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『サイコパスな幼なじみギャルが俺を好きすぎて、GPSを持たせようとしてくる。義妹も先輩も倫理観がバグっているので、俺の青春が毎日修羅場です』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第6話 幼なじみギャルは、怒り方が静かすぎる

 翌朝、リカはいつもより機嫌がよかった。


 通学路の曲がり角に立っていた彼女は、俺を見るなり、にこっと笑ってスマホを掲げた。


「昨日の写真、見た?」


「写真?」


「影のやつ」


「ああ」


 昨日の放課後、駅前で撮った俺とリカの影の写真。


 正直に言えば、見た。


 夜、寝る前に一度だけ見た。


 ただの影だった。夕方の歩道に伸びた、二人分の影。顔も映っていない。制服の形がぼんやり分かるくらいで、写真としては地味だ。


 けれど、その地味さが妙に記憶に残った。


 位置共有ではない。行動記録でもない。リカが「思い出」として撮った写真。


 それを思い返すと、悪くないと思ってしまった。


 だから俺は、少しだけ目を逸らして答える。


「まあ、見た」


「何回?」


「回数を聞くな」


「一回?」


「……一回」


「ほんと?」


「本当」


「スクショした?」


「写真をスクショする意味が分からない」


「保存した?」


「送られてきた時点で残ってるだろ」


「お気に入り登録は?」


「してない」


「じゃあ今日する?」


「しない」


「即答ひど」


 リカは唇を尖らせた。


 その様子は、昨日までの妙な緊張が少し抜けているように見えた。


 普通の寄り道。


 八十八点。


 その点数が、リカの中ではよほど嬉しかったらしい。


 今日は朝から距離もわりと普通だった。歩幅を合わせようとしすぎてロボットみたいになることもない。俺の顔色を見て「昨日ちゃんと寝た?」とは聞いてきたが、それもまあ、いつもの範囲だ。


