第13話:誰の目も気にしないでいい場所で
週末、外は相変わらずしとしとと陰鬱な雨が降り続いていた。
図書室で渡されたあのメモの後、彼女からメッセージで送られてきた住所。そこを頼りに向かうと、閑静な住宅街に佇む小綺麗なマンションにたどり着いた。
エントランスのインターホンを押し、呼び出し音を鳴らす。 電子音が数回響いた後、画面越しに「はーい」と彼女の声がして、自動ドアのロックがカチャリと外れた。 エレベーターで彼女の住む階へと上がり、静かな廊下を進んで、指定された部屋の前のインターホンをもう一度押す。
今度はすぐに、内側から鍵が開く小気味いい音が響き、ドアがゆっくりと開いた。
「お待ちしていました、先輩」
出迎えてくれた春は、学校での完璧な制服姿でも、いつもの大人びたデート服でもなかった。 少しオーバーサイズの柔らかいニットのカーディガンに、短いショートパンツ。少し明るい髪をゆるくお団子にまとめたその姿は、無防備で、どこか幼く見えて、一瞬だけ心臓が変な跳ね方をした。
通された彼女の部屋は、フローラルの甘い香りと、女の子らしい清潔感に満ちていた。
「建前」は、来週に迫った期末テストの勉強会だ。
ローテーブルの上には、すでに参考書とノートが広げられている。
「本当に、全然勉強が手につかなかったんですよ? 先輩のせいで」
床に並んで座るなり、春は不満げに唇を尖らせて俺を睨んだ。だが、その瞳には平日の学校で見せるような冷徹さはなく、資料室で見せた野心的な愉悦もない。 ただ大好きな相手に拗ねてみせている、等身大の女の子の瞳だった。
「……悪かったよ」
俺が苦笑いしながらシャープペンシルを握ると、春はじり、と不自然なほど距離を詰めてきた。 お互いの肩と二の腕がぴったりと触れ合う。衣服の薄い生地を通して、彼女の柔らかさと、驚くほど高い体温がダイレクトに伝わってきた。
「近すぎだろ」
「いいじゃないですか、ここは学校じゃありません。……誰も、見てませんよ?」
春はクスクスと嬉しそうに喉を鳴らすと、ノートに向けるフリをしながら、机の下ではなく、机の上で、そっと俺の手の甲に自分の手を重ねてきた。 白くて、驚くほど華奢な指先。それが俺の指の隙間に滑り込み、自然と恋人繋ぎの形にガッチリと噛み合わされる。
「ちょっ……これじゃ文字が書けない」
「私は左利きですから問題ありません。先輩は左手でノートを押さえて、右手で解けばいいじゃないですか」
完璧な屁理屈だった。 繋がれた手からは、じっとりとした梅雨の湿気を吹き飛ばすような、純粋で甘い熱が伝ってくる。
春は俺の手をぎゅっと握りしめたまま、すとん、と俺の肩に自分の頭を乗せてきた。まとめた髪から、図書室の時よりもずっと濃厚なフローラルの香りが鼻腔をくすぐる。
「……本当に、意地悪です」
肩に預けられた頭から、小さく、掠れた声が漏れた。
「学校であんな風に他人のふりされるの、本当はすっごく寂しいんですから。……だから、週末くらい、こうやって私でいっぱいにさせてください」
いつもは俺を手のひらで転がし、優位に立って煽ってくる小悪魔が、今はただの寂しがり屋の恋人のように俺にしがみついている。そのあまりのギャップと愛おしさに、胸の奥が締め付けられるように熱くなった。
俺は繋いでいない方の手で、彼女の少し明るい髪をそっと撫でる。 春は嬉そうに身体をさらに密着させ、俺の胸元に顔を埋めるようにして、深く、満足そうな息を吐いた。
外を叩く雨の音だけが、静かな部屋に響いている。 キスも、その先の背徳的な行為も何もない。だけど、ただお互いの体温を分け合うだけのこの時間が、どんな行為よりも甘く、俺たちの心を深く繋いでいくのが分かった。
どのくらいの時間、そうしていただろう。
肩にかかる春の重みと、じわりと馴染むような温かさが、心地いい微熱となって俺の身体に溶けていく。繋いだ手からはトクトクと彼女の小さな脈拍が伝わってきて、言葉以上の愛おしさが胸をトントンと叩くようだった。
「……先輩」
胸元に顔を埋めたまま、春がくぐもった声で俺を呼んだ。
「ん?」
「私、今、すごく幸せです。……こうやって、誰の目も気にしないで先輩を独り占めできてるので」
顔は見えない。けれど、俺のシャツを小さく握りしめる彼女の指先に、ぎゅっと力がこもる。
「だから今日、ここに先輩が来てくれて、本当に嬉しいです。……もし来てくれなかったら、どうしてやろうかと思ってました」
少しだけいつもの小悪魔めいた声音が混じる。けれど、そこには学校で見せるような冷徹な計算はカケラもなくて、ただ大好きな相手に全力で甘えているのが伝わってきた。
「……春」
名前を呼ぶと、彼女の身体がピクリと跳ねた。
俺は繋いでいた右手に少しだけ力を込め、彼女の指を包み直す。
「俺も、同じだよ。学校で他人のふりをしてる時、お前のことばっかり考えてる。今日、お前の部屋に来られて良かった」
そう告げると、春がゆっくりと顔を上げた。 上目遣いに俺を見つめるその瞳は、少しだけ潤んでいて、頬がほんのりと桜色に染まっている。
「本当に、私だけで頭がいっぱいでしたか?」
「ああ」
「……なら、合格です」
そう言って、春は満足そうにふにゃりと口元を緩めた。いつもは張り詰めている優等生の仮面が、今は完全に溶けてしまっている。その無防備な笑顔があまりにも可愛くて、俺は思わず小さく吹き出してしまう。
「ほら、合格なら勉強の続きするんだろ? 全然進んでないぞ」
「もう、雰囲気を壊すのが上手なんですから、先輩は」
春は呆れたようにため息をついたけれど、俺の肩に頭を乗せたまま、開いたままの参考書に視線を落とした。
「じゃあ、ここ教えてください。先輩のせいで手がつかなかった、ここの数式」
「はいはい。どれだ?」
繋いだ手はそのままで、俺たちは不器用に進まない勉強会を再開した。 窓の外では、相変わらずしとしとと雨が世界を濡らし続けている。けれど、この部屋の中に流れる空気だけは、どこまでも優しく、そして2人だけの確かな熱で満たされていた。




