくる。 彼女は俺の胸に濡れた身体をぴったりと押し当ててくると、寒さに小さく肩を震わせながら、上目遣いで俺を睨んだ。
「……学校のこんな真ん中で、こんなに近くにいるの、なんだかゾクゾクしますね」
平日の、それも全校生徒が集まる体育祭の真っ只中で。 表向きは一言も口をきかない関係の俺たちが、今、他人の目を盗んで一つのシートの裏に隠れている。資料室の時とは違う、いつ誰に見つかるか分からない圧倒的なスリルに、胸の奥が大きく波打ち、全身の血流がカッと熱くなるのが分かった。
春は俺の動揺を楽しむように、ストッキングも穿いていない、泥が少し跳ねた生足の太ももを、俺の足の間にすっと割り込ませてきた。 濡れた体操服の薄い生地越しに、彼女の胸の柔らかい感触がダイレクトに胸板へ伝わってくる。
「先輩、心臓の音、外の雨より響いてますよ?」
悪戯っぽく囁きながら、春は俺の首筋に冷たい指先を這わせ、その指を髪の奥へと潜り込ませてきた。
遠くで、また別のクラスの生徒たちが走っていく足音が聞こえた。 見つかるかもしれないという最悪の恐怖と、泥と雨にまみれた彼女の圧倒的なエロティシズム。その二つが脳をめちゃくちゃにかき混ぜていく。
「……責任、取ってくあげましょうか?」
耳元で、小さく、だけど確実な熱を持った声が鼓膜を揺らした。
「……っ、何言って」
「だって先輩、さっきから全然、私から目を離せてないじゃないですか」
春は耳元で低く囁くと、クスクスと吐息を俺の首筋に吹き付けた。その擽ったさと、鼓膜にダイレクトに響く甘い声に、背筋をゾクゾクとした衝動が駆け抜ける。
彼女の冷たい指先が、俺の濡れた前髪をそっと掻き分けた。露わになった俺の目を、水分を帯びて潤んだ春の瞳が、至近距離から真っ直ぐに見つめてくる。いつもは隙のない優等生の瞳が、今は獲物を追い詰めた肉食獣のような、獰猛な熱を帯びていた。
「私の部屋で優しくしてくれた時のお返しです。……でも、ここは学校ですから。声、絶対に我慢してくださいね?」
そう言った瞬間、春は俺の胸元に回していた手を滑らせ、俺の体操服の裾から、脇腹のほうへとその冷たい手を滑り込ませてきた。
「……っ!」
思わず声を上げそうになり、慌てて奥歯を噛み締める。 雨で冷え切った彼女の指先が、俺の体温に触れてじわりと熱を帯びていく。その生々しい指の動きが、腹筋をなぞり、ゆっくりと胸元へと這い上がってくる。
それと同時に、春は自分の身体をさらに俺へと押し付けてきた。 濡れて薄くなった体操服の生地同士が擦れ合い、彼女の小ぶりで、だけど確かな柔らかさを持つ胸の感触が、俺の胸板に狂おしいほどダイレクトに押し潰される。
すぐ耳元を掠めていくのは、激しい雨音と、それ以上に大きく響く春の小さく震える吐息。
「……んっ……、先輩、あったかい……」
挑発しているはずの春の口からも、熱を孕んだ小さな甘い声が漏れた。 泥の跳ねた彼女の生足が、俺の太ももにさらに深く絡みついてくる。外は激しい雨に冷やされているはずなのに、このブルーシートに囲まれたわずか数十センチの空間だけは、肌が焦げてしまいそうなほどの熱気に満たされていた。
「おい、本当に誰か来たら……っ」
「……来ませんよ。みんな、雨に夢中ですから」
春はそう言って、俺の首筋にそっと唇を寄せた。キスをするわけじゃない。ただ、柔らかい唇が、俺の脈打つ頸動脈のあたりをじわりと圧迫するように触れる。そのかすかな刺激だけで、頭の芯がジリジリと痺れていく。
数十メートル先、応援席のテントから生徒たちの歓声が上がった。どうやら雨の中、誰かがグラウンドで泥まみれになってはしゃいでいるらしい。
その賑やかな歓声が聞こえるたびに、「今ここに誰かが来たら終わりだ」という破滅的な快感が、俺の理性をめちゃくちゃにすり潰していく。
春は俺の首筋に顔を埋めたまま、背中に回した手にぎゅっと力を込めた。
「……私のこと、もっとめちゃくちゃにしたいって、そういう顔してますよ、先輩」
完全に主導権を握られたまま、俺はただ、彼女の纏うフローラルの香りと、雨の冷たさ、そして生々しい体温の嵐の中で、激しく高鳴る心臓を抑えつけることしかできなかった。
だが――じわりと太ももを這い上がってくる彼女の生足の熱に、俺の理性が焼き切れるのも時間の問題だった。
「っ、おい、春、お前……いい加減にしろ」
声を潜めたまま、俺は彼女の細い手首を掴んで、強引に身体を離した。 不満げに眉をひそめる春の、濡れて赤くなった唇が微かに開く。
「……やめるんですか? 先輩、もうそんなに身体が熱くなってるのに」
「ここでできるわけないだろ。……来い」
他人のふりも、先輩としての体裁も、激しい雨音の中に全て放り捨てた。 俺は彼女の手首を掴んだまま、入場門テントの裏から飛び出した。視界を遮るほどのどしゃ降りの雨の中、誰にも見られていないことを祈りながら、グラウンドの隅にひっそりと佇む、色褪せたプレハブの建物へと泥を跳ね上げて走る。
体育倉庫だ。
重いアルミ製の引き戸に手をかけ、一気に横に滑らせる。錆びついた金属音が雨音に掻き消され、俺たちは滑り込むようにしてその薄暗い空間へと転がり込んだ。
バタン、と戸を閉めた瞬間、世界から音が消えたように静寂が訪れる。
トタン屋根を叩く激しい雨音だけが反響する倉庫の中は、跳び箱やマットの、乾いた埃とゴムの匂いが立ち込めていた。外界から完全に遮断された、光の届かない二人だけの密室。
「はぁ、はぁ、……っ」
お互いの荒い呼吸が、狭い空間に重なり合う。 手首を掴まれたままの春は、乱れたお団子髪から滴を滴らせながら、じっと俺を見上げていた。その瞳は、逃げ惑う俺をここまで追い詰めたという、狂おしいほどの愉悦と期待に濡れている。
「……ここまで連れてきて、何もしないなんて言いませんよね?」
薄暗闇の中で、春が小さく、妖艶に微笑む。
学校の、誰の手も届かない暗闇の奥。 外で降り続くゲリラ豪雨が、俺たちの逃げ場を完全に奪っていた。