「悠真、今日は何時に寝た?」


「十二時前」


「ほんと?」


「ほんと」


「スマホは?」


「少し」


「影の写真見てた?」


「……」


「あ、当たった」


「当たってない」


「今の沈黙で当たりだよ」


「推理するな」


「嬉しい」


「勝手に喜ぶな」


 リカは本当に嬉しそうだった。


 こういうところは分かりやすい。


 怖いところもある。重いところもある。時々、こちらの常識が足元から崩れそうになる。


 けれど、喜ぶ時は妙に素直だ。


 駅前の写真を俺が見ていた。それだけで、リカは朝から軽くスキップでもしそうな顔をしている。


 こういうリカは、まあ、悪くない。


 そう思ったのが、たぶん油断だった。


     *


 事件というほどではない。


 あとから考えれば、本当にくだらない一言だった。


 昼休み前の移動教室。俺たちは理科室から教室へ戻る途中だった。廊下には同じように移動している生徒が多く、少し混んでいた。


 俺は翔太と並んで歩いていた。


 リカは少し前でレイナたちと話している。昨日の点数の話でもしているのか、レイナがやけに楽しそうに笑っていた。


「黒瀬、昨日の放課後、天宮と駅前いたろ」


 翔太が突然言った。


「見たのか?」


「見てない。レイナから聞いた」


「情報の流通が早いな」


「クラス内経済だからな。需要がある」


「俺たちの寄り道に需要を作るな」


「いや、あるだろ。GPSギャルと常識人幼なじみの成長記録」


「タイトルをつけるな」


 翔太が笑った。


 その時だった。


 後ろから、別の男子の声がした。


「黒瀬ってさ、天宮に管理されてんの?」


 振り返ると、同じクラスの男子が二人いた。


 名前は知っている。そこまで親しいわけではないが、会話したことはある。片方は中村、もう片方は田辺。どちらも悪いやつという印象はない。軽いノリで冗談を言うタイプだ。


 中村がにやにやしながら続けた。


「昨日も一緒に帰ってたんだろ? 天宮、黒瀬の現在地とか把握してそうじゃね?」


 田辺が笑った。


「分かる。黒瀬、スマホに監視アプリ入れられてそう」


 翔太の顔が、少しだけ固まった。


 俺はすぐに言った。


「入れてない」


「マジ? でも天宮ならやりそうじゃね?」


「やらない」


 俺が少し強めに言うと、中村は肩をすくめた。


「いや、冗談だって。そんな怒んなよ」


 怒ったつもりはなかった。


 ただ、なぜかその冗談は軽く流せなかった。


 リカのことをからかわれるのは、別に初めてではない。俺とリカの距離感はクラスでも目立つ。茶化されることもある。


 でも、今日のそれは、少し嫌だった。


 リカは確かに位置共有を提案した。感染経路を調べようとした。俺の交友関係に踏み込みかけた。


 けれど、今は直そうとしている。


 昨日だって、普通の寄り道をするために、妙なチェックリストまで作って頑張っていた。


 それを知らないやつが、笑いながら「監視アプリ」と言った。


 それだけ。


 たったそれだけなのに、少し腹が立った。


「黒瀬って、天宮に飼われてるみたいだよな」


 田辺が、悪気なく言った。


 その瞬間。


 廊下の空気が、少し冷えた。


 俺は最初、それが自分の感覚だと思った。


 けれど違った。


 少し前を歩いていたリカが、立ち止まっていた。


 レイナが「あ」と小さく声を漏らす。


 リカは振り返った。


 顔は笑っていた。


 いつものように、明るいギャルの笑顔だった。


 けれど、その目に温度がなかった。


「今、何て言った?」


 声は静かだった。


 本当に静かだった。


 廊下のざわめきの中でも、なぜかよく通った。


 田辺が一瞬だけ戸惑う。


「え? いや、冗談……」


「何て言ったか、聞いてるんだけど」


 リカは笑ったまま、一歩近づいた。


 俺は嫌な予感がした。


 リカが大声を出すなら、まだよかった。


 怒鳴って、睨んで、分かりやすく怒っているなら。


 けれどリカは、怒鳴らなかった。


 静かだった。


 静かすぎた。


 中村が気まずそうに笑う。


「天宮、悪いって。そんなマジになるなよ。ほんと冗談だから」


「冗談なら、人を飼うとか言っていいの?」


「いや、だから」


「悠真のこと、そういうふうに言ったよね」


 リカの声はまだ静かだった。


 翔太が俺の横で小さく息を呑む。


 俺は一歩前に出た。


「リカ」


 リカは俺を見なかった。


「悠真は黙ってて」


 その一言に、俺は固まった。


 リカが、俺にそう言うのは珍しかった。


 いや、正確には初めてかもしれない。


 普段のリカは、俺の反応を気にする。俺に嫌われたくない。俺がどう思うかを確認する。


 でも今のリカは、俺を見る余裕がなかった。


 俺を馬鹿にされたこと。


 俺との関係を雑に言われたこと。


 それが彼女の中で、どこかのスイッチを押してしまったのだろう。


 レイナが小さくリカの袖を引いた。


「リカ、落ち着きな」


「落ち着いてるよ」


「その声が落ち着いてない」


「怒鳴ってない」


「怒鳴ってないから怖いんだって」


 レイナの言葉に、田辺が少し青ざめた。


 中村も、もう笑っていない。


 リカは二人を見た。


「黒瀬悠真をそういう言い方で呼ぶの、次からやめて」


「……悪かったって」


「次から」


「分かった。悪かった」


「あと、悠真に謝って」


 田辺が俺を見る。


 その顔には、面倒なことになったという気まずさと、少しの苛立ちが混ざっていた。


「黒瀬、悪い。言いすぎた」


「……ああ」


 俺は短く答えた。


 それで終わりにするべきだった。


 終わりにしたかった。


 だが、リカはまだ二人を見ていた。


「言いすぎたっていうか、言っちゃダメなこと言ったんだよ」


「リカ」


 俺はもう一度呼んだ。


 今度は少し強く。


 リカはようやく俺を見た。


 その目を見た瞬間、俺は言葉を失いかけた。


 怒っている。


 けれど、その怒りの中に、ひどく冷静なものが混ざっている。


 相手を怒鳴るのではなく、どうすれば相手が二度と同じことを言わなくなるかを考えているような目。


 昨日まで俺と一緒に「可愛い嫉妬」を練習していたリカとは別人みたいだった。


 中村と田辺は、気まずそうにその場を離れた。


 レイナがため息をつく。


「リカ、ちょっと怖かったよ」


「怖かった?」


「うん。かなり」


 リカはレイナを見た。


 少しだけ表情が戻る。


「……そっか」


「黒瀬くんも困ってる」


 そう言われて、リカは俺を見た。


 俺は何と言えばいいか分からなかった。


 怒ってくれたこと自体は、嫌ではなかった。


 俺のために怒ってくれたのだと分かる。


 だが、あの静かな怒り方は、正直怖かった。


 リカが俺に「黙ってて」と言ったことも、胸に引っかかっている。


「悠真」


 リカの声が少し揺れた。


「ごめん。今の、嫌だった?」


 俺は答えに迷った。


 廊下にはまだ人がいる。周囲の何人かがこちらを見ていた。ここで話すことではない。


「あとで話そう」


 そう言うと、リカは一瞬だけ不安そうな顔をした。


「あとでって、怒ってる?」


「怒ってるわけじゃない」


「じゃあ」


「授業始まるから」


 チャイムが鳴った。


 まるで逃げ道みたいなタイミングだった。


 俺たちは、それぞれ教室へ戻った。


     *


 午後の授業中、リカは一度も振り返らなかった。


 それが、逆に気になった。


 いつもなら、俺が眠そうにしていないか、体調が悪くないか、何かしらの確認をしてくる。横目で見たり、休み時間に声をかけたりする。


 でも今日は、それがなかった。


 前を向いたまま、ノートを取っている。


 その背中が、少しだけ遠い。


 俺は授業の内容がほとんど頭に入らなかった。


 翔太が後ろから小さな紙を回してきた。


『放課後話せ。あれは放置すると面倒になる』


 俺は紙を見て、ため息をついた。


 分かっている。


 分かっているが、何をどう話せばいいのかが分からない。


 リカは俺のために怒った。そこは間違いない。


 中村と田辺の言い方が嫌だったのも本当だ。


 けれど、リカの怒り方はどこか危うかった。


 俺のためなら、相手を静かに追い詰めることをためらわない。


 そんな空気があった。


 これを流せば、たぶん次も同じことが起きる。


 もっと大きな形で。


 そしてその時、リカはたぶん「悠真のため」と言う。


 それが怖かった。


     *


 放課後。


 教室が少しずつ空いていく中で、リカは自分の席に座ったままだった。


 レイナが心配そうに声をかけている。


「リカ、今日一緒に帰る?」


「ううん。悠真と話す」


 レイナは俺を見た。


 俺が軽く頷くと、レイナは小さく息を吐いた。


「分かった。じゃあ先行くね」


「うん」


「二人とも、ちゃんと話しなよ。どっちかが勝った負けたじゃなくて」


「分かってる」


 リカがそう答える。


 レイナは少しだけ俺の横を通る時に、小声で言った。


「黒瀬くん、リカ、たぶん自分でもちょっと怖がってる」


「自分を?」


「うん。怒ると静かになる自分のこと」


 それだけ言って、レイナは教室を出ていった。


 残ったのは、俺とリカだけではない。教室の隅にはまだ数人いたが、距離はある。


 俺はリカの席の近くに立った。


「リカ」


「うん」


「場所、変えるか」


「……屋上前の階段?」


「そこなら人少ないか」


「うん」


 俺たちは並んで教室を出た。


 廊下を歩く間、リカは何も言わなかった。


 いつもなら、今日の点数を聞いてきたり、俺の歩幅を見たり、どうでもいい話を始めたりする。


 今日は静かだった。


 屋上前の階段は、放課後になるとほとんど人が来ない。屋上は普段施錠されているから、用事のある生徒も少ない。


 階段の途中に座ると、窓から斜めに夕方の光が差し込んでいた。


 リカは俺より一段下に座った。


 それも、いつもより距離がある。


「そんな離れなくてもいい」


 俺が言うと、リカは少しだけ苦笑した。


「今、近づいたら怒られそうで」


「怒鳴ったりはしない」


「うん。悠真は怒鳴らない」


「そうでもない」


「怒鳴る時ある?」


「たぶん、そのうち」


「それは嫌だな」


 リカは膝の上で手を組んだ。


 ネイルの色が、夕方の光で淡く見える。


「昼のことだけど」


「うん」


「まず、怒ってくれたのは……その、ありがたいとは思ってる」


 リカが顔を上げた。


「ほんと?」


「ああ。あの言い方は俺も嫌だったし」


「だよね」


 リカの声が少し強くなった。


「悠真のこと、あんなふうに言うの嫌だった。管理されてるとか、飼われてるとか。冗談でも嫌だった。悠真は物じゃないし、あたしだってそんなつもりで一緒にいるんじゃない」


「分かってる」


「分かってるなら」


「でも」


 俺が言うと、リカは口を閉じた。


「でも、あの怒り方は怖かった」


 言った瞬間、リカの肩が少し揺れた。


 俺は続ける。


「怒るなって言ってるんじゃない。嫌なことを嫌だと言うのはいい。でも、昼のリカは、相手をどうやって黙らせるか考えてるみたいに見えた」


「……」


「違うか?」


 リカはすぐには答えなかった。


 窓の外で、運動部の掛け声が聞こえる。


 しばらくして、リカは小さく言った。


「違わないかも」


 胸の奥が少し重くなる。


「やっぱり」


「うん。あたし、怒ると最初に考えちゃうんだよね」


「何を」


「どうしたら、相手が二度と同じことしなくなるか」


 静かな声だった。


「大声出すとか、感情で言い返すとかじゃなくて。相手が一番嫌がる言い方とか、周りにどう見られるかとか、どこまで言えば引くかとか、そういうのを先に考える」


 俺は黙って聞いた。


 リカは自分の手元を見ている。


「中学の時も、そうだった」


「中学?」


「悠真が倒れた時の話じゃなくて、もっと前。誰かに変なこと言われたり、嫌なことされたりした時、普通に怒れなかった。泣くとか、怒鳴るとか、できなかった。代わりに、どうしたら相手が困るか考えた」


「……」


「で、それをやると、だいたい相手は黙るんだよね」


 リカは笑った。


 でもその笑い方は、全然楽しそうではなかった。


「黙るけど、周りの子も引く」


「リカ」


「あたし、自分がちょっと怖い時あるよ。今日みたいに」


 レイナの言葉を思い出す。


 リカは自分でも怖がっている。


 その意味が、少し分かった気がした。


「でも、悠真のことになると止まらない」


「止まらないじゃ困る」


「うん。分かってる」


「俺のためって言えば何してもいいわけじゃない」


 リカは黙った。


 その沈黙が長かった。


 俺は、言いすぎたかもしれないと思った。


 けれど、撤回はしなかった。


 リカがゆっくり顔を上げる。


「悠真はさ」


「うん」


「あたしに、怒られたくなかった?」


「怒るのはいい」


「じゃあ、何が嫌だった?」


「俺が置いていかれたこと」


「置いていかれた?」


「ああ。俺のために怒ってくれてるはずなのに、俺の言葉が入らなかった。俺が止めても、『黙ってて』って言っただろ」


 リカの顔が、分かりやすく曇った。


「あれは……」


「傷ついた、というより、怖かった」


「……ごめん」


 リカはすぐに謝った。


 その声が小さくて、俺は少し胸が痛んだ。


「ごめん、悠真。あれは言っちゃダメだった」


「ああ」


「あたし、悠真を守る側のつもりになってた」


「守る側?」


「うん。悠真が言われて嫌だっただろうなって思ったら、悠真の代わりに怒らなきゃって思った。でも、途中から多分、悠真の気持ちじゃなくて、あたしが許せないって気持ちのほうが大きくなってた」


「……」


「それなのに、悠真のためみたいな顔してた」


 リカは、自分で言いながら少し苦しそうだった。


 俺は少し息を吐く。


 怒るつもりだった。


 ちゃんと線を引くつもりだった。


 でも、リカが自分でそこまで分かっているなら、言い方を少し変えなければいけない気がした。


「リカ」


「うん」


「俺は、お前に怒ってほしくないわけじゃない」


「うん」


「昼のことも、正直、言い返してくれて少し助かった部分はある」


「……ほんと?」


「本当。俺一人だったら、たぶん適当に流して終わってた」


「悠真、そういうとこある」


「あるな」


「だから心配」


「その心配は、今はいったん置け」


「はい」


 リカは素直に頷いた。


 少しだけ、空気が緩む。


「でも、俺のために誰かを追い詰めるのはやめてほしい」


 リカは目を伏せた。


「うん」


「冗談を言われたら、嫌だと言う。それで済むならそこで終わり。相手が謝ったら、そこで終わり」


「でも、また言われたら?」


「その時は先生なり、周りなり、ちゃんとした手段がある」


「ちゃんとした手段」


「相手の弱点を探すとか、周囲の評判を使うとか、そういうのはなし」


 リカが目を泳がせた。


「……そこまで考えてたって言ったら、怒る?」


「怒るというか、やっぱりと思う」


「やっぱりかあ」


「やっぱりだな」


 リカは両手で顔を覆った。


「最悪。あたし、昨日八十八点だったのに」


「点数の問題か?」


「だって、昨日ちょっと普通に近づいたと思ったのに、今日また怖いほうに戻った」


「戻ったというか、別の問題が出ただけだ」


「それ、慰めてる?」


「たぶん」


「下手」


「悪かったな」


 リカは手を外して、少しだけ笑った。


 その笑顔は弱かったが、昼の冷たい笑顔ではなかった。


「今日、何点?」


「聞くのか」


「聞く。怖いけど」


 俺は少し考えた。


 点数で片づけていい話ではない。けれど、リカにとってそれは分かりやすい目印なのだろう。


「四十点」


 リカがしょんぼりした。


「低い」


「昼の件で大幅減点」


「うん」


「でも、今ちゃんと話したから加点」


「それで四十?」


「最初は二十だった」


「うわ」


「だいぶ上がった」


「喜びにくい上がり方」


 リカはそう言って、少しだけ笑った。


 俺も笑った。


 けれど、まだ終わりではない。


「リカ」


「うん」


「明日、中村たちに何かするなよ」


 リカの目が一瞬だけ泳いだ。


「……何かって?」


「謝らせたし、それで終わり。連絡先を調べたり、過去の発言を掘ったり、レイナ経由で評判を集めたりするな」


「……」


「考えてたな」


「ちょっとだけ」


「やめろ」


「うん」


「本当に」


「うん。やめる」


 リカは俺をまっすぐ見た。


「悠真が嫌なら、しない」


「俺が嫌だからじゃない」


「え?」


「リカが、そういうことをしない人でいてほしいから」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 リカは固まっていた。


 それから、ゆっくりと顔を赤くする。


「……それ、ずるい」


「何が」


「そういう言い方されたら、守りたくなるじゃん」


「何を」


「悠真の期待」


 今度は俺が黙る番だった。


 リカは少し照れたように笑う。


「分かった。しない。悠真が嫌だからだけじゃなくて、あたしがそういうことしないほうが、悠真が安心するなら」


「ああ」


「でも、また言われたら?」


「その時は、まず俺に言え」


「悠真に?」


「そう。俺のことなら、俺にも怒る権利がある」


 リカは目を丸くした。


 そして、少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「そっか。悠真のことなのに、悠真を置いていったらダメだよね」


「そういうこと」


「難しい」


「知ってる」


「でも、やる」


「ああ」


 窓の外から、吹奏楽部の音が聞こえてきた。


 うまく揃っていないトランペットの音。それを追いかけるように、別の楽器が鳴る。


 放課後の学校は、いつもどこか騒がしい。


 その中で、俺たちは階段に座っていた。


 少し前なら、リカは俺の隣にぴったり座っていたかもしれない。今日は一段下にいる。


 距離はある。


 けれど、たぶん、今はこれくらいでいい。


「悠真」


「ん?」


「明日、普通に迎えに行っていい?」


「いい」


「ほんと?」


「ああ」


「今日、四十点なのに?」


「点数と登校は別だろ」


「そっか」


 リカは少し安心したように息を吐いた。


「よかった」


「そんなに不安だったのか」


「うん。悠真に怖いって言われたから」


「怖い時はある。でも、それで全部嫌になるわけじゃない」


「……ほんと?」


「ほんと」


 リカは小さく笑った。


「悠真、そういうとこ、ほんとずるい」


「今日二回目だぞ」


「何回でも言う。ずるい」


「褒めてるのか?」


「たぶん」


「たぶんか」


 リカは立ち上がった。


「帰ろっか」


「ああ」


 階段を下りる途中、リカは俺の少し後ろを歩いた。


 その距離が、いつもより静かだった。


 でも、悪い静けさではない。


 考えている静けさ。


 たぶん、今日のリカはたくさん考えている。


 俺も同じだった。


     *


 その夜、リカからメッセージが来た。


『今日はごめん』


 いつもの絵文字も、軽い言い回しもない。


 俺はベッドに座り、少し考えてから返信した。


『ちゃんと話せたからいい』


 すぐに既読。


『明日、普通におはようって言っていい?』


『言っていい』


『顔色確認は?』


『軽めなら』


『歩幅は?』


『ほどほどなら』


『位置共有は?』


『なし』


 少し間が空いた。


『だよね』


 そのあと、もう一通。


『今日のあたし、怖かった?』


 俺は指を止めた。


 嘘をつくのは簡単だ。


 怖くなかったと言えば、リカは安心するかもしれない。


 でも、それはたぶん違う。


『怖かった』


 送信する。


 少し胸が痛んだ。


 既読はすぐについたが、返信はしばらく来なかった。


 数分後。


『そっか』


 短い一文。


 また少し間が空く。


『でも、ちゃんと言ってくれてありがと』


 俺は息を吐いた。


『明日も来るんだろ』


『行く』


『じゃあ寝ろ』


『悠真も』


『寝る』


『おやすみ』


『おやすみ』


 スマホを置いて、部屋の明かりを消す。


 暗くなった天井を見ながら、昼のリカの顔を思い出した。


 笑っているのに、笑っていない目。


 静かな怒り。


 俺に「黙ってて」と言った声。


 怖かった。


 でも、それだけでは終わらなかった。


 階段で話したリカは、自分の怖さをちゃんと見ていた。逃げずに聞いていた。低い点数を受け止めて、それでも明日また来ると言った。


 普通の恋愛なら、こんなことを一つひとつ話し合わないのかもしれない。


 でも、俺とリカの間では必要なのだ。


 リカはたぶん、これからも間違える。


 重くなる。怖くなる。距離を間違える。


 そのたびに、俺は嫌なことは嫌だと言わなければいけない。


 面倒だ。


 かなり面倒だ。


 けれど、明日の朝、曲がり角にリカがいないところを想像すると、それはそれで落ち着かなかった。


 俺は目を閉じる。


 明日、リカはきっといつもの場所にいる。


 少し気まずそうに、でも笑って。


 おはよう、悠真。


 そう言うのだろう。


 その時、俺はたぶん、いつも通り返す。


 おはよう、と。




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